劇場公開日 2021年10月29日

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「単なるホラー映画ではない」ハロウィン KILLS 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)

4.0単なるホラー映画ではない

2021年11月4日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

 誰でも心に悪を隠しているという。出来心だとか、魔が差すという言葉は、決して悪が外からやって来るという意味ではない。内なる悪が顔を出してしまうということなのだろう。
 我々は日頃は理性で悪を押さえつけている。しかしそれはあくまで行動に出るのを抑制しているということで、心の中の悪までは押さえつけてはいない。
 間違えて自分を殴った教師、営業成績が上がらないことで定規でこちらの頭をコツコツと叩いた社長、罵詈雑言を浴びせてきたクレーマーなどを思い出すと、土方歳三に変身し、和泉守兼定を振り下ろして天誅を加える想像をしてしまうが、想像するだけで実行に移すことはない。怒りが湧き起こったときは深呼吸をして鎮めるだけだ。どんなに年数が経っても怨嗟の念が消えることはない。
 そこで考える。自分もどこかの誰かから怨嗟の対象になっているのではないか。暴力や誹謗中傷は論外としても、気づかないうちに他人の人格を否定したりするのはあり得ることだ。どこまで他人は自分の言動を許してくれるのか。または翻って自分はどこまで他人の言動を許すべきなのか。
 問題は悪意の有無である。他人の心身を傷つけようとする意図があるかどうか。あるいは差別的な信条に基づいての言動である。差別の代表選手である家父長的な信条に基づく言動はすべて悪意があると言っていい。父親を敬い、言うことを聞けという強制、男なのだから、女なのだから、男のくせに、女のくせに、といった教条の押し付け。気づいてみると自民党の道徳教育の理念みたいだが、これらすべては悪である。

 悪の被害に遭っても、土方歳三になれない我々は、ひたすら我慢して怒りに顫える心をあやしながら生きていくしかない。ふと思いつくことがある。無敵の強さを持つ怪物になってこの世に復讐するのだ。自分が悪そのものになるのだ。
 本作品でのマイケルの殺人はグロテスクである。しかし誤解を恐れずにいえば、ある意味で爽快である。胸のつかえがおりたような気がするのだ。それは世間の人々が無意識に共謀している弱者への無配慮に対する復讐である。
 ジョン・カーペンターは1988年の監督作品「ゼイリブ」ではホームレスを主人公にした。「ゼイ」は普通の人々に紛れ、善人を装っているが、陰で人々を洗脳して世界を支配しようとしている。本作品でマイケルが次々に殺したのは「ゼイ」ではなかったか。そこが本作品の隠された意味だと思う。単なるホラー映画ではないのだ。

耶馬英彦