劇場公開日 2022年4月22日

  • 予告編を見る

「いまを存分に生きるのだ」パリ13区 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)

4.0いまを存分に生きるのだ

2022年4月29日
Androidアプリから投稿
鑑賞方法:映画館

 パリは恋愛に自由な街だ。浮気や不倫で相手を責めるような野暮なことはしない。セックスの相性がいいかどうかは、セックスしてみないとわからない。一度セックスしてから付き合うかどうかを決めるような、そういう自由がある。
 本作品は、青春も終わりを告げようとする年齢の男女3人の群像劇である。人種も出身地もバラバラな3人だが、出逢い、会話をし、そしてセックスをする。
 満足なセックスができれば離れがたくなるが、互いに解りあえた訳ではない。セックスが上手くいかなくても、相手への尊敬がなくなる訳ではない。セックスの相性がよければ人生の楽しみが劇的に増す。しかしハマってしまうと地面から足が離れてしまう。溺れるというやつだ。男に溺れる、女に溺れる。

 台湾出身のエミリーは歌も踊りも上手い。ピアノも弾けるが、それらで食べていけるほどパリは甘くない。ルームシェアを募集すると黒人の青年が現れる。名前はカミーユ。日本の名前なら和美や純、忍、瑞生(みずき)といった男女共通の名前で、見た人の感覚で男女いずれの印象にもなる。エミリーはカミーユを女だと思っていたのだ。迷った末にカミーユを受け入れるエミリーだが、この選択がその後の人生を左右することになる。

 カミーユは頭のいい皮肉屋である。何でも相対化して評価する。絶対的な価値というものを認めない。教師をしていて、子供たちも教師の仕事も好きだが、教師の待遇に不満を持っている。半年ごとの査定で恣意的な評価をされるのだ。基本的に勉強は好きだから、いまよりも上位の教職に就くことを目指して勉強している。とはいえ、若くて性欲があり余っているから、エミリーとはすぐにセックスをする。

 エミリーはカミーユとのセックスに、尋常でないほどの快感を得る。そこで四六時中、カミーユにセックスを求めることになる。
 カミーユはエミリーとのセックスに満足しているが、目指す上位教職のために勉強する時間を確保する必要がある。エミリーの要求に応えてばかりいられない。エミリーとちゃんと交際するかどうかは、エミリーを尊敬できるかどうかにかかっている。

 ノラの人生は悲惨である。ノラという名前で、ヘンリック・イプセンの戯曲「人形の家」を連想した。本作品のノラも、育てられた伯父(叔父?)から、人形のように可愛がられた。つまりセックスの相手をさせられたのだ。そのときに仕込まれたアナルセックスの快感がいつまでも忘れられない。
 カミーユはノラを尊敬する。賢くて勇気があり、行動力もある。それに美人だ。しかしセックスがうまくいかない。ノラが勇気を出して求めてきたアナルセックスに、逡巡してしまうのだ。ノラはカミーユの逡巡を微妙に感じとる。この関係は上手くいかない。そしてネットで知り合ったセックスチャットの女性との関係にレーゾンデートルを求めていく。

 原題は駅名である。パリ13区にある地下鉄のオリンピアード駅だ。パリ13区は多国籍、多民族、多人種という人間交差点みたいな街である。他人の価値観やセクシュアリティに寛容で、SNSで知り合ってすぐにセックスをすることもある。しかし大抵は純粋で傷つきやすく、そして孤独だ。束の間の幸せと長い間の不安に生きている。

 本作品はパリ13区に暮らす30歳前後の男女の人間模様を上手に描き出した。インストゥルメンタルの音楽がお洒落で気が利いている。将来の不安は底知れず感じているが、いまを存分に生きるのだ。

耶馬英彦