明日をへぐるのレビュー・感想・評価
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消えるかもしれない文化が1000年を耐えるものを生み出す、この矛盾…をどうしたら良いかまで伝えてほしかった
2019年頃、今作にも出てきている手すき和紙の“ねり”作業に必要な『トロロアオイ』について、農家さんが栽培を止めるというニュースがありました。
理由については、今回の楮農家さん達と全く同じ《作り手の高齢化》《対価が労力に見合わない》《和紙自体のニーズの低下⇒下がる市場価値》というものだそうです。
その後『トロロアオイ』についてはクラウドファンディングで対策も練られているようですが、持続的な支援になるかどうかは、見てみないと分からないといったところだと思います。
何が言いたいかと言うと、今後どうしたら良いかという点まで映画内で触れてほしかったな、と。
今作は土佐和紙の原料となる楮をつくっている農家に主な焦点を当てています。
場所は高知の山奥。
作業については一人で行うわけではなく、そのあたり一帯の人を巻き込んで行う共同作業であるため、どちらかと言えば農家と言うよりは職人集団と言った方が近いと思われます。
彼らの手により生まれた和紙の原材料について、紙漉き職人から業者にわたりほとんど手作業の工程を経て、必要とされるアーティストや修復師の元へと届く。その流れについて、客観的な立場から淡々と説明されていきます。
この作品の素晴らしい点については、頭から終わりまで一貫して押しつけがましい点がないところ。
たまにドキュメンタリー作品って、作り手の人の訴えかけがキツ過ぎて、個人的には(そんな視点で観たいわけじゃないのに)と思うことがあります。
この作品はちょっと距離を置いた部分から、貴重な土佐和紙という文化について、実際の例を用いて教えてくれるので、観終わった後は(じゃあなんとかしなきゃいけないな)という気持ちになります。
ただ、具体的にどうしたら良いかというところまでは教えてくれていない。
色々な理由により消えるかもしれない土佐和紙という文化が、美術館や資料館に陳列する貴重な絵画や文献を修復するために一役買っている。
土佐和紙があることで、それらは1000年耐えられるものに生まれ変わる。
…それは分かったんです。
ただ、このある意味矛盾とも言える状況について、ならどうしたら良いかという肝心の視点が足りない。
だから、観終わった後も日頃和紙と関わる文化のない人にとっては(あー、大変なんだな)で終了してしまう気がするんです。
題材は素晴らしいです。この作品自体が1000年後にも残っているのだとしたら、当時の日本の文化を知るうえで貴重な資料となっていることでしょう。
ただ、もうひとつ、あとひとつ解決策についての案や事例が欲しかった。
この作品を目にしたいろんな作品に関わる人たちが、そんなに凄いなら和紙を使ってみようか、と。
あるいは自分も楮づくりに関わってみようか、と。
そんな展開になることを祈っております。
監督的には現代社会と里山の暮らしの対比を描きたかったようですが(HPより)、文化的な方が気になってしまいまして。こんな観方ですみません。
人間から“逃げ回る”地下茎
楮(こうぞ)は和紙の原料の中でも、繊維が長いだけでなく、繊維の長さと太さの比率(アスペクト比)が高く、かつ、“非繊維細胞”が少ないのが特徴らしい。
用途にもよるだろうが、最高の原料なのだろう。
和紙に関するドキュメンタリーという意味で、本作の特徴は、
・楮の栽培と収穫の詳細な映像
・土佐の楮が経てきた、20世紀の歴史紹介
という2点だと思う。
一方、三椏(みつまた)や雁皮(がんぴ)、そして輸入の楮については、一切触れられない。
舞台となるのは「いの町」で、「吾北地区」と、“清流”仁淀川沿いの「鹿敷」だ。
吾北地区は、地質的にはいわゆる「三波川帯」と「秩父帯」の境界という理解で良いはずだ。谷が東西に延々と延びており、南向きの斜面は急峻である。
楮の栽培には、(1)日当たりの良さ、(2)雨の多さ、(3)急峻な斜面による水はけの良さをもつ土地が向いているという。
映画の“前半”は、楮の幹を収穫して繊維を取り出す工程が重点的描かれ、そこから最終的に紙を漉(す)くまでの一連の工程も簡単に触れられる。
幹が、鎌でスパっと切れるのに驚いた。木が柔らかいのであろうか?
収穫した幹は束にして、バカでかい甑(こしき)で数時間蒸し上げる(「楮(かじ)蒸し」)。1948年の高知を描いた映画「絵の中のぼくの村」で観られるシーンと、何一つ変わっていない光景である。
そして暖かいうちに、樹皮を剥ぐ。この樹皮が欲しいのだが、しかし表皮など不要なものが付いている。
よって、皮を“へぐる”のである。
「へぐり包丁」で、御年94歳のおばあちゃんが“へぐる”のだ。
ここまでの“農業的”な工程は、他ではあまり観られない映像ではないだろうか?
この後は、アルカリ(木灰)で煮詰めて、仁淀川で晒して太陽の紫外線で漂白し、ゴミを取ってという、よく知られた“化学的”な工程が描かれる。
最後は、「紙漉(かみすき)」だ。トロロアオイから作る「ねり」は、繊維どうしの“接着剤”というのは間違いで、液の粘性を高めて繊維の沈降を抑えるとともに、繊維の“分散剤”であるというのが正しいらしい。
映画の“後半”は、楮栽培の4月から翌年1月までの“歳時記”だ。
その合間に、楮と森の「歴史」、土佐紙を使う「版画工房」、そして“世界一薄い紙”による「文化財の修復」などの話が挿しはさまれる。
なんと言っても見どころは、楮の木そのものを、じっくり見せてくれる点だろう。
春になると、こびり付いたコケを払い、肥料をまく。
すると株から芽が出て、細くて長い幹がスルスルと伸びてくる。一見すると枯れ果てたような株からなので、「どっこい生きている」という姿に感動する。
幹は1年も経たずに、すぐに切られてしまうので、花による「有性生殖」ができず、地下茎から栄養繁殖する「無性生殖」で育つというのも、初めて知った。
土を掘り返してみれば、地下茎は長い。ある学者は、「人間から逃げ回っているのだ」と笑う。
楮栽培の「歴史」は、重点的に描かれる。
昔は現金収入として、どの農家でも栽培していたという。
しかし、1950~60年代になると木材需要が高まり、伐採と植林が行われ、楮の畑の多くが姿を消す。
この点は、本作ではかなりネガティブに描かれるのだが、しかし立場にもよるだろう。
結果的には木材も売れずに、単一樹種による不自然な森になって失敗だったとしても、それが当時のホットな“林業の未来”だったはずだ。
本来、低木である楮は、“極相林”では生き残れないので、楮の畑も本当の自然ではなく、あくまで人工の“里山の自然”にすぎないのだ。
映画のラストは、再び“へぐり”のシーンに戻ってくる。
紙漉の職人は言う、和紙の需要の低迷を含めて、今は「ギリギリのところだ」と。次世代への不安も語る。
楮の“新株”を作っていかないと、株はどんどん古くなり、細い幹しか出せなくなって終わりを迎える。
しかし、楮栽培は儲からない。“へぐる”前の樹皮で、3反(30アール)の畑では30~40万円にしかならないという。
急峻な土地なのに、高齢者ばかりで、収穫から「楮(かじ)蒸し」までは、ボランティアの助けを借りている。
それでもなぜか、本作の題名は「明日をへぐる」である。
監督がどこに“明日”を見い出したのか自分には分からなかったが、この「映像記録が未来のためにある」ことは、間違いないはずだ。
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