「血に染まる海」くじらびと Imperatorさんの映画レビュー(感想・評価)
血に染まる海
ラマファ(銛打ち)による「一本突き」というのは、すさまじい“勇猛”なる猟法だ。
多大な危険を冒すが、本当に効率的なのか? という疑問すら沸く。
そして、石川梵監督のそもそもの動機が、「秘境のウソのような話」の取材だったらしい。
映像は、火山岩質の土壌で作物が育ちづらいため漁業で生計を立てている、ラマレラ村の様々な姿を映し出す。
レンバタ島は地図で見ると、スマトラ島から東へ数千kmもずっと続く、プレート境界沿いの横長の島嶼の一つだ。
100km先はティモール島で、オーストラロイドとモンゴロイドの混血風の顔も見られる。
ラマレラ村は、「世界で唯一、マッコウクジラの捕獲が認められている村」とのことだ。行くのは非常に不便のようだが、外部の人間も受け入れているらしい。
ドビウオ猟の季節が終われば、「一本突き」猟の季節だ。
危険な猟法であるがゆえの、「事故」による死や大怪我、そして遺族の悲しみ。
猟のための準備も、長尺を割いて描かれる。
「銛(もり)」を鉄床で叩いた後に先を割って、銛が抜けないように“逆鉤”を作るシーン。
その銛に付ける、神聖なる「綱」を作るシーン。
そして、アタモラ(船大工)が「船」を作るシーン。クジラは、船の弱点を知っている最高のアタモラだそうで、船はクジラの反撃に耐えうる強さが必要だ。
進水式の時だけは、“女人禁制”が解除され、女たちは船上で歌を歌う。
食事や狩猟の前、そして教会におけるお祈りようすが何度も映されるが、「カトリックの信仰」だけでないところが面白い。
“猟期の争いはタブー”といった迷信めいた話など、「古来からの地域信仰」が濃厚だ。
海の事故の犠牲者を弔う“灯籠流し”のような儀式。
映画冒頭の村長による“祝詞”では、クジラを「海へ去った水牛よ」と呼び、現代生物学の知識が披露されて、ビックリである。
エンディング曲の「アヴェ・マリア」は、映画の内容にふさわしくないと言っていいだろう。
ドローンからの映像も、全体が俯瞰できるので、とても良い。
映画のテーマは、監督の1990年代から続くライフワークのようで、過去に写真集「海人」(1997年)と「鯨人」(2011年)という著作を出しているが、空撮用ドローンの高解像度化はごく最近の話だ。
もしかしたら映画化のキーポイントは、ドローンの登場だったのかもしれないと思わせる。
メインテーマの猟の映像は、申し分ない素晴らしさだった。
テレビ番組などでは、生物を傷つけずに撮影しなければならないという制約があるだろう。
しかし本作では、とっ捕まえて食べるため接近するのだから、全く遠慮がない。そのため、通常ではありえない映像が得られる。
クジラだけではなく、マンボウやジンベエザメやマンタまで出てくる。日本では水族館の動物だが、彼らにとっては“食べ物”なのである。
そしてクジラ漁。獲物に近づくと、モーターを止めて、手漕ぎで接近する。
巨大なクジラと格闘する船員たち。血に染まる海。
クジラの尾びれが船に打ち付ける恐ろしいシーンも、見事に収められている。
銛は何本もあって、クジラが弱るまで何度も攻撃するようだ。そして、最後にトドメを刺す。
この流れは、自分にはあたかもスペインの「闘牛」を思わせた。
猟の映像が終わればエンディング、でないところも良い。
獲物の「解体」のシーンでは、村人への“分配のルール”が語られる。肉だけでなく、内蔵や、薬効があるという脳油まで、すべて利用するらしい。
クジラの肉って、あんなに真っ白なわけないと不思議だったが、ピスドニ家は「本皮」などの皮下脂肪しか貰えなかったということなのか?
この映画は、一言で言えば、山田洋次監督のキャッチコピーで良いだろう。
しかし、猟のようすを撮影した大迫力の映像だけではなく、村の文化も併せて描いた豊かな内容をもつドキュメンタリー作品で、観る前の期待を大きく上回った。
そして、ピスドニ家の娘のイナが、とってもかわいくて、観ていると思わずこちらも笑顔になった。