ベネデッタのレビュー・感想・評価
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修道女のイメージがいい意味でぶち壊された
・全体を通して
修道院内の閉鎖的な環境で物語が進行し、終始陰鬱な雰囲気を感じさせる映画だった。
鑑賞前は、修道女(シスター)達に対して、ベネディクト会の「清貧・純潔・服従」の戒律に見られるような禁欲的な生活をしているイメージを抱いていた。しかし、この映画に登場するベネデッタとバルトロメアは、互いに体を求め合い、削った聖母像を性玩具代わりにして性行為しており、自分が抱いていた修道女像とはかけ離れた人物たちだった。特に気に入ったのは性行為のシーンで、普段修道女として姿とのギャップもあり、本能的で動物的に体を求める2人がとても良かった。禁欲的なイメージのあった修道女も、自分達となんら変わらない存在にも思えた(戒律を遵守する敬虔な修道女もいるとは思うが)。
聖痕を自身でつけたのかというバルトロメアの問いに、ベネデッタがわからないと返答したのは、嘘だと認めたくなかったのか、自分自身でも記憶が曖昧になっていたのかどっちだったのかわからなかった。
どこまでが史実でどこからが創作なのかははっきりさせておきたいので、ネットで今作について調べてみようと思った。
・各場面を通して
「痛み」が必要ということを神父から聞いた後、バルトロメアに熱湯の中の糸を拾わせた動機がちょっとよく分からなかった。バルトロメアのために痛みを経験させようとした?
同性愛については悪いとは思わないが、修道女として生活している身でありながら聖母像を性玩具として扱うのは、頭ぶっとんでるなと思った。
今作で、苦悩の梨という拷問器具が存在することを初めて知った。バルトロメアの絶叫が修道院内に延々と響き渡るシーンは見ていて辛かった。だが、その後書物の中に隠した聖母像を見せる場面では、普通に歩いている様に見えたので、さっきあれだけ悲鳴を上げていたわりには普通に歩けるのかなと疑問に思った。
ベネデッタが火刑に処される直前、教皇大使がベネデッタに今告白すれば絞首刑に変えてやると説明するシーンがあった。これは『ジャンヌ・ダルク』(1999)の終盤のシーンに似ているなと思った。火刑の直前に減刑と引き換えに告解を促すのはよくあることだったのかな。
ベネデッタの「私の心に悪が侵入した」という発言は、バルトロメアのことを示唆していたように感じた。
ベネデッタが火刑を免れて、教皇大使が殺される展開は予想していなかった。そのまま火刑に処されて終わりだと思っていた。
日記(余談)
本作と関係ないけれど、映画を観に行ったとき館内には自分1人しかいなかった。R18指定の映画だからかホラー映画の予告が多く、1人きりの暗い館内でそれを延々と流されたのはきつかった。今後、R18映画を見るときは上映してすぐの人の多い時間帯にしようと思った。
奇跡なのか狂気なのか野心なのか
修道院を舞台におよそ修道女や教会の要職者しか登場しませんが、人間の生々しさを強く感じる作品です。
幼い頃からキリストの幻視をみるベネデッタは、6歳から修道院に入り、世俗を知らないまま成長します。
修道院に逃げ込んできた女性・バルトロメアと出会ったことから、ベネデッタの心にいままでなかった感情が生まれ、ベネデッタの幻視や言動は大きく変化していきます。
ベネデッタの幻視は、観る人に疑心を与えるように描かれています。
少女ベネデッタがみる幻視は、キリストとの恋愛を夢見るような現実味のない幻想のようです。
大人になると、キリストの心臓や聖痕を与えられたりと、キリストに成り代わりたい願望が見せる夢のようでもあります。
物語の後半では幻視の描写はなくなり、ベネデッタの言葉は幻視からのお告げなのか彼女の欲望なのか曖昧になっていきます。
ベネデッタがバルトロメアと情交を深める様子は、肉欲に溺れるようでもあり、エクスタシーによってある種の法悦に近づこうとしているようにも感じられます。
バルトロメアは奔放にベネデッタを深みに誘いながら、関係が明らかにされることを恐れ怯える様子があります。
対してベネデッタは、当初バルトロメアに近づくことをためらっていましたが、関係をもった後は恐れがなくなります。教会に認められないことだと理解する一方で、ベネデッタ自身の信仰においては悪いことではないと確信しているようでもあります。
公式サイトの監督メッセージに「完全に男が支配するこの時代に、(略)、本物の権力を手にした女性がいた」とあります。
ベネデッタは物語の終盤ではもはや町の人々の心を掌握し、教皇大使の権力をも超える力を得ています。
立場や役職によってではなく、信仰心で人の行動を操ることこそ確かに本物の権力なのかもしれません。
ベネデッタをそうさせるのは奇跡なのか狂気なのか野心なのか、観る人の信じたいものによって真実は変わるでしょう。
いまに通じるリアルさ。
宗教、愛、性、政治、憎悪、疑義、従順、清廉、復讐、裏切り、怒り、独占欲と、人間のほぼ全てが描かれてるけど、記録を元に制作したフィクションとはいえ、リアルなものを感じ見応え十分で終始見入ってしまった。
彼の作品の、特に女性の裸のシーンは、いつ来ても良いように痛みに耐えられる準備をしている自分がいる。にもかかわらず、毎度痛々しい思いをする。
なぜだかロボコップが観たくなった。
聖母とディルド
ポール・バーホーベン、相変わらずスゴイのぶっこんでくるな。カンヌでノミネートされるのも納得。テーマ、脚本、役者、演出、撮影、美術と、すべて高水準の作品。
本作は宗教と性という議論を呼びそうなテーマを真正面から取り上げてる。聖痕の現れた聖女がエチエチするシーンに、キリスト教保守派は激怒しそう。
宗教がセックスを汚れたものとして忌避することは、ある意味、人類の苦悩を象徴していると思う。愛や喜びを経験することを否定し、苦しみや痛みを美徳とするなんて、制限と苦悩に満ちた人類の特徴そのものではないか。
映画「スポットライト」で描かれたように、カトリックは世界中で子供をレイプするという鬼畜なことしておきながら、性愛と喜びを経験した聖女を火あぶりの刑にする。
この倒錯加減が狂気の沙汰。もうこんなの終わりにしよう。
聖か俗か?嘘か誠か?
カトリック教会を舞台に同性愛、魔女狩り、拷問、権力闘争を描いており、かなり挑発的な内容の作品になっている。しかも、事実を元にしているという前振りをわざわざクレジットする大胆さで、このあたりに鬼才ヴァ―ホーベンの気骨が伺える。
これまで宗教という物に余りこだわりを見せてこなかった氏が、ここにきてそれを題材にしたというのは少々意外だった。「4番目の男」に若干、聖母のイメージが嗅ぎ取れるが、「トータル・リコール」にしろ「インビジブル」にしろ実存主義の作家という印象を持っていたからである。このあたり、一体どういう心境変化があったのだろうか?
ともあれ、今作もかなりスキャンダラスな内容であることは間違いなく、宗教に狂わされていく人々の姿をシニカルに表しており、いつものヴァ―ホーベンらしさは感じられる作品である。
映画は、キリストの幻視を通して修道院でのし上がっていくベネデッタの姿を、バルトロメアとの愛欲を交えながら描いている。ベネデッタは本物の聖女なのか?それとも只のペテン師なのか?そのあたりの真偽を敢えてぼかしている所が面白い。
例えば、ベネデッタがキリストの復活を再現して見せる所などは理屈では考えられないシーンである。少女時代のベネデッタが倒れたマリア像に押しつぶされそうになるシーンも、普通に考えたら起こりえない現象である。こうしたオカルト的な事象に加え、彼女の周囲には様々な事が偶発的に起こる。したがって、全てを彼女の狂言というふうに片付けられない所がミソで、彼女のミステリアスな存在感にグイグイと引きつけられた。
そして、ヴァーホーベンと言えばエロスとバイオレンスの作家というイメージがある。本作の製作時、齢80を超えていたが、それでもなお衰え知らずといった感じで、刺激的なベッドシーンや残酷な拷問シーンが登場してくる。このあたりの作家性も健在である。
本作で残念だったのは、終盤にかけて作りが若干雑になってしまった点だろうか。バルトロメアの心理変化が省略されてしまったことと、ベネデッタが町の外へ出た理由がよく分からなかった。それまで丁寧な描写に徹していたのに、終盤はひどく無頓着な演出になってしまったことが残念でならない。
また、後半はベネデッタとバルトロメアの愛欲関係を断罪する審問会が見所となるのだが、ここも”ある証拠品”を巡る取り扱いが安易に感じられた。推理物では、もはや使い古されたトリックで、もう少し捻りが欲しい。
キャスト陣では、何と言ってもベネデッタを演じたヴィルジニー・エフィラの堂々たる演技が印象に残った。悪魔に取りつかれように激昂するシーンは、ほとんどホラー映画のような恐ろしさであった。
修道院長を演じたシャーロット・ランプリングは複雑な胸中を深みのある演技で体現し、こちらも貫禄の巧演を見せている。
尚、本作には一つだけ大きなミステリーが残されている。それは終盤でベネデッタが修道院長の耳元でささやいた言葉である。劇中では無音なので聞き取れなくなっているが、果たして彼女はどんな言葉をかけたのだろうか?その後の修道院長の行動を考えると興味が尽きない。そこを探ってみると、本作の味わいは一層増すだろう。
狂信
同じく中世イタリアの修道院を舞台とした「薔薇の名前」は大好きなのですが、本作はイマイチ楽しめませんでした。誰一人、何一つ共感できなかったとでも言いますか。この映画のテーマを私なりに一言で表すのであれば「狂信」という言葉なのだと思います。ヒロインも然り、市井の人々も然り。「信じる者は救われる」とはよく言ったもので、逆に「信仰の怖さ」も感じました。それにしても、中世の裁判って雑で乱暴ですよね(笑)。モヤモヤすることが多い中、シャーロット・ランプリングの存在感は流石でした。最後に全て持っていきましたね。その後のシーンは不要なのではないかと感じるほど。
3.8)✝闘え!聖女✝
前作『ELLE』に続き、今作も妄想の映画だ。
ただし監督自身の妄想aka性的嗜好の投影ではなく、主人公ベネデッタの妄想を創作したことで客観性が生まれ、一段上の映画になった印象。
「妄想」と書いてしまったが、ベネデッタとキリストの逢瀬が、夢か幻視か自己暗示か人格障害か?解らないように出来ているところが面白い。内面が見えない「信頼できない」主人公であるにも関わらず、不思議とベネデッタを心から応援してしまう。権力を批判するだけの人間よりも、その権力の渦中で闘うカッコ良さがここにある(たとえベネデッタ本人には、そんな意識がないのだとしても)。
それにしてもキリスト登場場面の、気が抜けた炭酸のようなオーラの無さには笑った。モンティパイソン的トンマ感と、ハーレイクイン的王子様が同居する「俗物」以外の何物でもないあの感じ。そんなキリストに恋してしまうベネデッタの俗物的可愛さよ。彼女の(そして本作の)魅力だ。
妄想と即物表現の人、ヴァーホーベンが健在
けっこうよかった
面白かったのだけど、結局のところ宗教や修道院に関心が薄いため、あまり心に響かなくて長いしちょっと眠くなる。うんこやゲロ、おならといった下ネタがちょいちょい出る。景気よく女性の裸も見られる。コロナ渦っぽい展開もある。『ロボコップ』以来バーホーベン監督のファンなので劇場で見れて気が済んだ。
意外と良い
ちょっと変わった作品というイメージでしたが、映像が美しく、最近のアカデミー賞候補よりよっぽど分かりやすい内容でした。宗教の偽善が良く描かれています。
シンク・オア・スイムのコーチなどキュートな印象のV・エフィラやシャーロット・ランプリングの怪演が迫力満点でした!
何ともいえず。
時代的背景とか宗教的背景とかよくわからないので何ともいえず。
ただ、嘘をついたのかそうじゃないのかの部分はこだわりなんだろうなと思った。
最後まで、事実に基づくと知らずで、まあそれであの正夢っぽい演出は冒険かもね。
奇跡を目撃した
修道院での話となり、どこか陰鬱で退屈なものかなと思ったが、振り切った不道徳さベネデッタが起こす奇跡の数々に衝撃を受ける。
サクセスストーリーのようでスカッとする部分もあるが、奇跡か嘘か曖昧なまま進めていくのが良い。
とにかくベネデッタの信仰の深さは間違いない。
閉鎖的な空間が故起きた女性同士のラブシーンは生々しくてかなりエロいと感じた。
マリア像をあんなふうに使ってしまうなんて、今作はほんと挑戦的。
聖女か狂信者か。宗教の欺瞞を描いたバーフォーベン面目躍如の傑作。
17世紀のイタリア、腐敗したカトリック教会を舞台に一人の敬虔な修道女ベネデッタに起きた奇跡をめぐる騒動。
娼婦や侍女にまで手を付けている教皇大使、奇跡を自らの出世に利用しようとする教区の司祭、信仰心を持たない修道院長。
信仰心を持つのは末端の人々や下位の修道女ぐらいのもの。その彼らの信仰心を利用して支配してきたのがローマ教会だ。
かつてローマ帝国の国教とされたのを皮切りに、キリスト教は勢いを増して次々と異教徒を排斥し、又は改宗を強制した。その流れは全世界に及び異端者の迫害、虐殺、原住民の強制的改宗又は虐殺を繰り返し、やがて世界一の信者数を獲得するまでに至った。
キリストの教えである汝殺すなかれ、汝姦淫するなかれ。それらの教えは彼らにはなかった。自分たちの権威を保持するために教義は都合のいいように捻じ曲げられてきた。世界一の信者数獲得の裏で多くの血が流されてきたのがキリスト教である。
幼き頃から敬虔なカトリック信者のベネデッタはぺシアの修道院に入れられ、信仰生活を送っていた。
そんな彼女はある日キリストの夢を見る。私の花嫁になれというキリスト。夢だけでなく次第に激しい苦しみにさいなまれた彼女の両手両足にはスティグマータが現れる。
周囲は困惑するが教区の司祭はこの奇跡を出世に利用しようと彼女を修道院長にしてしまう。
果たして彼女に起きた奇跡は事実なのかあるいは虚言によるものか。
監督のバーフォーベンはこの時代にして一人の女性が自分の生きたいように生きようとしたその姿に作家としての創造力を搔き立てられたという。ただでさえ女性の人権がない時代において自分らしく自分の欲望に忠実だったベネデッタ。
彼女に起きた奇跡が事実だったのかあるいは彼女の自作自演だったのか。審判資料からは彼女の真意は推し量れない。
ただ、人権など無きに等しい中世の時代において一人の女性が戦うには奇跡が必要だったのかも知れない。
欺瞞的な宗教、その宗教と結びついた権威主義の下で一人の人間として闘ったベネデッタ。彼女が狂信者だったのかあるいは聖女だったのかは知る由もない。
この監督は観客を楽しませることをわかっている。
残念ながら、私は神秘的体験をしたことがない。勿論、神の啓示を受けたこともない。神や仏が存在することを願っているが、死んでみないとわからない。
実在の人物から着想を得て作られた映画で、物語として十分楽しませる映画であった。史実からかなり脚色されていると推測するが、面白かった。
シャーロット・ランプリングは息の長い女優さんだ。感心する。
思考停止を許さない
幻視や奇跡がほんとにあったのかどうか、ベネデッタは最後まで明かさない。本人にとっての事実と、客観的な事実とは違う。映画内での描かれ方としては、ベネデッタの自作だったという風に見える。起こり得ないような「奇跡」を、起こったのだ、と決めてしまうとそこで思考停止が起こる。監督は、カトリックに対して批判的だ。これは監督の個人的な体験とも結びついているそうだ。平山夢明さんのトーク付きで、面白かった!ベネデッタは全然いい人とは描かれてないけど、女性が虐げられる社会の中で、戦っていて、痛快だ。パールバーホーベン節、というような感じで平山さんは言っていた、露悪的なケレン味もモリモリだけど、実はちゃんとしたことを描いている。
健在
自身をオマージュしたのかと見紛う。中世的な世界はグレートウォーリアーを思い出させる。レース越しに肢体を見せ、銀器に映して乳房を見せ、加速度的に裸体を愉しませようとする爺。下半身晒して座る姿は氷の微笑か。女性の園を描くのに連れ糞とは如何なることか?芸術とか演出以前に単に悪趣味と考えた方がすんなりくる。
ペストとコロナを重ねてみてしまう。価値観や体制に抗うことに生きるものの姿がある。道を辿って生きるのが面倒であれば空をもかける。応報などない。生きた結果のみが残り、折れたものは身を焼き、信じる者は囚われても自由であり続ける。
ヴァーホーベンは全てをくれる
われわれが映画に期待するもの、アクション、ドラマ、サスペンス、エロス、ミステリー、歴史、スピリチュアル、そういうもの全てをヴァーホーベンは与えてくれる。17世紀といえば近世だが、カトリック世界ではまだ教会が強く、中世的なものに満ちていて、嘘か真かも境界が定かでない環境で、奇跡、神秘、陰謀、伝染病、審問、拷問、火刑なども見られる。フェミニスト映画との深読みもあるようだが、意図的か神がかりか分からないが、確かに男たちが作った教会秩序を誑かすところはあり、それが面白さを増している。
醜悪と生臭さ、そして欲望
見にいこうにも夜遅い上映が多く…なんとか19時台があったので、やっと見に行ってきまして。む、む、これは大人の時間じゃないと上映出来ないわー
生臭坊主ならぬ神父、教皇どもにエロい修道女の絡みなど、瞬きする間もない。神に使えし者どもの醜悪さがイイね。
17世紀イタリア。 6歳のベネデッタは、両親に連れられ修道院に出家...
17世紀イタリア。
6歳のベネデッタは、両親に連れられ修道院に出家することになる。
道中、山賊に出遭い、母親の首飾りが奪われそうになったとき、ベネデッタは奪った山賊に罰が与えられることを神に祈った。
図らずも、山賊の頭上から鳥が糞を垂れ、山賊仲間は爆笑。
首飾りはベネデッタの母親のもとに返され、一行は事なきを得た・・・
といったところからはじまる物語で、その後、修道院に到着したベネデッタ一行。
父と修道院長(シャーロット・ランプリング)との間で持参金の金高についてのやり取りが始まる。
修道院に出家した初日、院内の等身大以上の聖母像に夜間人知れず祈るベネデッタは、聖母像の下敷きになるものの無傷。
彼女の聖女伝説のはじまりだった・・・
ふふーん、確信的ベネデッタの物語と、世俗と金にまみれた宗教界のふたつの軸があるのね、と早々に気が付きます。
18年経ち、長じたベネデッタ(ヴィルジニー・エフィラ。女優さんのファーストネームは聖処女の意だ、ビックリ)。
ある日、修道院に逃げ込んできて蠱惑的な娘バルトロメア(ダフネ・パタキア)を助け、下働きとして修道院で生活させることにする。
(このとき費用問題が持ち上がり、偶々訪れていたベネデッタの父母が費用を出すことになるあたりも脚本がいい)
その日の夜、バルトロメアの指導修道女となったベネデッタは、バルトロメアが父兄から侵されていたことを告白され、自分の魅力が性的魅力が生きていくよすがだと認識しているバルトロメアからそれとない誘惑を受ける・・・
と展開するにあたって、いやはやもう、この映画の背徳的というかなんというかポール・ヴァーホーベン監督作品の妖しい魅力の虜になってしまいました。
なので、ここから先は、どんな展開であっても、もう抑制が効かないわけで、ひたすら面白い、興味深い。
リアリティある美術、格調も感じられる撮影にも関わらず、展開される物語は汚辱にまみれた物語。
であるけれども、ベネデッタ彼女の行動は、作為がなく、意図しての行為、とはみえないように淡々と撮っています。
(淡々じゃあないけれど)
ベネデッタ彼女の行為は、本来の意味での確信的な(信仰に基づく、確固たる信念による)もので、そこには一点の曇りがない。
傍が、作為的、虚偽的とみなそうが、彼女が行っていたとしても、それはもう、確信的幻視幻想幻影の中での行為であって、彼女自身にとっては、真実・事実にほかならない。
ヴァーホーベン監督は、そう撮っている。
現実世界でのバルトロメアとの背徳行為が背徳であったとしても、それは背徳ではない。
彼女が信じるキリストとの愛の関係には無関係なのだ。
この潔さが心地よい。
それ故に、ラスト、キリストとの関係を貫こうとしたベネデッタが、追われた修道院に全裸で戻るシーンが清々しいのだろう。
ポール・ヴァーホーベン監督の確信的傑作といっていいでしょう。
思い込みとカリスマ性
ベネデッタの強みはここにありますね。思い込みによって、自分を傷つける事も厭わず、信じ込む。また、環境から生まれた物ではあれ、カリスマ性があったからこそ、最後は市民が味方になってくれて生き延びた訳ですから。ある意味恐ろしいです。
権力は腐敗する!
この映画を観て、真っ先に思い浮かんだ言葉だ。修道院長は、信仰よりもお金が大事にしか見えないし、教皇大使は、メイドにまで手をつけるような男だ。そしてベネデッタというと、信心深く、数々の幻視を見て、自らキリストの花嫁と疑わない彼女だが、修道院長室で禁じられた行為を行う。信じられないのが、それをキリストが容認するかのように、ベネデッタ自身は思っていて、自分にとって都合の良いキリスト像を作ってしまう。本当に理解不能な女性だ。自分の大事なマリア像をディルドに使うなんて考えられない。スキャンダラスな内容ながら、想像していたより扇情的に描かれていなかった。むしろ淡々とストーリーが進んでいった印象だ。バーホーベンは84歳。その歳で、枯れたり、丸くなったりせず、こんな過激な説教臭くない映画が撮れるなんて、拍手するしかない。
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