流浪の月のレビュー・感想・評価
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声無き声を語る映画。隠された暴力の痕跡が全編に散りばめられていた。
暴力について描かれた映画だった。
声をあげられない性暴力、妻や同居人女性への男からの暴力、ネットの暴力、週刊誌の暴力、養育拒否、母親からの子どもへの無関心と侮蔑、未成年同士の性暴力、公権力の暴力。
前向きに逃げる、という言葉を思い出した。
ぼろぼろになる横浜流星が良かった。彼の行動は父親譲りのものだったのだろう。あの家族の描き方が印象的だった。
切ない
重く、切なく物哀しい…
世間的に誘拐の加害者と被害者の2人。
周りはサラサを一方的に可哀想な子と決め付けて同情、フミをロリコン、変態等と罵る。
けれど2人にとって一緒にいた時間は自分らしくいられた大切な時間。
2人の間にある真実は、他人には理解されることはないんだろう。
観終わった後はなんとも言えない気分になりました。
表現的に分かりづらいかったので、原作を読んでみようかなと思いました。
この女優さん
↑以前に映画で初めて知りました。
本当に本当に演技で感心しました。
俳優さんも孤狼の血のインパクトがあり、そんでコレは逆に主演でありながら存在感を殺すような演技で、“印象を消す”ことに成功しております。
スゴいお二人で見応えあり
多部さんも年齢重ねていいお姉さんになりましたね〰️
李 相日の映画芸術を見せつけられた
雨、日射し、月、水中、水面、陰(闇)などを、ハイアングル、ローアングル、クローズアップを駆使し、時にハイスピードを用いた見事な撮影。
時空を行き交う巧みな編集。
説明を抑えた最低限の台詞。
映画とは、こういう創意に富んだ試みを注ぎ込んで、オリジナルな映像世界を紡ぎあげるべきものだ…と、改めて感じた。
撮影監督:ホン・ギョンピョ(パラサイト 半地下の家族)
編集 :今井剛(るろうに剣心 シリーズ)
アバンタアトルで少女と青年が出会う。
台詞はなく、雨のなかを歩く二人の様子はなにやら怪しげな事件の匂いがする。
ファミリーレストランで働く女性が登場する。この女性も訳ありな様子だが、説明はない。
この少女と女性が同一人物 サラサ の過去と現在だということが、やがて解る。
少女期のサラサ=白鳥玉季
現在のサラサ=広瀬すず
青年 フミ=松坂桃李
少女サラサと青年フミの不可思議な生活が描かれるが、現在に至るまでに何が起きたのか直ぐには明かされない。
現在のサラサには同居の婚約者(横浜流星)がいる。
サラサの生い立ちに“何か”があることが、二人の会話で仄めかされる。
現在のサラサが同僚(趣里)と深夜営業のカフェを訪れ、そこでフミを見つける。
徐々に明かされる過去の事件と、登場人物たちが抱える病巣。
私は以前から、松坂桃李と広瀬すずは推しの俳優だ。
演出だと思うが本作の二人は闇深い人物を淡白に演じていて暑苦しくない。が、しかし、間違いなく迫真の演技だった。
横浜流星に凌辱される広瀬すずを見るのは辛かったが、李監督は『怒り』で広瀬すずの純潔を奪った人だった…
横浜流星は言わば汚れ役。旬の二枚目でありながらこのチャレンジは松坂桃李に通じるものがある。
現在のフミの恋人を演じた多部未華子も、性欲のないフミを熱烈に誘う、テレビては見せない捨て身の演技を披露している。
サラサは親代わりの叔母の下で暮らしていて、従兄の少年から性的虐待を受けていた。やっと逃げ場をみつけたフミとの生活だったが、大人たちから認められる訳がない。
一方、母親からハズレ扱いされてきたフミは身体も心も正常に育たず、大人の女性と関係がもてない。幼女に性的な快楽を求める変質者ではないのだが、世間はそうは見ない。
この二人が心で寄り添う関係は誰にも理解されないのだ。
さて、不幸な人間や不運な人間には不幸な出来事や不運な出来事がついて回るものだ。それが運命なのか宿命なのか、当人たちにはどうしようもない悲しいスパイラルと言える。
フミが、警察官によって一緒にいた少女と引き離される時、 サラサとの時とは違って激しく抵抗し、「もうやめてくれ」と悲痛な叫びをあげる。
サラサは今度もフミを守れなかったと自責の念にかられる。
この映画は、そういう不幸の連鎖を見せることで、どこまでも成就しないサラサとフミの関係を「純愛」として描こうとしたのだろうか。
だが、この二人の関係はいわゆる男と女のそれではない。
純粋な愛なのか、相互依存なのか、とにかく二人は一緒にいるだけで安心が得られる関係なのだ。
人は、男と女には肉体関係が生じるものと理解していて、そうではない関係性を否定しなければ自分達の常識が崩壊してしまう。もし成人男性が幼女を手元に置いたなら、そこには幼女偏愛=性的虐待があるはずだと決めつけなければ、秩序が保てないのだ。
もしかすると、そういう常識人と思われる人間たちの許容範囲の狭さのようなものを描写したかったのだろうか。
横浜流星や趣里の役どころも病んだ人間だ。フミの母親(内田也哉子)もそうだ。
彼らは映画で描かれた範囲では社会的制裁を受けないが、身勝手に人を傷つける人たちだ。
人を傷つける人間が制裁を受けず、人を守ろうとした人間が制裁を受ける不条理な構図を見せたかったのかとも、この映画は思える。
ふたりだけのセイフティーネット
コメントしずらい作品である。それこそ下手な表現をすると偏見と差別につながってしまう。
原作も読んだが、映像にすると拡散された誹謗中傷も含めて、よりどきつくなる。
どんなにそれが純粋な愛情で、お互い心が通じて、守り合っているものであろうと、それが親、家族、夫婦、恋人といった定番の愛情関係でないとだめな世の中なんだ、と痛感する。
映像にすると、原作よりも一層、大人になりきれず、はずれものの青年が、少女に愛情を注いでしまったという誤解が生じてしまいがちだが、そういった見方はするべきではないと思う。
むしろ、定番の愛情関係がDV、モラハラ、虐待等で崩れ去っていく中、その愛情関係からはじき出された者同士が、ふたりだけのセイフティーネットを築き上げ、手探りで魂の救済を図ったんだという気がした。
逆に、愛情は親、家族、夫婦、恋人等で育むものという幻想に未だ縛られている私たち世間に、一石を投じた作品だという見方が当たっているかもしれない。その切り口だと、納得感でじわーっと充たされる。
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「多様性」から除外された男たちの話
見終わった直後の印象は「社会派映画かと思いきや、ギリギリアウトな恋愛映画」だった。
更紗と文はくっついちゃダメだろと思ってたら最終的にくっついちゃって、見てる側からするとカタルシスはあるけどモラル的にはダメだよなー、でも面白かったな、みたいな感想だった。
帰り道に色々考えてるうち、違う考えに行き着いた。
一見、この映画の主役は更紗みたいに見えるけど、ほんとの主役は文と亮じゃないかと。
ふたりは線対称の関係で、更紗はその「線」の役割じゃないかと。
文はどうやら小児性愛者、亮はDV癖のある男として描かれている。
ふたりともそれが社会的に許されないと自覚し、それを隠しながらなんとか生きている。が、どうしてもそれを抑えられなくなりそうな瞬間もある。
更紗はふたりの“それ”が発露する対象として存在している、とも言えるんじゃないか。
文と亮の違いは、自分の“それ”を自覚し、向き合ってきたか否か。
若い頃に(何もしていないとはいえ)大きな事件となり、否が応でも“それ”と向き合わざるを得なかった文と、“それ”を無視し続けながら「社会的な幸せ」を掴もうとし、踏み外した亮。
心の中に怪物がいたとしても、人はこの社会の中で暮らさなきゃいけない。
そのためには、“それ”を無視せず、正面から対峙して、飼い慣らし、しんどくても一緒に生きていくしかないんだろう。
「多様性」とか「自分らしさ」とか安易に言うけど、こういう危険だったり汚いとされる「自分らしさ」は社会から除外される。
それは社会の治安や安全のためにはしょうがないかもしれないけど、でも社会が見て見ぬ振りをしても、そういう人もいるんだよ。「いる」ことを否定しても、糾弾しても、いる。
「自分らしさ」を発揮すればたちまち加害者になってしまう人たち。
そういう人たちとどう付き合えばいいのか、社会はまだその術を知らない。
この映画だって、おそらくどうしようもなく受け入れられない人もいっぱいいるだろう。
そんなことは百も承知で、それでもこの映画を作った李相日監督の覚悟を感じたし、私は敬意を払いたい。
一方、すんごい面白かったからこそ、些細なことが気になった。
ああいう生き方をしてきた文が、あんなにきれいな筋肉のついた身体なのは違和感ある、とか、更紗はどうやってあのマンション借りられたんだ?とか。
あと、警察に連れて行かれた梨花ちゃんがその後どうなったか分からず、更紗も文も心配すらしないのか…と思ったけど、二人には梨花ちゃんを心配する余裕なんてないってことかなぁ。
ともあれ、重厚感のある素晴らしい日本映画がまたひとつ誕生したことを嬉しく思います。
決めるのは本人たちではなく社会の目
「何もなかった」って証明が
一番難しい。ほぼ不可能。
更紗の人生で
一番「自由」だったのは
後にも先にも
あの2ヶ月間だけだったんですよね。
その後は
「誘拐の被害者」となってしまったので。
あの時は良かったっていう思い出だけで
頑張って生きてこれたのかもしれない。
本人たちは何も悪くない
周りが悪かったことにしちゃってるだけ。
でもその「周り=社会」とは
切り離して生きていくことはできない。
受け入れる?わけにはいかない。
受け入れたからってどうにもならないし。
もし小5の女の子じゃなくて
男の子だったらどうなってたんだろう?
誘拐にはなるんだろうけど、
ここまでのことにはならなかったのかも。
あと、女性が小5女子をだったら、とか
女性が小5男子をだったら
また話は変わってくるのかな。
「何もなかった」だとしても
結局は社会が決めること
ってなってしまうのかな。
本人たちには何もできない。
決めるのは「社会の目」
ものすごく怖い。
ん-、そうじゃなくてさ
面白かった。映画の間中ずっと集中して見た。良かった。見る価値あり。
でも、松坂桃李の設定がさ、身体的な特徴で仕方なく(どうしようもなく)女性と深く関われないっていうのがさ、んー、なんていうか、そうなると「そりゃしょうがないようね」「めっちゃ特別な人だね」になってしまうわけで、納得するけど共感はできんわけで、んー、そうじゃない設定の方が良かったなあ。広瀬すずの設定の方が共感できた。身近に感じられた。
是非とも見て欲しい映画。すごく良かったよ。
もう一回観たい
すごく良かった。
みんな相手のことを理解してるつもりになってるだけ。
自分が見たいように見てるだけ。
真実は見えてない。
見えてない部分や知らないことだらけ…
ほんとそのとおり。
松坂桃李すごい。すずちゃんも良かった。
内田也哉子さんの存在感すごし!!
テーマは非常に重いですが時折ある幼女誘拐で本当にそういう人もいるんじゃないかと思ってしまった。
マスコミが騒ぎたてても真実は本人たちにしか知り得ないのです。
DVな彼氏もいそうな設定がすごくて見ていてハラハラした。
あと、私は松本市民なのだが方言監修の人に言いたいが松本はあそこまで方言はひどくない気もします。
映画用に誇張したのだろうか。
違和感が半端なかった。特に若い人はなまりとかないです。
子役の子が主人公の女の子を演じるだけではなく広瀬すずを意識した演技をしていたのもすごさを感じた。
まぁなんだかんだ言っても最後内田也哉子さんがすべて持っていった感がある!!
あの存在感は素晴らしい!!!
またぜひ映画にでていただきたいです。
あの唯一無二の存在感なんだろう。
映画の評価としてはよかったです!
感情揺さぶられる作品
最初から最後まで色々な感情が交差する奥深い映画でした。広瀬すずさん今回の作品で一皮剥けましたね!とても良かったです、彼氏から暴力を受けボロボロの状態で外を彷徨うシーンは鳥肌が立つほどの演技でした!
人間の想像力とは
映像は絵画ように美しく、主要な登場人物から語られる言葉は少ない。
そのため全体的に澄み切った冷たい池のような印象。
しかし内容は、人間の深みに入り込むような、観終わった後、心に重くのしかかってくるような作品。
画は美しいのに、テーマは重く暗い、このアンバランスさがこの映画の素晴らしい点だと思います。
先に小説を読んでいたので、ある程度、役のイメージはあったのですが、本当に役者の方々がお見事でした。
私の想像をはるかに超えて役を生きてらっしゃる、文や更紗や亮がそこで生きているのをみて、感動しました。
横浜流星さんの、弱くすがるような目と、愛情が憎しみと怒りに変わる目のギャップにはゾッとしました。
松坂桃李さんの顔つき、身体の線の細さも、想像する文そのもので、ラストの服を脱ぐシーンでは自然と涙が流れていました。
人間の想像力はなんと乏しいのか、と人間という生き物の悲しい限界をみたような気がしました。
そして、、、
文が池の上で浮いている姿がミレーのオフィーリアの絵とリンクして見えたのは私だけではないはず、、。
最高に気持ち悪くて、よかった。
この社会は気持ち悪いからだ。
人間は、他人が正しい道から足を踏み外して自分に害することが怖いから、秩序を作ったのだ。
人間は、自分が作った秩序・社会をあらゆる手段を使って、守っているふりができるよう頑張っているだけだ。
人間は、自分が歪んでいるのを意識せずに、他人が歪んでいることだけ思い込んでいるのだ。
そのような、
常に自分が正しいと思ってる人間、またその環境を作った人間社会がおかしい。
本当にやばかったのは、
そこのあなた(わたし・わたしたち)だ。
この映画を観て泣いた、怒った、悲しかった。
光はあった。
弱かったり、雲に隠れたりする月の光だった。
昼の太陽の光が美しくて眩しすぎた。
思った。
本当に求めるべき世界(ユートピア)は、
沢山の縛りがあり、一人一人の人間がその縛りを身に纏って丁寧に歩く場所ではない。太陽の光を十分に浴びて、自由に生きていける世界だ。
いつになったら、人間が、
互いを制約し、異類を排除するじゃなく、互いを理解し、許す世界が作れるだろう。
実は、世の中のどこにでもある哀しみ
週末に観に行こうと思ってたら、やってなくて。
なんか、もう、この辺りでは週末は劇場でやっておらず、平日のみなんです。(6月半ば)
仕方ないので、レイトショーで観てきました。
でも、それで良かったかも。
劇場を出てから喧騒の中を歩きたくなくなる。
すこし、想いを馳せていたい。
そんな映画でした。
別に感動はしません。
でも「人それぞれに、いろいろあるよな」って、
噛み締めてしまう映画なんですよね。
一見、悪者のような人物も、実は主観的には(然程は)おかしなことを言ってなくて。
それぞれ生きてきた中で、「そうならざるを得なかったんだろう」と思いながらみてました。
映画に出てきたどの哀しみも、どの狂気も、どの諦めも…
身に覚えもあるし、周りの人の中に見たこともある。
2時間半を越える作品ですが、没入しているうちに終わってしまいました。
あ、そうか。
この作品は、可能な限り、劇場で観た方が良いですね。
この映画には、静かに没入させてくれる空間が必要です。
「テレビでやったら見よう」とか思っちゃう作品もありますけど、この作品は、むしろ「テレビ放送でだけは見ない方が良い」かも知れません。
少し違和感を感じた
皆さんがこぞって絶賛している中、個人的には傑作というほどではありませんでした。
「怒り」や「フラガール」の李相日監督が本屋大賞を獲得した同名小説を映像化した本作。
確かに絶賛されてる理由は解ります。
「パラサイト 半地下の家族」や「バーニング」の撮影監督であるホン・ギョンピョの映像は美しいかつ、登場人物の心情をとてもよく現されていて秀逸でした。
特に、水の描写は登場人物の心情が表現されていました。
キャストの演技も良かったです。
広瀬すずの悲観的な表情の演技や松坂桃李の複雑な心情やどこか壊れそうなくらい儚げな演技を魅せてくれました。
中でも、横浜流星はDV男の役を繊細かつ狂気的に演じていてアイドル俳優の脱却が見事に脱却出来てました。
この作品は「事実と真実の矛盾」や「社会的に排除される人々の苦しみ」等、考えさせられるテーマを様々扱っていました。
主人公の世間における心苦しさや悩みもすごくよく描かれていました。
そして、この映画は「性愛ではない"愛"の形」を描いていました。
恐らく原作はその側面が強いのだと思います。
ただ、その「愛の形」を描くのなら、果たして広瀬すずと横浜流星の濡れ場、松坂桃李と多部未華子のキスシーンを長く映した事にだいぶ違和感を感じます。
劇中の登場人物の事を描くなら、さらっと渇いた感じに描いた方が良かったと思うのですが、あの感じではただの観客のサービスシーンという薄い感じが否めないです。
あと、松坂桃李の秘密については濁すような形で描写してましたが、原作は明確に病気について触れてるようです。
正直あの程度の描き方だと解りにくいし勘違いする人はいるかと思います。
それと全体的にまったりとしてて重く描きすぎてるように感じて、後半くらいから若干胃もたれしてしまいました。
とは言え、内容は考えさせられるものだったので、きっと原作は面白いのだろうと思います。
時間があったら読んでみようかなと思います。
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