「クローズアップで見れば喜劇」翔んで埼玉 琵琶湖より愛をこめて タニポさんの映画レビュー(感想・評価)
クローズアップで見れば喜劇
「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ」。
喜劇王、チャールズ・チャップリンの言葉である。
では逆に、「クローズアップで見れば喜劇」の場合、ロングショットで見ればそれは何なのだろう。
それは〝悲劇〟なのではないか。
「翔んで埼玉 琵琶湖より愛をこめて」は、クローズアップで幾つもの、〝ふざけ〟が見えた作品である。
だが、その〝ふざけ〟に〝おかしみ〟を見てとることは、ぼくには出来なかった。
前作では、ご当地にまつわる、「たしかにあるよね」と思える〝おかしみ〟が垣間見れた。それはそうした〝おかしみ〟を〝ふざけ〟で混ぜ込まないバランスのように感じた。幾らか性的な表現で過剰になりつつも、それはそれとして、〝おかしみ〟を盛り立てる範疇に思えた。
今作において、残念なことに感じたのは、その〝ふざけ〟が過剰過ぎて、〝おかしみ〟が全く消え失せてしまったこと、また、ご当地にまつわる要素、ネタというものを、作り手たちの主観から、当地性からは逸脱しているようにも感じる登場人物たちのキャラクター性のみに強く当て過ぎてしまい、そもそも表現としての目的とも思う「たしかにあるよね」という事柄が、殆ど消え失せてしまっていた。
そうして出来上がった物語の構成としては、大掛かりな〝よしもと新喜劇〟のように感じる。よって、最後には大阪の侵攻を鎮めたように見えた物語も、構成上は〝新喜劇〟なのだから、最後のコケを含めて大阪(といっても、かなり作り手たちによって形骸化された大阪)の勝利のようにも感じた。
ぼくは思うに、〝おかしみ〟は〝ふざけ〟れば出るものでは無い。
そこには、現実として、「え、なんで?」とか「それは違うんじゃないの?」という、見る人々、聞く人々の中の、落とし所のようなものに触れることが必要なのではないか。
そういう思いのある自分には、ただ大〝ふざけ〟している人々、それを止めることなく、何もバランスを感じさせることの無いものには、〝おかしみ〟を感じない。
良かった点としては、ご当地ムービーとして、出演された人々の思い出として良かったところもあったのではないか、ということを思う。
ただ、映画そのものとして思えば、内容としても矛盾があり、最早、埼玉の話でも何でも無かった、ことを思うと、そういうボケなんですと例え言われても、突っ込む気にもならなかった。
ただ見ていて疲れた。
そうしたことを後で振りかえっても、そういう今でも、あれは〝悲劇〟だったんじゃないかと、感じた。