わたしは最悪。のレビュー・感想・評価
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「何者かになる」を追い続けることは「最悪」か?
◯作品全体
次々とパートナーを変えていき、浮気をして、結婚間近の空気感をも振り払い、浮気相手のところへ身を寄せ、その相手すら自分の理想的な答えをくれなければ切り捨てる。挙句の果てに妊娠して母親になることの戸惑いをどうにかしようと末期がんの別れた男のところへ顔を出す始末。相手が自分のことを好きでいてくれていることに甘んじて、自分にとって都合の良い距離感となった男と昔話をして「良い母親になる」という言葉を引き出そうとする。死期が迫っている男に対して付き合っていたときに会っていたと平然と言ってのける姿は、病人の傷口をえぐっているようにしか見えない。
…いや、本当に、酷い女だなあと思うんだけれど、個人的に憎むことができないのは、その最悪な振る舞いが「何者にもなれない」ということにもがいているからだ。
自分の中で未来にいろいろな選択肢があることを自覚している時を「若いころ」というのであれば、若いころは「何者かになれる」と思っていた。自分の理想としている自分の姿にいつかはなれるんだと思っている間は、きっと主人公・ユリヤもその確証の無い向上心が自分を支えていたはずだ。
しかし自分が「何者かになれない」ということを自覚したとき、そうではないと誰かに言ってもらいたくて仕方がなくなる。本作ではパーティでアクセルが評価されていてユリヤが蚊帳の外にいるシーンが、その境界線だった。ユリヤは誰もしらない別のパーティで踊り、後々アイヴィンから「場所をとっている」踊りだったと言われるような存在感を示した。そして自分を主役と見定めてくれたアイヴィンに痴態を晒す。そうすることで、誰かの主役になっていたかったのだ。
一方でアクセルに自分の文章を的確に分析してもらって世間から注目されると、ユリヤの振る舞いも物語としての波風も落ち着いてくる。自分自身が主役であるうちは自己実現が出来ている、という認識なのだろう。
個人的にはこの、何者にもなれないことを突き付けられたときの悲しみや、年齢とともに役割を押し付けれる苦しみ、自分の役割を自分で選んで自己実現ができている間の喜びにすごく共感して心に刺さった。そしてユリヤの痴態ともいえる行動に、怒りや滑稽さよりも悲しさを感じてしまった。なぜならその行動には「何者かになりたい」という感情がしっかりとあって、思い通りにいかないユリヤの苦心が伝わるからだ。
自分が何者かになろうとしても、世間の評価や年齢が自分の心を折ってくるあの感覚。一番辛辣だったのは本屋でバイトをするユリヤがバックヤードから出てくるカットで、スタッフ用の服の背中に「喜んでお手伝いします」と書かれていたことだ。お前は主役ではない、サポートをするポジションだ、と冷たく突き付けられ、それを背中に掲げなければならない。何者かになりたい人間にとって、これほどつらいことはないだろう。そしてその服を着たユリヤは入院したアクセルに会いに行き、母親として生きるために背中を押してもらいに行く。「何者かになる」ということを一度は諦めてしまったように見えた。
しかし流産し、物語のラストはユリヤがカメラマンとして仕事をこなす。アイヴィンはユリヤが撮影した女優の夫になっていて、ユリヤが望んだ仕事に一人没頭する姿で幕を閉じるが、その結末は「最悪」だったのだろうか。
個人的には答えはノーだ。「私」の振る舞いは確かに最悪だったが、この結末は彼女が望んだものだ。それが孤独であれ、本人がずっと望んでいるものを追い続けるのであれば、「最悪」と結論で付けるのはまだ先のはずだ。
自分は「何者かになる」を諦めてしまった人間なので、諦めずに独り前へ進むユリヤには、どうか自分が主役だと思えるハッピーエンドの未来をつかみ取ってほしい。
本作を見ている時も、見終わった後もそう願い続けたくなる作品だった。
◯カメラワークとか
・朝のなにげない一コマで時間が止まり、アイヴィンとともに高台へ向かうシーン。空想の時間の切り取りが上手だった。街の人々が動かない、というのは空想の表現でもあるだろうけど、個人的には街の中で動いているのは自分とアイヴィンだけ、という主役を夢見るユリヤの理想が垣間見えたような気がした。
◯その他
・パーティ終わりにユリヤが街並みを見つめるカットが良かった。夕方の寂しい空気感と綺麗な街並み。街並みはすごく綺麗だからこそユリヤ自身のみじめさが浮き上がってくるような。
抵抗感はあったが突き離せない、未熟さに気付くまでの道程
このタイトルは主人公の自虐的な自己紹介で、実際はもうちょっとかわいげのある悩みの話かと思ったら、正直掛け値なしに最悪に近くてちょっと引いた。勝手な想像をした私が悪いのだが、ポスターのイメージも相まってライトコメディでも見るような構えで受けたので、主人公のキャラと後半の重さに不意打ちを食らった。
いわゆる「お勉強ができる」人間が、成人してから肝心の自分の人生の方向性が見えずに迷う気持ちは、何となく分かる。女性だからというだけで結婚すれば子供を産むだろうと思われることに抵抗を感じる気持ちも分かる。自分の人生も見定められていない状態で、子育てに自分の時間を捧げることに踏み出せない気持ちも、分かる。
一方、何となく感じる行き詰まりや息苦しさの理由を、彼女は他責的に考えているように見えて、そのことに抵抗感があった。恋愛への依存心が重い。人生の空虚さを埋める手段として、自分と向き合うのではなく、代わりに相手を傷つけつつパートナーを変えているように見えてなかなか受け入れにくかった。
年上のアクセルに「何か違う」と感じてアイヴィンと浮気し、アクセルにとっては唐突とも思える形で彼に別れを告げる。アクセルはご都合ではと思うほど物分かりよく別れてくれる。でもアイヴィンと付き合いだしても、結局自分の人生に対する「これじゃない」感は消えない。望まない妊娠と流産を経て、結局アイヴィンとも離れる。子供がほしかったアクセルの病床で、アイヴィンとの子供が出来たことを告白する場面はあまりに残酷。
ラストでその後フォトグラファーに転職し、他の女性と子供を持ったアイヴィンを割り切った表情で見送る彼女の姿を見て、やっと自分と向き合って、人生の歩き方を見つけられたのかも知れないと感じた。
映画として客観的に見ているから、他人の無神経さを見ているようなもやもやした気持ちになったというのもあるだろう。私自身も、違う形だが失敗して誰かに迷惑をかけ傷つけて、自分の未熟さを学んだ経験はある。この映画がそういった人生経験を主人公補正なしに描いているからこそ、あの未熟な自由さを見てどこか身につまされ、そこに抵抗感を覚えたのだろうか。
ユリヤ以外が静止した世界の描写、ドラッグでトラップした時の映像表現は幻想的で面白かった。ユリヤ役のレナーテ・レインスベの美しさ、北欧の風景や洗練されたインテリア、何より終盤でのアクセルの聖人のような言葉が癒しだった。
感想メモ
賢いからという理由で医学部に進み、自分は人間の肉体ではなく心に興味があると言って心理学を学び、はたまた写真家になりたいと言い、気が付けば何者にもなれないまま30代手前
君は行き詰まったら別れる、とアクセルに言われていたが、その通りだと思う
それ以上の道を模索せずに別の分野、別の男に可能性を見出す、そういう無いものねだりな態度はかなり心当たりがあり、身が引き締まる思い…
街のうごきが止まるシーンが印象的、動いているのは2人だけ、1番楽しい恋の始まり
あの夜だけの思い出にしておいた方が良かったと思うけどねー、直接の性描写無しの手前のエロさが何とも言えない、タバコの煙吸うのとか
彼女の生き方を”最悪”と称するには共感する部分が多すぎる、わたしも最悪かー
自分の思い描いていた理想と現実の乖離に耐えきれず、目を背け続けている、才能が無いと分かるのが怖くて向き合いきれずにいる
膵臓癌で死にそうな元カレのところに行って、君なら良い母親になれると言って、はかなり最悪だったけどね
人との出会いのタイミング、重要だなー
何も選択しないという選択
「女性はこう生きねばならない」というくびきから解放されたものの、決断をすることの責任感は増した現代女性。
愛されること・結婚すること・子どもを産むこと。
自分に確固たる「核」がない故に、パートナーと暮らすことで「自分の人生を生きている感覚がしない」または「人生のわき役のような気分になる」という物足りなさを抱いているユリヤ。
自分に重なる部分もあり、直視できない痛みがあった。やりたいことがありすぎて、何も成し遂げていない焦燥感…。
主人公は傍から見れば、複数の男性から愛されて未来を望まれて、幸せになれる可能性に満ちている。誰ともパートナーシップを築けなかった人からみたならば、なんてもったいない、羨ましいと思われる立場であることは間違いない。
でも、愛を受け入れたら最後、自分は「パートナーの恋人」以上の肩書は持てないし、子どもを産んだら最後、子育て中心の人生になってしまう。承認欲求はあるが自己肯定感は低め。
だから「どんな選択肢も選びたくない」。ユリヤを通して、監督はそんな複雑な現代女性の揺らぎを鋭く突いていると思う。
生理がきたのか流産したのかわからないが、最後のシャワーシーンのユリヤのほっとしたような顔が印象的。
でも元恋人の死に際からも目を背ける姿は、まさに最悪だと思った。
30代が一番惑った
私は仕事も恋愛も30代が一番惑っていました。だから、ユリヤの気持ちが良く分かります。
紆余曲折あり、アクセルは亡くなり、ユリヤは流産し、アイヴィンには子供が誕生した。ユリヤに関係があった人達の生と死が見事に対象的に描かれており、私を含め全ての人に当てはまる実に普遍的なテーマを扱っていました。作品のメインはここかな?と思います。
生と死は刹那。人生は不確かで不条理。
ボヤボヤするなわたし❣️
時間を止めて会いに行きたい
「わたしは最悪」って言うほど、最悪じゃないやん、って言うのが第一印象ですよ。医大から心理学へ転身し、物書きに中途半端に手を出したり、カメラを手に取ったり。年上の彼との同棲から情動に任せて浮気しーの。その浮気相手とも別れて、物語りの最後ではカメラマンとしての生活を送っている。
途中に妊娠や母親になることへの怖れ、何ての織り込んで来たりするんで、こりゃありがちな、女性の自分探し&自立物語りであって、「最悪」ってほどの話でもなく。
と物足りなさの残る映画なんですが。
不思議と。奇妙なことに。
「The Worst Person in the World」と言う原題フィルターを通して物語を眺め直すと、印象が変わります。"Person"なんっすよ。”Woman”でもなく、「私」でもなく、客観的に”Person”なんですよ。
確かになぁ。主人公は、いくつかの場面で、最悪の選択をしてしまう最悪の人物、って言えなくも無く。流れに沿って、一人の女性の生き方として見ればですよ「ただ自由に生きてるよね」って言うだけの物語りですが、局面局面では最悪の選択を積み重ねてたりして。
脚本が技巧的、って、見終わってから感心することしきりです。
と言うか、邦題、酷いね、地味にw
ユリヤ役のレナーテ・レインスベのカンヌ主演女優賞には納得です。128分の間に、よくも、これだけの表情を見せてくれたなと。それにも感心致しました。
よかった
評判が高かったので見たのだけど、自分は女性ではなく、子どもが好きなのであまり共感できるところがない。
せっかく医学部に入ったのなら医者の資格を取ってから別の道に進むのがいいのではないだろうか。その道の枠のなかで自分に合う方向を目指せれば、それが精神科でもいいし、途中で道がそれ過ぎだ。カメラなんて極端な話、中卒でも関係ない商売だ。もともと教養の高い層に所属している人は、そこに価値を感じないのだろうか。僕はヤンキー高校の出なので、賢い人たちとそうでない人たちの違いがすごく分かる。もともと教養の高い層の人なのだろうそこも共感できない部分だ。
正確に難ありと言ってもそもそも美人だし、持たざる者ではなく、それほど最悪ではない。僕の知っている若い人は、本当に見てくれが悪くて友達もいなくて親ともうまくいかず、お金もない。その人に比べると全く最悪じゃない。
勝手に見知らぬ人たちのパーティに入っていくところはハラハラする。
共感したくなかったけれど
この作品のレビューを読んでいると、沢山の「主人公が我儘すぎて共感出来ない」「自分探ししすぎ」「思いやりがない」というコメントに出会う。
主人公のユリア、良く言えば自分に正直で魅力的だけど、本当に自分勝手で甘ちゃんですよね。
私はこんなにモテても優秀でもなかったけど、ダメなところはめちゃくちゃ身につまされてしまった。
歳上で才能ある恋人が好きだけど、一緒にいると自分の何者でもなさがコンプレックスになってしまう。妻や母親の役割を引き受けるのも受け入れがたい。
それなら仕事や自分自身にもっと向き合えばいいのに、居場所を次の恋人に求めてしまう。
作中でいちばん「あちゃー、最悪だな」と思ったのは、ゴミ箱にあった原稿を拾って褒めてくれたアイヴィンに、八つ当たりで怒るシーン。
「落ち着いて50歳になってもコーヒー淹れてれば?」
自分が何者にもなれてない焦りとプライドと、アイヴィンのことそんな風に見てたんだ…っていうのが合わさったひどいセリフ。
いちばん「甘えてるなー」と思ったのは、病気のアクセスに「いい母親になるよ」って言ってもらうところ。自分が浮気して振っていて、相手は余命わずかで辛いのにね。でも、この友情がちょっと救いでもあるんだけど。
ひどいひどいと書きましたが、ここまで主人公の勝手さや子供っぽさを描きだしたのは本当にすごいと思う。
この映画に限らず、30前後の女性の焦りや葛藤を描いたストーリーはとても多い。妊娠出産のリミットが迫り来ることと、未熟でも若くて魅力的だった時期が過ぎていくことの焦りは、世界共通なんだなと感じた。
ユリアはエピローグでようやく腹をくくって自立していた。この先はどうやって幸せに生きていくんだろう?
答えはないだろうけど、知りたいと思った。
自身に正直に生きようともがくユリヤ
ユリヤを演じるレナーテ・レインスヴェのナチュラルな美しさと、リアルな静と動の演技に魅了された。
聡明な恋人アクセル( アンデルシェ・ダニエルセン・リー )と、パーティーで出逢ったアイヴィン( ハーバート・ノードラム )、二人の男性の間で揺れるユリヤ。
作品の中の男性が皆、保守的ではあるが家庭的で優しい。感情をぶつけるユリヤと向き合う彼らの姿がリアル。
映画館での鑑賞
女性のキャリアは北欧といえどもなかなか厳しい
一般的には、北欧でも家事、育児は女性主体で、キャリアプランが描きにくいと言う報告を読んだことがある。北欧は、女性も男性と互して働くイメージがあっただけに
驚きを覚えたが、この映画はまさにそんな北欧の女性の苦しさ、もどかしさを描いている。
やりたいことがあっても、パートナーを優先したり、そこでストレスを溜め込んだり。最後には好きな仕事につく。この直前に最初のパートナーの臨終のシーンで別れるんじゃなかったでは、陳腐な終わり方になったけど、そうでない終わり方であったところもよかった。
ミニシアターで、ほとんどが女性。男性は数えるほどだったが、こう言う映画は口コミで人が来てるんだろうなと思った。
それほど最悪じゃなかったと思うけど。
30歳前後の迷子の女性たちやま過去に迷子だった女性たちは、苛立ったり羨ましかったりあるあるーな展開では?
やりたいこと見つけたやってみたこれじゃない感(実行できるのすごいよね)、焦りとか、そこを基点とする暴走とか。
人間関係の拗れとかは個人的には友達がこんな子なら忠告したり、距離おこうってなるけど、正直にそれを選択して、違和感を隠さずぶちまけて、そこから始まるスタンスの彼の国ではありなんだろうなって。それは羨ましいですよ。
最後スチールカメラマンとして職を得て自立しているのは結果オーライだったと。
子供はいらないと言ってたアイヴィンがきっちり子供を持つ父親になってるのは、これ、あるあるなんですかね、男性的に。
タイトルなし
なんかこの、そこはかとない邦画感はなんだろう。映像表現とか暮らしぶりが漫画っぽいからだろうか。あと、死別が『セカチュー』とか『愛と死をみつめて』(古い…)とかの記憶を呼び起こすからか。
とはいえ、それっぽいことやるけど、何にも対して思い入れられなくて自分を賭すことができず、きらめいて見える瞬間的な快楽を幸せと無意識に誤謬するというのは身に覚えがある人が多いのではないか。フェミニズム“ぽい”わりには…という批判もあるようだけど、そのペラペラの描かれ方は、彼女がそれを便利な対象として利用しているだけだという、彼女の空虚さの表現として、かえって効いているようには思った。
令和最新版SATC IN オスロ
恋愛映画なんて滅多に観ないものだから、心をどこに置いて臨めばいいかわからないのである。恋愛観なんて人それぞれだし、その価値観が合わなければ共感なんて出来ない。人生にも恋愛にも移り気な主人公が何をしても何を言っても心には響かない。残念ながらそれが感想。
おそらく女性の方が相性が良さそうな作品だ。ノルウェーに令和も平成もないのだが、その題材や環境は、まるで令和最新版。そして、クセの強い女性が恰好良さげに生きる姿はSATCのそれなのだろう。いや、ほとんど観たことは無いんだけど…。
妻と二人で観覧し終え、併設された喫茶店で感想を言い合う。彼女からも同じタイトルの名が出たから、凡そ間違ってはいないのだろう。しかし、この時間を経ることで、特に響かなかった作品をもう一度観たくなったのだ。
移り気な自分と隣にいるプロフェッショナル。仲間とのクリエイティブな会話にゲンナリし、医者の振りをしてみたり、子連れの常識に振り回されたりする。漫画家からの賞賛に頬を赤らめ、カフェ店員の賛美は怒りの対象にすらなってしまう。この話の主題はコンプレックス。そう捉えると、まったく違うユリヤの姿が浮き見えてくるのだ。
そして、自信を与えられなかったと嘆くアクセルが、最期の姿を通して彼女に何かを与えられたとしたら…?映画を観終えた数十分後に鳥肌が止まらなかった。やはりもう一度観なければいけないようだ。
投影
たいていの私は、まわりに自分をあわせていくことに平気でいる。
多少のハテナ?は置き去りにしても思い込むことさえできる。
こどものころからの慣れに加え根本的な性格は、あえて波風を立てることを一番に嫌いそこに凪を生み出し保つバランスを知っている。
断然、その役割で楽にいられる。
そんなわたしからみたら、ユリヤは真逆の位置のひと。
十分好き勝手に生きていると言える。
しかし、わがままだとは思わず、むしろユリヤのように自分の心の声と次のアクションがリンクしている素直さに憧れそのままどこまでも彼女らしく進んでほしいとわくわしながら観ていたことに気づく。
ユリヤは結果的に心から愛し愛された2人の男性との別れが訪れたけれど、それもあの素直さで得ることができた人生の一幕。
もちろん、基本どの過程にも他人を傷つけないルールには則って進んでほしいけど…
やっぱり傷つけてしまう部分は避けれない。
だけど、忘れてならないのは、彼女は、そんな時逃げるわけではなく必ず真正面から語るところ。
そこに彼女の魅力がある。彼らも彼女のそんな素直さに惹かれていたから納得してくれたんだろう。
人生って1回だし、年齢に応じた行動範囲もそれぞれ。
明日、いやこのすぐあと幕が降りるかもしれない儚さを常に纏っている。だったら、たまには内なる声に耳を傾けてみたら?自分で凝り固めた枠をとり払ったり、ゆるめたりしてみたら?ただし、かならずユリヤのように
自分と同じく相手に対して真心を添えてね。
私にとってオスロの白夜は広く遠い世界の存在の象徴。
そんな異国の町のだれかの数年の日常の切り取りに違う生き方を投影できる体験はいちばん私を知ってる私が私に語りかける時間だった。
オスロで暮らす30歳のユリヤ(レナーテ・レインスヴェ)。 成績優秀...
オスロで暮らす30歳のユリヤ(レナーテ・レインスヴェ)。
成績優秀で、大学では医学を志したが、詰め込み教育と遺体を扱うのに慣れず、心理学へ転向。
ここでも詰め込み教育に慣れず、若い講師と付き合っていたけれども、別れて転職。
カメラマンを目指すが、本気かどうかはわからない。
ある日、年上のグラフィックノベル作家アクセル(アンデルシュ・ダニエルセン・リー)と知り合い、同棲を始めるが、彼に誘われて行った友人たちとのファミリーパーティでは子どもや他のカップルに辟易。
アクセルも急に「子どもが欲しい」と言い出す始末。
アクセルとの間にも倦怠期が訪れたある日、見知らぬパーティに無断参加したユリヤはコーヒーショップで働く青年アイヴィン(ヘルベルト・ノルドルム)と出逢う。
彼もまた、環境保全に傾倒する彼女と関係が冷えつつあった頃。
すっかり意気投合、ほとんど不倫寸前までいったふたりだが、どこかに歯止めはあったようで、その日は別れたのだが・・・
といった物語で、序章・終章と12の章との章立てスタイルの映画は、ここいらあたりが中盤。
前半、「こりゃまた、こじらせ女性の困った映画を観ることになるのかしらん」と恐れおののいたけれど、アイヴィンと知り合ったあたりから俄然面白くなります。
たぶん、環境保全にのめり込んでいくアイヴィンの彼女の様子が可笑しく、覚悟も信念もないユリアとの対比が際立ってくるからでしょう。
まぁ、アイヴィンの彼女の行動は、日本人からみると過激で行き過ぎなのかもしれませんが、北欧の人々からみると「最悪」ではないのでしょうか。
後半に行くにつれて、ユリアが「最悪」なのがわかってくるのですが、それはまさしく、状況に掉さすだけの才能も才覚もありながら、自分の未来に対する「覚悟」や「信念」がないこと。
彼女を取り巻く状況は最悪ではないのですが、信念や覚悟がない生き方こそが「最悪」。
そんな状況を変える転機がユリヤに訪れます。
アイヴィンと関係を続けるうちに予期せぬ妊娠をしてしまうのです。
ユリヤ本人が変わる前に、状況が彼女を変えようする。
さらに、別れたアクセルが末期の腎臓がんだということを知らされ、死んでいこうとする元カレを目のあたりにする。
終盤の決着がいいです。
凡作ならば、アクセルの死とユリアの出産というわかりやすい対比・希望のようなものを提示するところですが、運命は皮肉。
出産を決意したユリヤが流産してしまう・・・
ここを静的に抑えた演出でさらりとみせて、終章へとつなぐ演出に好感が持てました。
短い終章では、彼女の人生に対する覚悟が描かれていて、ほっとしました。
そういえば、アクセルと別れる際にユリヤが言っていた台詞、「あなたと一緒にいると、わたしは私の人生なのに脇役になっている」という台詞、その答えが終章に描かれているように感じました。
秀作。
わたしは最悪。なのか。そうでもないのか。
面白かった
もしかしたら、合わないかも、と思ったけれど、そんなことは全然なかった
あと、冒頭に、プロローグとエピローグと12章があると説明が入るから、観てて、メリハリがあった
自分の人生の選択に迷うことなんて、たくさんあるはず
選択するときも、選択した後も
結局、何者にもなれていないように感じることも普通にあるはず
長年付き合った相手とのあいだのズレ、感じる違和感、そんなときに別の相手への想いが芽生える、それもまた起こり得るはず
ユリアが我が儘なわけでも、タイトル通り、最悪なわけでもなく、それを描き出しただけのように思えた
後半に予想してなかった辛い展開があり、彼女の人生はまた動く
そして、迎えたエピローグ
何者かになったようにも見え、手に出来たはずのものを取りこぼしたようにも見え、何とも言えない気持ちになった
ユリアでなかっただけなのか
そういうご縁だったのか
そして、これもまた、現実にもあることだよなと思いながら
最悪……じゃなくて、サイテーでは?
メチャメチャ、ブスに見えたり、すごくキュートに見えたり。
それがユリアの魅力なんだろうな。
それにしても、出だしの大学から最終章まで、何とも自分探しの長旅だこと。
すでに30過ぎてるし、それなのに失敗して妊娠とかって、あまりにも無責任。
まあ、若気の至り的なお話ならばだけど、やりまくるにもその年で?だし、マジックマッシュルーム初体験にしては、年取り過ぎてない?
ようやく落ち着いたところが、そこなのか。
後先考えずに、ヤドカリ的な生活ってのもね〜。
ちょっと、辛口だけど、見つけた男はどの人もいい人。本屋でバイトしてるだけの自分は棚に上げて、50になってもコーヒーだしてれば?って、マジサイテー。
でも、いい人見つける目はあるのか。
救いはそこだけ?
『花束みたいな恋をした』みたいな
『世界で一番最悪な人間』とは一体誰のことなんだろう。新しい物を見るとすぐに目移りする主人公ユリアなのか?それともアングラコミック界で成功をおさめ、ユリアと同棲をはじめるアクセルのことなのか?GUARDIAN誌のピーター・ブラッドショーに言わせると、アクセルがその『世界で一番最悪な人間』らしいのだがどうもストンと腑に落ちない。全く個人的な意見で申し訳ないのだが、ユリアの誕生日に「腰が痛い」と言って姿も見せず、ユリアに使用済みのタンポンを夢の中で投げつけられる、母親と自分を捨てて別の家庭を持った父親こそ、監督ヨアキム・トリアーが“最悪“だと思っている人物像なのでは、と思ったりしたのである。旧態依然とした道徳や倫理にいまだ縛られてている保守的な方が見ると、定職にもつかず男を取っ替え引っ替えしているモラトリアム女子ユリアこそ最悪に思えるのかもしれないが、「そんな超テキトーなところが最高なのさ」と少なくともヨアキムは思っているに違いない。
デンマーク生まれのノルウェー人ヨアキム・トリアーは、本作をオスロ三部作の最終章に位置付けしているらしい。ノルウェーの首都オスロの都市化とともに、そこに暮らす人々がどのように変化し、そして映画監督としての自分がどう変わっていったのか、はたまた、変わっていくのかを、静かに見つめた三部作だったのでないだろうか。前二作はいまだ未見なので偉そうなことは書けないのだが、三部作に共通して出演している俳優アンデルシュ・ダニエルセン・リーや、本作の主人公ユリアにある程度自己投影している映画のような気がするのである。キャリアアップしていくパートナーの華々しい活躍を横目で見ながら、いまだ何者にもなれない自分にフラストレーションが溜まっていくユリア。「まだ硬くなっていないふにゃチンが好き、私がこれから硬くしてあげられるから」言い換えれば、(何者かになる前の)他人に何がしかの影響を与えられるインフルエンサーになることがユリアの夢だったのだろう。最後は写真家として生計を立てていきそうなユリアの姿に、そこはかとなくヨアキムの“残像”が重なるのである。
本作をみた某映画評論家が坂元裕二脚本の『花束みたいな恋をした』みたいな映画だと感想を述べていたが、大量の情報を与えられ生き方のチョイスを迫られるユリアは、まさに花束のようなコンテンツに囲まれ生き方を見失っていく日本の若きカップルそのもの。確かに、ポップカルチャーを武器に世間(この映画の場合はオスロという都市)と対峙しようとする麦と絹の姿は、アクセルとユリアの生き方に似ているのかもしれない。漫画家のアクセルが自分の仕事に埋没していく様子は麦のリーマン生活そのままだし、ユリアが都市をおし流していく時間の流れを一旦止めて不倫相手に会いにいくシークエンスは、絹がゴールデンカムイやゼルダの伝説にのめり込み現実逃避をはかる様子にそっくりだ。結局、麦と絹が世間という大衆社会に屈服し飲み込まれていくのに対し、フェミニズム的コンプライアンスに対決姿勢を崩さなかったアクセルは病死、ユリアはその遺志を継いで映画のスチールカメラマンになるのである。
ユーロ系の才能ある若き映画監督(アリ・アスター、ロバート・エガース…)が、スウェーデンの巨匠イングマール・ベルイマンの影響をそろって口にするのを最近よく見聞きする。ヨアキムもまた、無意識のうちにベルイマン作品に影響を受けていたことをインタビューで語っていた。どれが本当の顔かもわからないほど何枚もの“仮面”を被っては捨てていくユリア。そして、娘の生き方に全く無関心、訪ねてきた娘に再婚した女の娘と同じジャージをプレゼント、腰痛を理由にソファに座ったまま動こうとしないユリア父の姿に、沈黙する神との共通項を見出したからではなかろうか。そんな最悪の神に対峙するためには、アクセルのように一つの生き方にこだわった末に病死するのではなく、人生いきあたりばったりのユリアのようなフローティングする生き方がむしろ相応しいのではないか。女性の寿命が35歳までだった時代とは違って、人生の選択にかける時間はたんまり残っているのだから。そんな寓意を感じた1本である。
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