英雄の証明のレビュー・感想・評価
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善意と浅はかな出来心が同居するリアリティ
事前の印象とは違って、主人公ラヒムの身から出たサビが結構ある。
彼が、婚約者の拾った金貨を持ち主に返すべくあちこちにチラシを貼り、申し出た女性に電話の段階で落とし物の特徴を言わせて確認するところまでは賢かった。ところがその話が美談として予想外に広がり始めたあと、婚約者の存在を伏せるため自分が拾ったことにしたり、落とし主を連れてくるよう就職先に言われて婚約者をダミーで連れて行ったりと、自分の都合でちょいちょい嘘を混ぜてしまう。その嘘が漏れなく彼の足を引っ張り、一時の名誉が脆くも壊れてゆく。
ぱっと見、そりゃ自業自得だよとしか言えない展開だ。あらぬ噂の拡散と闘う善意100%の主人公を描いてSNSの功罪を問う方が、見てくれのいい話になる気もする。でもラヒムの行動は、そんなありがちな善人キャラよりもある意味生々しい。
思いつきの善行からの思わぬ展開の中、自分の都合を捨てきれないラヒム、彼を利用しようとする刑務所関係者や受刑者の支援団体のエゴ。でも、連鎖する小さな煩悩をひとつひとつ分けて考えると、彼らの言い分も分からなくもない。それらをただの馬鹿だと切って捨てるほどご立派な生き方を自分がしてきたのかと問われれば、紙一重のような気もする。
気軽な善意を思いつくのと同じ頭で保身のための誤魔化しも考える、肯定はしないが生身の人間なら、心の弱さからそんな良心のバグが起きることもあるだろう。意外と映画でその辺をここまでありのままに見せられることは少ないなと思った。
また、昔なら周囲の人間関係の間でしか見えなかったそういったバグを、今はSNSがクローズアップする。事実の核心に近い情報が簡単に映像や文字として手に入る利点がある一方、事実の一部分でしかないその映像や文字が、無関係な人間にまで瞬時に拡散されることで問題の肥大化を助長する側面もある。出来心の代償が時に甚大なものになる。
周囲の大人たちが翻弄される中で、父親の最初の行為の正しさを見失わなかった息子の素直な視点だけが、けがれがなく美しい。
色々ケチがついてしまったが、金を騙し取られたことがきっかけの借金を返せず投獄された状況にありながら金貨を持ち主に返すこと自体は、尊い行いであることに変わりはない。一観客としてその善行が事実であることを知っているだけに、彼の愚かさを見た後であってもラストは何だかやるせない気持ちになった。
人間の哀しさ
映画は人間を描くものとすれば、本作ほど人間としっかりと見つめた作品はそうそうない。理想化も矮小化もしないで確かにここにはありのままの人間が映されている。収監され不名誉を恥じていた男がささいな良いことをして誉められたいと思うのも、過去に傷のある奴を怪しく感じてしまう大衆心理も、人助けのためなら嘘をついて誤魔化してもいいだろうと考えるのも、小さな疑惑が膨れ上がり、いつの間にか尾ひれがついて大きな悪を想像してしまうのも、ちっぽけな人間のなせる業。誰もが断片的な情報に踊らされ、それぞれの立場から見えるものだけを正しいと思い込む。ほんのわずかなボタンの掛け違いが続いてしまうと人は人を信用できなくなる。本当に紙一重のことに過ぎないにもかかわらず、その積み重ねが大事を生んでしまう。人間の営みは本当に哀しい。しかし、社会とはこのように日々営まれているという説得力がすごい。
人物の配置とプロットが大変に上手い。人間ドラマとはこう作るのだというお手本のような傑作。
興味深い”人間の探究”
最初からなぜか男の浮かべる微笑が頭から離れない。仮出所した主人公はシャバの空気がよっぽど嬉しいのか、ずっと笑みを浮かべている。久しぶりに彼と会う婚約者もまた同じように笑みを浮かべる。彼らの過去については我々観客にもほとんど分からない。肝心の”金貨入りバッグ”を拾った経緯もしっかり回想されるわけではない。ファルハディー監督はおそらく、あえて私たちを一般市民と同じ立場に立たせ、右から左から噴出してくる主人公にまつわる噂や、それに乗っかろうとする者たち、果てにはSNSの反応を受けて、彼の印象が刻々と変わりゆく様を体感させているのだろう。その正体は一体どこにあるのか。先の微笑の存在が本心を見えにくくさせる。しかしながら、この世の中にスネに傷を持たぬ者など存在するのだろうか。英雄の証明とは、悪魔の証明と同じくらい難解なもの。騒動と混乱を経て、最後に男がたどり着く、微笑とはまた違う表情が印象的だった。
「白い牛のバラッド」に並び、世界クラスの普遍性を備えた今年観るべきイラン映画
2月に日本公開されたマリヤム・モガッダム監督兼主演作「白い牛のバラッド」に続き、またもイランから骨太の社会派ドラマがやって来た。アスガー・ファルハディ監督は、「別離」が米アカデミー賞でイラン映画として初の外国語映画賞を獲得するなど、かの国の特殊性にとどまらないワールドクラスの普遍性はお墨付き。新作の「英雄の証明」も、岩山の壁面に刻まれた壮大な遺跡群を誇る古都シラーズを舞台にしながら、マスメディアとSNSによって無名の人物が一躍英雄になったり、またたちまち転落の危機にさらされたりといった、まさに今の情報過多な世界に起こりうるストーリーを描いている。
先述の「白い牛のバラッド」とは、囚人と刑務所、主人公の子が抱えるハンディキャップ、謎めいた関係者など、プロット上の共通点もいくつかあるが、予測のつかないストーリー展開という点でも一致する。大手媒体に掲載された評であらかたの筋を説明してしまっているものも見かけたが、事前にあまり情報を入れずに観る方が良い映画だと思う。
それにしても、主人公ラヒムが世間に英雄として持ち上げられ、今度は悪い噂で叩き落されそうになり必死に切り抜けようとする姿を、観客もまた我が事のように心をひりひりさせながら見守ってしまうのは、似たような実例をいくつも見聞きしてきたからではなかろうか。経歴詐称で表舞台から消えた経営コンサルタント、問題ある言動が暴露され干された芸能人、虚偽の発表やずさんな経営が発覚した新興企業創設者……。
そして、このような騒動が起きた時、当人だけでなく、家族や親しい人々も否応なく激しい渦の中に巻き込まれることも的確に描いている。とりわけ、吃音症を抱える息子シアヴァシュが追い込まれていく過酷な状況に、ファルハディ監督の“すごみ”を見せつけられた気がする。
名匠アスガー・ファルハディ監督、安定のクオリティ
2度のオスカーに輝くイランの名匠アスガー・ファルハディの、見る者の心をじりじりと焦がす傑作。舞台はもちろんイラン。悪意のない嘘が及ぼす影響、テレビ局に強要された演出、SNSでの炎上と風評被害など、主人公に降りかかる出来事は日本で今私たちが見たり聞いたりしていることと何ら変わりません。テレビ画面やスマホの画面をほとんど映さずに、この物語を簡潔に語ってみせるファルハディ監督の演出に痺れました。
Confusing with Kurosawa/Ozu Style
Farhadi is a filmmaker who crafts an inviting day-in-the-life gaze at the pulse of Iranian society. Rahim is a weekday convict whose seemingly good deed wins him the attention of the press. The reasons for his incarceration and his motives are hard to figure out. It goes along the trend of leading Iranian auteurs putting a kaleidoscope puzzle on what the film really means. An unsolved mystery.
人生って上手くいかない。
善行を行ったのに何故か上手くいかない。
人が悪い人間じゃないのに妬まれる。
自分の窮地から脱したいのに疑われる。
そんな人ってどこかにいてますね。
ちっぽけなウソが人生を左右するなんて
可哀そうですが、どこか仕方がないようにも見える。
感情移入がしにくく、借金の貸主も悪い人ではない。
人生って上手くいかないものですね。
「良心」を素描した優れた作品
それぞれの立場と都合で作り上げられた「美談」が、
SNS情報を契機に「疑心」が拡がり、
やはり、それぞれの立場と都合で「醜聞」に作り替えられる。
その中で、本人と彼女、家族たちが翻弄されていく。
現実社会で「良心」は必ず、少しの「嘘」とともにある。
世の中、嘘だらけでもなく、純粋な良心があるわけでもない。
そんな良心のあり方を、素描(デッサン)している映画である。
余計な脚色がないことにも好感がもてた。
利他と偽善の間で
🇮🇷は反米国家であるにも関わらず、本作のイラン人監督アスガー・ファハルディはなんと3度オスカー受賞に輝く、アカデミー会員の大のお気に入りである。さすがにトランプには授賞式参加のための渡米を禁止されたらしいのだが、ハリウッドのリベラル層受けはグンバツにいい。たしかに祖国イランの体制批判的な映画ではあるにはあるのだが、最高指導者ハーメイニ師に睨まれているのかというとそうでもなく、ずっとイラン国内で撮影を続けている不思議な立ち位置の映画監督なのである。
義兄への借金を返さなかったがために刑務所に入れられたラヒムは、服役中に彼女が拾ったバッグに入っていた金貨を休暇中売ろうとするのだが、〈神の啓示〉を受けて思いとどまる。バッグを持ち主に返したことが美談として噂となり、TVの取材を受けることに。それがナンチャラ審議会の目にとまり、あれよあれよと“英雄”にまつりあげられるのだ。が、借金をラヒムに踏み倒されたことのある義兄はラヒムの偽善を疑い、刑務所内でおきた自殺隠蔽のための工作だとSNSで暴露するのだが....
映画冒頭の刑務所を仮出所したラヒムが遺跡修復業の義兄を尋ねるシーンが、実はラヒムの辿る結末を暗示していたことにお気づきだろうか。長い長い階段を昇って義兄に会えたと思ったら、あっという間に階段を降ろされるラヒム。英雄にまつりあげられたと思ったら、偽善者扱いされた挙げ句に刑務所へ逆戻り。挙げて落とすのが大好きな我々西側観客の急所をよくご存知なのである。確かにこのアスガー・ファハルディ、皆さんおっしゃるとおりストーリー・テラーとしては一流である。
ラヒムの利他行為を美談として保身に利用しようとする警察組織のいやらしさ、そして、怨恨をはらす道具としては最適なSNSの破壊力。アラーの教えにただ従っただけのラヒムのがなしてこんな目にあわなきゃならんのか、映画をご覧になった皆さんも納得しかねるエンディングだったのではないか。吃音の息子の前で父親らしく立派な態度を見せたにも関わらず、である。「なんにもしなかった奴がそんなに偉いのか、だったら乞食だって英雄になれる」という義兄の言い分も一理あるのである。結局のところラヒムは金貨を元の持主に返しただけなのだから。
SNSに限らず実は映画自体もそうなのだが、事実はどうあれ、作品に撮影者(ファハルディ含む)の作為が何らかの影響を及ぼすとするならば、完全なドキュメンタリーなどどこにも存在しないということなのだ。たまたま息子が吃音だったり、金貨の持ち主があまりにも薄情だったりしたがために、観客はついラヒムに同情したりするのだが、そのモンタージュさえなければ、観客は利他(イラン)と偽善(アメリカ)のど真ん中に永久に置き去りにされる映画作品なのである。欲をいうと、ファハルディにキアロスタミのような映像美があれば、より容易く観客を煙に巻くことができたであろう。
どうしてこっちが悪人扱いされるの?の理不尽
アスガー・ファルハディ監督は人の中にある善悪、悪意、嫉妬、羞恥、見栄、など、誰にも多かれ少なかれ存在する心理を紡ぎ出し組み合わせ物語を作る。
特別ではない人々の特別ではない物語を巧妙に重ねることで特別な物語かのように育てる。
些細なことから生まれる綻びに焦点を当てたミニマムさが魅力だ。
他のファルハディ監督作品にもいえるが、登場キャラクターのちょっとした真摯さの不足が物語をややこしくする。
ある意味で、キャラクターがミスをしたといえるわけだが、そのミスは誰もが経験するような小さなこと。
これは映画なので、たまたまそのミスが取り上げられ複雑な問題を生み出す。
それは、観ている私たち全てが直面するかもしれない普遍性を内包している。だからこそ引き込まれるし、問題がどこにあるのか見定められない苛立ちも感じるのだ。
知らず知らずのうちに自分の中で折り合いをつけている、どこにでも転がっている理不尽さを突きつけられて、嫌なこと思い出させてくれたなと、不快感を感じるとともに、よくまあうまいこと掘り起こしてくるなとアスガー・ファルハディ監督に感心してしまうのだ。
本作は、悪人がちょっと良いことしたら実はあの人は「良い人」だ。善人がちょっと悪いことしたら実はあの人は「悪い人」だ。の、漫画やドラマ、まあ現実にもあるパターンの作品だったかなと思う。
一瞬だけ見えた「善意」「悪意」で、それがその人の本性であるかのように決めつける現象。
人は、本性を隠して偽りの姿で生きていると思いたい生き物なのだろうか。
まともに考えれば、一瞬だけ見えた「善意」「善意」のほうが気の迷いであり、本質であるわけがないと分かるはずなのに。
絡み合う事情
別離/ある過去の行方/セールスマン/誰もがそれを知っている──を見たことがあるがいずれも進退や善悪の定まらないどっちつかずの状況に撞着して「じゃあどうすりゃよかったんだよ」と言いたくなるような人間の深いところを描いてみせる作風だった。
といって不条理にはせずあくまで現実社会の範疇でどうしたらいいかわからない両義へ持ち込むのがアスガル・ファルハーディー。
すべての作品を貫通するブレない作家性にも毎回感心させられるし、社会派なのにスコセッシみたいに豪腕な演出力で引きつけるのも特異な長所。
別離とセールスマンでアカデミー国際長編映画賞(旧称:外国語映画賞)を二度もとっている。
このアスガル・ファルハーディーやアンドレイ・ズビャギンツェフやクリスティアン・ムンジウやヌリ・ビルゲ・ジェイランの映画を見ると、日本の監督に監督なんてほざいてほしくなくなる。比較しようのない品質──そんな映画。
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昨年(2022)テヘランでヒジャーブの不適切な着用でつかまった女性が亡くなりそれに反発する市民運動が活発になった。
関連してセールスマンに出ていた俳優Taraneh Alidoostiが拘束されたというニュースが出て国際的な懇請につながった。
Taraneh Alidoostiはセールスマンでしか見たことがないが丸顔かつ童顔でよく覚えていた。彼女はやがて保釈された。できればファルハーディー監督ではなく軽いコメディで笑った顔も見たい。
アスガル・ファルハーディー作品に出ていたレイラ・ハタミやベレニス・ベジョやTaraneh Alidoostiを見て「やっぱ人間、濃い人種のほうがきれいだな」と思ったが、女性が濃いなら男性も濃い。この英雄の証明の主人公は影武者や乱に出ていたときの仲代達矢にそっくりだった。
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正直者だが不運で刑務所にはいっているラヒム。恋人が拾った金貨を持ち主に返していったんは英雄視されるが、さまざまな事情が絡まって混迷へ転げ落ちていく。・・・。
ラヒムの息子は純真な子だが吃音がある。かれら父子が困り果てる姿はまるでデシーカの自転車泥棒を見ているようだった。ご覧になった方はデシーカの自転車泥棒のようだというたとえにご同意いただけることだろう。どうしたらいいのか解らなくて気持ちをかきむしられるところへ筋をもっていく。それをつむぎだす作家性に驚嘆した。
IMdb7.5、RottenTomatoes97%と83%。スパイクリーが審査委員長でデュクルノーのチタンがパルムドールをとった2021年のカンヌで2位(グランプリ)をとった。
ファルハーディー作品を見て毎度思うのは「真剣に生きているんだな」ということ。じぶんだって真剣に生きていないわけじゃないが、映画用の設定とはいえ絡み合う事情に恐れ入るし、ダルデンヌ兄弟を見た感じと似て映画内の人たちはほんとに真剣に生きていてそれが伝わってきて神妙な気分になるのだ。
「善意の人」が「善意」ですることの痛さ
<映画のことば>
「お代は、いいよ。」
「いいえ。いくらですか。」
「囚人はタダだよ。」
「不公平です。」
「それが世の中さ。俺も2年服役した。」
お金の貸し借りということは純粋に民事的な取引のことであって、最初から踏み倒す意図で借りた(貸し金の名目で詐取した)というのでもない限り、犯罪を犯したものとして服役しなければならない道理はないと思うのですけれども。
(日本では、借金を返さない=金銭債務の債務不履行は、犯罪ではないこと、もちろんです。)
彼の地では、そうではないようで、「服役」という重圧で貸し金の返済を促すという法制度になっている様子です。
(イラン国民は名誉を重んじるということですから、その名誉を担保に借金の返済圧をかけると言ったところでしょうか。ある意味では「返さないとこうなるぞ」という見せしめ的な効果を狙ってのことかも知れません。しかし、実際は、上で拾った映画のことばのように、借金で投獄される人は少なくないように見受けられます。)
そうだとしたら、この「借金服役制」は、あまり人道的なやり方ではないように思えてなりません。タクシーの運転手が、安直に「替え玉」を立てることを示唆してしまったのも、過去に、その「重圧」に苦しめられた体験があったことと無縁でなかったからだろうと思います。評論子は。
総じて、本作には「これは」という悪人は登場していないようです。件のタクシー運転手は言うに及ばす、服役囚の善行を美談に仕立てて、自分の刑務所の評判を上げたい所長ら刑務所の職員も、積極的に美談を掘り起こして自分達の活動を引き立てたいチャリティ協会の役員たちも、吃語症の息子を前面に押し出しても、ラヒムの善行を世間に印象付けようとするラヒムの職場の同僚のビデオ撮影も。そして、自分達は万一のときの「火の粉」を被りたくない審議会の職員も。
反面、ラヒムを刑務所送りにした、前妻の兄のバーラムも、彼のために高利貸しの保証を引き受け、私財を処分して保証人としての責任を果たしていた…。
それらの、個々には決して悪意のない「善意の人たち」の「善意の行為」が、かえってラヒムをどんどんと深い深い泥沼に引き入れていくさまは、観ていて切ないと言う他に、評論子には言葉がありませんでした。
私が参加している映画サークルで、上映会で取り上げることになり鑑賞することにした一本でしたが、観終わって、心に痛い一本になってしまいました。評論子には。
(追記)
ファルコンデは、ラヒムのどこのどんなところにホレて婚約までしているのかは、評論子には然りとは分かりませんでしたけれども。
それでも、彼女が彼を上手く「操縦」しているような節も見受けられたように思います。
金貨入りのバッグを拾って、自分たちでの換金を最初に言い出したのは、案外、彼女の方だったのかも知れないと思いました。そんなくだりも、作中にはあったように記憶します。そんなこんなで、彼女もけっこうな「ファム・ファタール」だともし言ったら、それは、評論子の思い過ごしというものだったでしょうか。
メディアやSNSに翻弄されるのはいかにも現代っぽく、おもしろかった...
メディアやSNSに翻弄されるのはいかにも現代っぽく、おもしろかった。
ただ、拾得物を持ち主に返しただけで皆から讃えられ、英雄としてメディアに採り上げられるのは違和感しかない。
あと、受刑者が休暇を取得して、監視役もなしに外出できるというのは驚いた。
アスガー・ファルハディ監督作品
このアスガー・ファルハディ監督作品を観終わると、「この邦題は、本当に上手くつけたものだなぁ…」と思う映画。
ある職人の男が、借金返済ができずに刑務所に入れられているが、イランの刑務所には休暇があって「刑務所を出られる」というあたりの文化の違いは驚きだろう。
その刑務所の休暇2日の間に、落ちていた金貨を着服せずに、落とし主を探すビラを貼って刑務所に戻ったところ、落とし主に金貨が戻ったという美談で持ち上げられる囚人ラヒム。
彼への「賞賛」はどんどん拡大し、刑務所やチャリティ協会の宣伝棟のような扱いになるあたり、ファルハディ監督が「イランでのSNS」を見せるのだが、その後、彼の暴挙もSNSで拡散されて、ラヒムは持ち上げられて落とされる……という気の毒な男に見える。
イラン映画は、アッバス・キアロスタミ監督から始まって、キアロスタミ監督の後には単発での佳作公開が続いて「少女の髪どめ」などの佳作が観られたが、最近ではアスガー・ファルハディ監督の時代となっている感がある。
本作は、それなりのクオリティが見られるが、個人的には、終わり方がモヤッとした感じが勿体ない気がした。
坂道を転がり落ちる、とはまさにこのこと、な一作。
『白い牛のバラッド』に続いて、イランの司法制度をテーマに取り入れた作品です。善行によってメディアに祭り上げられて、突然「時の人」となった主人公が、ふとしたきっかけでメディアにも世間にも背を向けられ苦境に陥る、という物語の筋そのものにはそれほど真新しさはありません。しかし主人公の置かれた特殊な状況、そしてイランの司法制度の特質などが絡み合って、事態はどんどん思わぬ方向に進んでいきます。この、「やめときゃいいのに、なんでそんなことを…」という人の弱さ、しでかしの取り返しのつかなさ、を描くファルハディ監督の語り口は、ちょっといじわるだな、と思わなくもありませんが、それにしても見事。
SNSによって評判も悪評も燎原の火のごとく伝播する、という現象は、映画の演出として使ってしまうと今となってはやや陳腐な印章を受けるほどですが、イランでは本作のように一般の人の善行を称賛するという番組が非常に人気があるということだけに、視聴者の期待を裏切った時の反動も大きくなってしまうのでは、と感じました。
路上の乾いた空気感、商店街の雑多な事物が凝集した質感を、本作のカメラは見事に表現していて、この点でも見応えがあります。
それにしても、日本では民事事件となるであろうと思われる行為でも、イランでは刑事罰を受けるという、いわゆる厳罰主義には結構衝撃を受けました。
世間の現実
どっと気分が重くなり、疲れました
社会がデジタルで繋がる時代
以前の“アナログ時代” でもウワサとか人間社会は基本同じですが、広まる規模やスピードが全く違しー
あと監督は構成とか含めスゴい方だなと思いながら観てました
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