「奇跡なのか狂気なのか野心なのか」ベネデッタ moroさんの映画レビュー(感想・評価)
奇跡なのか狂気なのか野心なのか
修道院を舞台におよそ修道女や教会の要職者しか登場しませんが、人間の生々しさを強く感じる作品です。
幼い頃からキリストの幻視をみるベネデッタは、6歳から修道院に入り、世俗を知らないまま成長します。
修道院に逃げ込んできた女性・バルトロメアと出会ったことから、ベネデッタの心にいままでなかった感情が生まれ、ベネデッタの幻視や言動は大きく変化していきます。
ベネデッタの幻視は、観る人に疑心を与えるように描かれています。
少女ベネデッタがみる幻視は、キリストとの恋愛を夢見るような現実味のない幻想のようです。
大人になると、キリストの心臓や聖痕を与えられたりと、キリストに成り代わりたい願望が見せる夢のようでもあります。
物語の後半では幻視の描写はなくなり、ベネデッタの言葉は幻視からのお告げなのか彼女の欲望なのか曖昧になっていきます。
ベネデッタがバルトロメアと情交を深める様子は、肉欲に溺れるようでもあり、エクスタシーによってある種の法悦に近づこうとしているようにも感じられます。
バルトロメアは奔放にベネデッタを深みに誘いながら、関係が明らかにされることを恐れ怯える様子があります。
対してベネデッタは、当初バルトロメアに近づくことをためらっていましたが、関係をもった後は恐れがなくなります。教会に認められないことだと理解する一方で、ベネデッタ自身の信仰においては悪いことではないと確信しているようでもあります。
公式サイトの監督メッセージに「完全に男が支配するこの時代に、(略)、本物の権力を手にした女性がいた」とあります。
ベネデッタは物語の終盤ではもはや町の人々の心を掌握し、教皇大使の権力をも超える力を得ています。
立場や役職によってではなく、信仰心で人の行動を操ることこそ確かに本物の権力なのかもしれません。
ベネデッタをそうさせるのは奇跡なのか狂気なのか野心なのか、観る人の信じたいものによって真実は変わるでしょう。