「着地に対しての納得の行かなさ」流浪の月 komagire23さんの映画レビュー(感想・評価)
着地に対しての納得の行かなさ
(完全ネタバレなので、必ず映画を見てから読んで下さい)
個人的には李相日 監督の『怒り』が好きで、久々の監督の長編作品でかなり期待してみました。
しかし、最後の解決の所で個人的には納得感があまりなかったように感じました。
物語は(もちろんそれだけではないですが)、佐伯文(松坂桃李さん)が、家内更紗(広瀬すずさん/(幼少期)白鳥玉季さん)や谷あゆみ(多部未華子さん)に性的な意味で手を出さない理由が何なのか?が明かされるまでが核心だと思われました。
幼少期の更紗は父と死別し母に捨てられ叔母に引き取られますが、中学生の従兄から性的な虐待を受けます。
その叔母の家から逃れる為に雨の中で声を掛けられた佐伯文の部屋に幼少期の更紗は行くことになります。
佐伯文はその後、少女の更紗を誘拐した「ロリコン」として警察に捕まります。
しかし佐伯文は更紗に性的な虐待を行っていた従兄と違って、性的に少女の更紗に手を出したりはしていませんでした。
ここで観客の私としては、性的な虐待をしていた更紗の従兄と違って、佐伯文は、更紗をきちんと1人の人格として尊重しているんだろうな、と受け取られました。
なぜなら、更紗はケチャップをくちびるからぬぐうカットなど、少女としてもエロスを感じさせる描写があり、しかしそれでも佐伯文は更紗を1人の人格として扱いそのエロスへの心を抑制する大人としての態度をとっていると、佐伯文の行動から私は受け取っていたからです。
つまり、更紗を性的な対象としてモノ的に扱った従兄と、更紗を1人の人格として扱った佐伯文との違いです。
更紗は、自身を1人の人格として扱われたからこそ佐伯文を信頼したのだと思われました。
それは簡単に自身を捨てた更紗の母や、性的なモノとして扱った従兄とは、佐伯文は更紗にとって対極にある人物だと受け取られたと思われました。
しかし最後に、佐伯文が更紗や谷あゆみに対し性的な手を出さなかった理由として、佐伯文の身体的な障害(性器の問題)が明らかにされると、果たして佐伯文が(少女の時の)更紗に性的な手を出さなかったのは”更紗を1人の人格として扱ったから”が理由だったのか疑念がわくように感じられました。
なぜなら、佐伯文が更紗に性的に手を出さなかった理由が、自分自身の身体的な障害(性器の問題)であるなら、更紗の人格をどう思うかの問題や関係性は薄まるからです。
事実、佐伯文は谷あゆみとの別れの場面で、谷あゆみを1人の人格として扱った言動をしていません。
谷あゆみへの佐伯文の言葉は、相手をおもんばかる態度が薄く、自分勝手な辛辣さであったと思われます。
この佐伯文の谷あゆみへ言動は、果たして更紗を性的な対象としてモノ的に扱った更紗の従兄と、心情ではどこまで違いがあるのでしょうか?
私は、(佐伯文の身体的な障害(性器の問題)とは別に)佐伯文は相手を1人の人格として扱う存在として最後まで描く必要があったと思われました。
その為には、谷あゆみとの別れの場面で、佐伯文は谷あゆみを1人の人格として扱い別れる必要があったと思われます。
そして、身体的な障害(性器の問題)を更紗に告白する場面も、”この問題は更紗とは関係がないのだ”と切り分けて(つまり更紗を最後まで1人の人格として扱って)孤独にしかし冷静に淡々と告白する必要があったと思われました。
なぜなら、相手を1人の人格として見ない更紗に性的な虐待をした従兄や自身の精神的な傷に執着して更紗に身勝手な暴力を振るった中瀬亮(横浜流星さん)とは、佐伯文は違った存在であると描く必要があったと思われるからです。
仮に、佐伯文も更紗の従兄や中瀬亮と精神的に地続きの存在として描いてしまえば、当然、従兄や中瀬亮との精神的な和解などあり得ない更紗が、なぜ佐伯文とは深く精神的に繋がれるのか、観客からは深い理解としては分からなくなります。
更紗が佐伯文とは深く精神的に繋がれる理由が、単に佐伯文は更紗に(モノ的な性的や暴力といった)手を出さなかったからという理由だけでは、更紗の従兄や中瀬亮を既に共感的には忘れている観客にとっては、佐伯文が更紗の従兄や中瀬亮と精神的に地続きの存在だという深い理解は曖昧にされたまま映画は閉じられてしまうことになります。
(そんな感想を映画が終わってから持ちながら、ただ身体的な障害の重さについてきちんと理解が及んでないのではないかとも思われたのも事実です。
しかし今の私にとっては、今回の映画は食い足りなく終わってしまいました。)
『流浪の月』は特に広瀬すずさん松坂桃李さん横浜流星さんの演技は素晴らしく、全ての俳優の皆さんの演技が素晴らしかったと思われました。他にも特筆すべき場面も多かったと思われます。
しかし個人的には大変惜しい作品になったなとは思われました。