「李 相日の映画芸術を見せつけられた」流浪の月 kazzさんの映画レビュー(感想・評価)
李 相日の映画芸術を見せつけられた
雨、日射し、月、水中、水面、陰(闇)などを、ハイアングル、ローアングル、クローズアップを駆使し、時にハイスピードを用いた見事な撮影。
時空を行き交う巧みな編集。
説明を抑えた最低限の台詞。
映画とは、こういう創意に富んだ試みを注ぎ込んで、オリジナルな映像世界を紡ぎあげるべきものだ…と、改めて感じた。
撮影監督:ホン・ギョンピョ(パラサイト 半地下の家族)
編集 :今井剛(るろうに剣心 シリーズ)
アバンタアトルで少女と青年が出会う。
台詞はなく、雨のなかを歩く二人の様子はなにやら怪しげな事件の匂いがする。
ファミリーレストランで働く女性が登場する。この女性も訳ありな様子だが、説明はない。
この少女と女性が同一人物 サラサ の過去と現在だということが、やがて解る。
少女期のサラサ=白鳥玉季
現在のサラサ=広瀬すず
青年 フミ=松坂桃李
少女サラサと青年フミの不可思議な生活が描かれるが、現在に至るまでに何が起きたのか直ぐには明かされない。
現在のサラサには同居の婚約者(横浜流星)がいる。
サラサの生い立ちに“何か”があることが、二人の会話で仄めかされる。
現在のサラサが同僚(趣里)と深夜営業のカフェを訪れ、そこでフミを見つける。
徐々に明かされる過去の事件と、登場人物たちが抱える病巣。
私は以前から、松坂桃李と広瀬すずは推しの俳優だ。
演出だと思うが本作の二人は闇深い人物を淡白に演じていて暑苦しくない。が、しかし、間違いなく迫真の演技だった。
横浜流星に凌辱される広瀬すずを見るのは辛かったが、李監督は『怒り』で広瀬すずの純潔を奪った人だった…
横浜流星は言わば汚れ役。旬の二枚目でありながらこのチャレンジは松坂桃李に通じるものがある。
現在のフミの恋人を演じた多部未華子も、性欲のないフミを熱烈に誘う、テレビては見せない捨て身の演技を披露している。
サラサは親代わりの叔母の下で暮らしていて、従兄の少年から性的虐待を受けていた。やっと逃げ場をみつけたフミとの生活だったが、大人たちから認められる訳がない。
一方、母親からハズレ扱いされてきたフミは身体も心も正常に育たず、大人の女性と関係がもてない。幼女に性的な快楽を求める変質者ではないのだが、世間はそうは見ない。
この二人が心で寄り添う関係は誰にも理解されないのだ。
さて、不幸な人間や不運な人間には不幸な出来事や不運な出来事がついて回るものだ。それが運命なのか宿命なのか、当人たちにはどうしようもない悲しいスパイラルと言える。
フミが、警察官によって一緒にいた少女と引き離される時、 サラサとの時とは違って激しく抵抗し、「もうやめてくれ」と悲痛な叫びをあげる。
サラサは今度もフミを守れなかったと自責の念にかられる。
この映画は、そういう不幸の連鎖を見せることで、どこまでも成就しないサラサとフミの関係を「純愛」として描こうとしたのだろうか。
だが、この二人の関係はいわゆる男と女のそれではない。
純粋な愛なのか、相互依存なのか、とにかく二人は一緒にいるだけで安心が得られる関係なのだ。
人は、男と女には肉体関係が生じるものと理解していて、そうではない関係性を否定しなければ自分達の常識が崩壊してしまう。もし成人男性が幼女を手元に置いたなら、そこには幼女偏愛=性的虐待があるはずだと決めつけなければ、秩序が保てないのだ。
もしかすると、そういう常識人と思われる人間たちの許容範囲の狭さのようなものを描写したかったのだろうか。
横浜流星や趣里の役どころも病んだ人間だ。フミの母親(内田也哉子)もそうだ。
彼らは映画で描かれた範囲では社会的制裁を受けないが、身勝手に人を傷つける人たちだ。
人を傷つける人間が制裁を受けず、人を守ろうとした人間が制裁を受ける不条理な構図を見せたかったのかとも、この映画は思える。
こんばんは♪
詳しいコメントをいただきましてありがとうございました😊
法律にお詳しいですね。
語尾が断定的ですし。
そうだったのですか。
本レビューの下から10行目以降からの内容惹きつけられました。
趣里お母ちゃん早く出て来て証言してほしいです。
ご丁寧にありがとうございました🦁
おはようございます😃
後半の趣里の娘を警察が保護しに行くのは、なぜかと違和感を持ちました。
これでもかこれでもかと酷いストーリーにしたいのかと、思い
あのあたりから醒めてしまいました。すると、評価も下がってしまった作品でした。
kazzさんコメントありがとうございます。
「誰も知らない」観ていないので、観てみます。これも都会の無関心が生んでいる事件に見えますね。
この映画は描写はきれいなんですが、きれいであればあるほど、ストーリーのごまかしが気になってしまいます。
ベッドシーンもなければないで成立しますから、そこにこだわるのであれば、きれいに描いて欲しかったですね。
kazz様コメントありがとうございました。今頃返信すみません。私自身が不器用な人間で、さりげなく自己主張が出来る人をうらやましく思ってしまいます。
本作、お前はどうなんだ?と言っているような気がしました。
もし私が更紗の立場なら、従兄にされた事を言えないでしょう。たぶん文にも。
DV束縛男に「今までありがとう」なんてとても言えません。
もし私が文の立場なら、母親に「お母さん、ちゃんと僕を見て」と言う勇気は無いかもしれません。カフェを開くのも難しいです。
カミングアウトして理解を求めるなんて物凄く勇気がいることで中々できませんしそこまでしなくていいと私は思いますが、この2人には、もっと前向きに生きて欲しいと願ってます。
> もしかすると、そういう常識人と思われる人間たちの許容範囲の狭さのようなものを描写したかったのだろうか
自分は、そう思いました。監督は、最初から最後まで、ずっと怒っているなあ、と。
kazzさんのこのレビューを拝読して、ふと思いつきました。
もしかしたら、社会的制裁を受けない人よりも社会的救済(制度的なものだけでなく、人との関わりも含めて)が必要なのに、誰もどこからも手を差し伸べてもらえない人のほうが多い。
そういうことも強く感じなければいけない映画なのかもしれません。
この監督が描く世界は、いつも本当に深いと再認識させられました。