「ラスト付近までネタバレなし、最後にネタバレブロックありです。」ストーリー・オブ・マイ・ワイフ 流山の小地蔵さんの映画レビュー(感想・評価)
ラスト付近までネタバレなし、最後にネタバレブロックありです。
クジラは陸では生きられない。だが、陸での暮らしを夢見るクジラもいる。
主人公は武骨な海の男です。冒頭、クジラが暗い海を舞うように泳ぐ。そこに男の独白が重なっていきます。
男はクジラのような存在で、彼が語る7章から成る物語は、夢のようにも思えます。詩情豊かな映像美。そして「妻の物語」のはかなさが、夢を見ている感覚にさせるのかもしれません。
1942年に出版されたハンガリーの作家ミラン・フストの小説を、「心と体と」でベルリン国際映画祭金熊賞を受賞した同国のイルディコー・エニエディ監督が映画化。20年代の欧州を舞台に一組の男女の遍歴を描く文芸調のメロドラマに、ヒロインを演じたレア・セドゥが現代の息づかいを吹き込んでくれました。
1920年。船長ヤコブ(バイス・ナバー)は海の上では一国の王のようでした。
乗組員は家来のように船長室まで食事を運んできてくれます。だがどうも最近、体が不調でした。料理人に健康の秘訣を聞くと彼はこう答えます、「妻がいるので」。
そんなヤコブの結婚は、出会いから夢のように奇妙だったのです。
ヤコブは寄港先の地中海のマルタ共和国の友人といたカフェで、「最初に入ってきた女性と結婚する」と賭けをします。そして現れたリジー(レア・セドウ)はヤコブの唐突な求婚を受け入れます。そこからヤコブの甘美な夢が、同時に、苦悩に満ちた悪夢が始まったのでした。
こんな即席の出会いは、当然ただでは済みません。
ヤコブはパリで妻と暮し始めます。彼女はミステリアスで、とらえどころがありません。誘われるままに妻と夜のパリをさまよいますが、カフェにたむろする妻の友人だちとはなじめませんでした。だいいちフランス語もよくわかりません。妻といやに親しげなデダン(ルイ・ガレル)が現れると、無性に不在時の妻の行動が気にかかるようになってくるのです。海では瞬時に正しい判断を下し、船長として尊敬されるヤコブでしたが、ここではすっかり陸のクジラなのと成りはててしまいました。船とは違い、ヤコブの人生航路は暗礁に乗りあげてしまったのです。
捕まえたと思うと逃げられ、突き放そうとして離れられない。男たるものかくあらねばと賑る舞うヤコブは、リジーに翻弄されるばかり。登場した時の頼りがいのある船長は、次第に器の小さい男に成り下がっていきます。
リジーは貞淑な妻か、それとも放埓な悪女か?
ヤコブは自分とは違う世界に生きる妻を理解しようとして、苦しみ、悩んだのでした。そんなヤコブに、妻から少しは遊ぶように言われ、他の女性に手を出そうともします。だが誠実さを絵に描いたようなヤコブはうまくいきませんでした。次第に追い詰められていきまる。
彼は嫉妬の果てに自殺未遂を起こしてしまうのでした。
カメラはヤコブの視点から離れず、リジーの素性や素行は観客にも謎のまま。純粋とも小悪魔とも映るリジーが、愚かで哀れな男の本性をむき出しにしていきます。
その目に映るリジーは、パリの街そのもの。退廃的で美しい夜のカフェの場面からは、香水の香りが濃厚に漂ってくるのでした。
一方、2人が求め合う場面は絵画のようにスタイリッシュ。エロチックですが、生々しさは感じられません。いくら体を重ねてもどこか捉えどころがない妻にたいするもどかしいヤコブの気持ちが込められていたのではないでしょうか。特にセドゥの全裸の後ろ姿が美しすぎるます(^^ゞ二人の愛を音楽の強弱だけで現していたところもロマンチックでした。エニェディは2人の間にある深い淵をじっくりとのぞき込み、繊細な美意識に貫かれた映像で映し出します。
男らしさにとらわれた夫の目がジェラシーや疑心で曇ってしまった時、見えるはずのものが見えなくなってしまったのか、それとも妻は本当に不貞を働いているのか。長尺でありながら最後まで見る者を引きつける愛のミステリーとして成立しているのは、謎めいた女性に実在感を与えるセドウの圧倒的な存在感によるところが大きいと思います。
とにかく、あんな謎めいた微笑と一瞬で表情を変えるまなざしに見つめられたら、ヤコブでなくたって、世の殿方はみんながとりこになるのも無理はないでしょう(^^ゞ
ヤコブはまるで迷宮に入り込んだかのように。出口は結局、最後まで見つかりません。見つからないまま、ヤコブは悟ります。迷宮をさまよい続けることが人生なんだと。人と人、文化と文化のはざまで、ただ迷い続けること。それが恋愛というものの美しさなのかもしれません。
【ここからネタバレが含まれます】
2時間49分の長尺と、美しく端正な映像で織りあげられるのは1組の夫婦の物語だが、それと同時にそれを超えた〈何か〉を感じられた人は幸いです。
ともかく冷めた目で眺めれば、疑わしいのはドッチもドッチで二人の度が行き過ぎた行いは五分五分というべきでしょう。そして3時間にわたる長いメロドラマの、そこで繰り広げられる物語があまりにも陳腐過ぎると、わたしのような野暮なオヤジには感じてしまったのです(^^ゞ
だいたいこれは、早い話が「男の私小説的愚痴話」でしょう。ヤコブが勝手に抱く妄想や愚痴以上に描けていないがゆえに、女が存在感のある生きてる人物とならないわけです。それがやりたかったこととするのであれば、それはあまりにもエニエディ監督はナルシストではないでしょうか。
冒頭とエンディングの男ヤコブのナレーションを手がかりにすれば、もしかしたらヤコブには本当のリジーの記憶がなく、自らに都合のいい記憶、つまりは妄想に生きていただけなのかもしれません。映画全体の中でリジーの異質さを考えれば、すでにヤコブは現実を見ていない脳内妄想のリジーを追いかけていると読み取るのもアリでしょう。
映画は7章立てで描かれていきます。1章から6章までがどんなタイトルであったかはまったく記憶していませんが、というより果たして意味があったのかも疑問なんですが、7章だけは「7年後」として使われていましたので記憶しています。
7年後、ヤコブはパリの街でリジーを見かけ、リジーから紹介されていた女性に電話をします。女性は、リジーがずっとあなたを愛していたとも告げます。それは散々嫉妬で狂ったあげくの、男にとってはあまりにも都合のいい終え方ではないでしょうか。
男が自分の思うようにならない女に、惚れているがゆえに執着し、嫉妬し、自己崩壊しましたという物語を3時間かかって延々と見せてました。それだけなら笑ってすませられるでしょう。しかしこの映画は、最後に、女にごめんなさいと謝ったように想起させるのです。さらにその女をなんの説明もなく、なきものにして、男の自尊心を保たたせることで終わらせてしまいました。
ということで映画鑑賞において高い感性に自信をお持ちでない人が、本作をごらんになると、「さっぱりわからん」「長い、疲れた」ということになりやすいので、ご注意申し上げます。
・日本公開日: 2022年8月12日
・上映時間:2時間49分。