「バッタと予言の日」ジュラシック・ワールド 新たなる支配者 かんじがらめさんの映画レビュー(感想・評価)
バッタと予言の日
ジュラシック・パークは元々生命倫理をテーマにした作品でした。
もちろんただロマン溢れる恐竜映画でもあるのですが、恐竜というテーマを用いて「自然の恐ろしさ」、そして「自然の営みに対し軽率に人間が介入することの恐ろしさ、傲慢さ」を描いた作品でもあるのです。
……とはいうものの、こちらのテーマは初代ジュラシック・パークで大体描き終わっています。
以降のシリーズは全部「恐竜パニックエンタメ映画」です。
別に悪く言いたいわけじゃないですよ。恐竜パニック大好きなので。それはそれでいいもんです。
しかしその恐竜パニックに中途半端に理屈を付けようとして色々失敗したのがジュラシック・ワールドⅡです。
「火山島にテーマパーク作ったのかよ」とか「どんな理由があろうと恐竜逃がしていいわけないだろ」とか「レーザーで敵を照射できる状況ならそのまま銃で撃てよ」とか。半端にそれらしく振る舞おうとした結果生まれたツッコミどころが無限にありました。
ジュラシック・ワールドⅢを評価しているのはそれに比べて原点の生命倫理にもう一度正しく向き合ったからです。
というのも、恐竜ってもう復活出来ないことが知れ渡ってるんですよね。カエルのDNA使ったってどうにもならないレベルです。
それに現実的に考えて恐竜が人間の世界で暴れまわることはできません。
もちろん被害が出ないわけはないんですが、別に兵器が効かないスーパー怪獣ではないので。肉食の象が暴れてると思ってください。
軍隊送って攻撃ヘリから機銃掃射すれば当たり前に鎮圧できると思いません?
つまり今の御時世との乖離を考えればジュラシック・パークの初期設定ではどこまで行ってもサイエンス・ファンタジーでしかない。
だから改めてリアリティを得て問題提起するには「バッタ」なんです。
無限に増えて飛び回り、簡単に駆除もしきれず、歴史に名を残すレベルで食料事情に壊滅的な被害を与えていくバッタこそ、このテーマを描くために必要なリアルだったんです。
「恐竜パニック映画」でバッタをやる必要はなかったかもしれません。
ただ「ジュラシックシリーズ」でやる意味は確かにあったんです。
ジュラシック・パークが作られた当時、遺伝子技術はまだ不完全な分野でした。
今の我々の世界はどうでしょうか。
遺伝子技術は飛躍的に進化しました。
凍土から発掘されたマンモスの復活計画なんてものすらあるくらいです。
しかしジュラシック・パークであれだけ批判された「神の所業」は現実で批判されているでしょうか。
我々は歩みを止めることが出来ているでしょうか。
答えはノーです。
技術の進歩はもう誰にも止められません。
誰かのせいじゃありません。私達の誰もがより良く生きたいと願うからです。ヘンリー・ウーやインジェン、バイオシンという明確な悪人が出ないまま、ゆっくりと、知らない間に社会全体が染まっていくのです。
このまま行けば人類は過ちを犯すかもしれません。
過去に夢見た未来はまさに「今」になったのです。
ギリシャ神話ではパンドラが箱を開くと災いが飛び出し、箱の底には希望が残りました。
私はヘンリー・ウーの最後に希望を見ました。
変わることは避けられなくても、過ちを犯しても、ゆっくりとより良い未来へ進み続けることは出来る。
パークという未来が現実になった今の時代だからこそ、今の時代なりの答えを示したこの映画を私は評価したいと思います。