アネットのレビュー・感想・評価
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人形は人間より雄弁
表題となっているアネットは主人公夫婦の間に生まれる子供の名前だが、この役に人形を当てたのが大正解だった。人間はかなり古い時代から、人形を作ってそこに様々な意味を仮託してきた。不滅の肉体だったり、理想の身体だったり、聖性や呪いの象徴としても扱うこともあった。そのように意味付けされた人形の存在感は生身の人間を超えている。人形には表情がないから、人形を見る私たちはそこに自分の見たい感情を投影してしまう。そのせいで、人形は時に人間以上に雄弁な存在として振舞い得る。本作はまさに人形をそのような、人々の感情や理想を投影する偶像(アイドル)として用いている。
ミュージカルを選択したにもすごく良かった。リアリズムでいかなくて済むので、人形がいても違和感がない。超現実的な空間を見事に作り上げて現代的神話を創出している。カラックス久々の特大ホームラン。今年を代表する1本。
一番ビックリしたのは・・・
アダム・ドライバーとマリオン・コティヤールのロック・オペラ・ミュージカル映画。
原案を作ったバンド「スパークス」も監督レオス・カラックスも正直知りません。
知っている人はドはまりするんでしょう。
1本の映画として知識もなく観ました。
不思議な映画ですね。
前半と後半で映画がガラッと変わったように思いました。
前半の主人公ふたりの愛の物語が
後半は娘アネットを中心とした物語へ。
そうそう水原希子が出てるんですね。
それが一番ビックリしました。
レオス・カラックス監督節満載
レオス・カラックス監督作品ということと、主演が推しの大物男優女優ということで鑑賞。レオス・カラックス監督作品の鑑賞は、アレックス三部作以来実にうん十年ぶりか。
本作も良い意味でも逆の意味でもレオス・カラックス監督らしさ満載。こだわり強いきれいな映像の中で繰り広げられる人間の心の闇の部分まで掘り下げるこだわり強いストーリーは、まさにアレックス三部作ゆずりと言ったところか。
全体を通して必要以上に重苦しさ漂う雰囲気ながらも、なんやかんやとクスッと笑わせてくるシーンも所々に織り混ぜてくる独特な仕上がりは、さすが鬼才監督と呼ばれる所以だろう。
アダム・ドライバーのスタンダップコメディアンぶりは結構な迫力だったし、マリオン・コティヤールの美声は心に響いたし、アネットの独特さは印象深かったし、本作のキャッチフレーズ「愛がたぎる」通りとても情熱的な作品なのだが、でもやはり個人的には以前と変わらずあまり好みとは言えない作風かな。
実験的〜
こんな薄いストーリーを大したセンスもない人が小手先でいじっても何にもならないよ。ロックオペラ?ちゃんちゃらおかしい。トミーを見てから出直してこいって話。まあ見たら恥ずかしくて人前に出れないと思うけど。アダム・ドライバーとマリオン・コティヤールよ、あなたがたいい俳優なんだから、こういう難解風な映画に流されて出ちゃダメよ。
舞台ミュージカルを映画の世界観で自由奔放に表現した楽しさと人形アネットの斬新さ
完璧主義の耽美的な映像を得意とする寡作監督レオン・カラックス監督のユニーク且つ独創的なロック・オペラ・ミュージカル映画。舞台ミュージカル「アネット」上演が観客席の垣根を越え、街に躍り出て歌い踊り芝居をするカラックス独自の世界観が楽しい。狭い舞台では表現できない自然の息吹と街に巣くう人間の吐息を映像化した野心作にして、ストーリー自体が凡庸なのが勿体ないくらいで、もうひと捻りあれば文句なしの傑作になったであろう。しかし、この映画の面白さは、カラックス監督の映画愛に裏打ちされた野心にあり、それはアネットを操り人形で演じさせた挑戦に価値がある。人形が持つ独特な生命感と神秘性を生かし、最小限の動きだけでアネットの名演を生み出している。予想通り最後は人間の少女に替わったが、人形程の存在感が無いのがそれを証明している。
主演のアダム・ドライバーとマリオン・コティヤールの役になり切っての熱演も素晴らしい。カロリーヌ・シャンプティエの撮影は、夜のシーンが特に素晴らしく、カラックスの世界観を美しく表現していて見事。演出も含め嵐に遭遇するヨットの海のシーンの舞台劇的な表現と孤島に上陸した後の幻想的な絵画の色調の趣もいい。ヘンリーが住む家のプールの使い方の巧さも印象的。初めて聴くスパークスの音楽は台詞を重要視したもので、ロックの派手さより演技に寄り添った音楽の印象を持った。日本の古舘寛治が産婦人科医師役で出演しているが、何故そこにと思ってしまい可笑しくなってしまった。
最初のタイトルバックの録音スタジオから街に繰り出すスタッフ・キャストが期待感をもたせ、最後はカーテンコール宜しく森の中を皆が行進する。登場したアネットの人形たちも皆に抱えられている。悲しいストーリーのミュージカルでも、人形が活躍する斬新さと巧さが観ていて楽しいミュージカル映画でした。舞台の面白さ、音楽の素晴らしさ、そして映画の楽しさが一つになったレオン・カラックスの秀作。
愛の不可能性を子供の目線で。
2020年。レオス・カラックス監督。二度目。毒舌コメディアンの男と人気オペラ歌手の女。住む世界が異なる二人のエンターテイナーが恋に落ちるが、不安から破滅を迎え、さらにその子(アネット)をめぐってもう一波乱が起こるという話。
音と映像のセッティング調整から始まる冒頭(May we start)と出演者や関係者がまとまって挨拶しながら消えていくエンドコール的はラストまで、映画であることの自意識に貫かれた作品。相変わらず愛の不可能性を追求しいるが、そのなかには、愛を映画化することの不可能性も含まれているのだ。
恋の悲劇もとても美しく描かれているが(この女性の役者さんを美しいと感じたのは初めて)、そこで終わらず、資本主義の搾取問題、エンタメ世界の浮薄な観客問題、子供の人権・人格問題、そして人間の孤独問題を、現代社会における局限の姿で描いている。男女はそれぞれ「深淵をのぞいてしまった男」と「何度も死ぬ女」である。コメディアンという形で世界と人間の真実を追求している男は、結局は殺人を犯すのだから罪と罰を受けるのは当然だが、オペラ歌手として成功し、子供をつくり、愛する男を持った女がどうしようもなく「何か違う」と思うとき、子供から見たエゴイズムがあるのは否定できないという意味で、女もただの被害者というわけではない。どうしようもない世界や人間の在り方を、子供の登場によって倫理的に問うことが可能になってる。愛の不可能性はより深まる。
音楽が素晴らしい効果を上げている。耳に残るリフレイン。導入と結末で映画の内と外が入り乱れ、歌が現実の世界とミュージカルの世界を橋渡ししている。
すごい映画を見た。二度目にして同じ感想。
チャッキーのいもうと
RottenTomatoesが71%と76%、IMDBは6.3だった。
RottenTomatoesやIMDBをよく見るじぶんとしては逡巡を感じる点だった。
つまり、なんかどっちつかずで迷っている点だと思った。
なぜそうなるのかというと批評家には素直なタイプとそうでないタイプがいて、とりわけ芸術値の高い映画では、素直じゃない批評家がじぶんの本当の気持ちに反する雷同型支持を投じるために、結局まあまあな点へ落ち着くことになるから──なのだった。
が、アネットは、良いか悪いかわからないかのどれかであって、まあまあな映画じゃない。
じぶんもこの映画がわからなかった。
ちなみにわたしはレオスカラックスの映画を楽しんだことがないのでレオスカラックスを見るのは“鑑賞に挑戦してみた”という感じになる。
ただしわからないとはいえレオスカラックスに才能があることはわかる。それがわかるので“鑑賞に挑戦してみた”のだった。
これが無能な監督ならば、はったりの芸術値に対して酷評で突撃することができるが、なにかを持っていることが画の端々から伝わってくる映画は、ないがしろにできない。だから、わかろうと思ってしょうこりもなく“鑑賞に挑戦してみた”のだった。
けっきょくわからなかった。
レオスカラックスをわからない人が原稿料がでるレビューを書くばあいに、かれ/かのじょは高い確率で「素直じゃない批評家」になるのだろう。とわたしは思っている。
この現象はゴダールと同じで周囲に権威主義的orスノッブな批評家層をつくりやすい。
ただし基本的に無学な労働者がカラックスやゴダールを見ることはない。
すなわち“鑑賞に挑戦してみた”とは、無学な労働者であるわたしが分もわきまえずに見てみた──という意味でもある。
さらに、カラックスやゴダールを見るには鑑賞者の知的レベルにくわえ、経済的状況や気分にも、ある程度の余裕が必要だ。
無学で貧困で気分が落ち着かないとアネットなんか見たってイライラするだけである。その証拠に無学で貧困で気分がよくないわたしはこれを見てイライラしただけだった。
それでもこの映画に対する“めくるめく音と映像”とか“独創的”とか“華麗で大胆不敵なミュージカル”などといった賞賛の言葉が、わからないわけではない。
たしかにそういう映画だったとは思う。
しかし案の定もっとも初歩的なミュージカルに対する懐疑「なぜセリフを歌うのか」でつまずいた。
言うまでもなく「なぜセリフを歌うのか」でつまずく人は、ぜったいにこの映画を楽しめない。
もっともぜったいに「なぜセリフを歌うのか」と感じるに違いないと予測して見たのでその意味ではほぼ予測どおりの映画だった。
とはいえ、すべてのミュージカル映画が「なぜセリフを歌うのか」の懐疑で楽しめなかったわけではない。たとえばLa La Landもディアエヴァンハンセンも楽しんだ。
だが個人的に米英欧の映画監督はミュージカルの「なぜセリフを歌うのか」という観客の懐疑心を軽視しすぎている気がする。
なんかミュージカルは舞台のほうが似合うような気がしてならない。(舞台は見たことがないけれど。)
情報によるとSimon Helbergはこの役を得るためにフランス語を学んだばかりかフランス市民になったそうだ。(関係ない話だがSimon Helbergの物真似(とくにニコラスケイジ)は最高に楽しいのでおすすめしたい。)
降板者にはルーニーマーラ、リアーナ、ミシェルウィリアムズがいたそうだ。クリステンスチュワートもオファーされたそうだが歌が下手だからと言って辞退したそう。
わたしはわからなかったので評点不能だが、RottenTomatoesで、とある批評家がチャイルドプレイを引き合いにしていたのに共感した。その批評家は、チャッキーの妹が出てくる退屈で滑稽なストーリーだと述べていた。
たしかに長い映画中、人形のアネットがギラッというかんじでチャッキー化したらどんなに楽しかっただろう──とわたしは思ったのだった。わら
ラストが圧巻
ベイビー・アネットと邪悪な父・ヘイリーの凄まじい対決。
ラストの操り人形だったアネットが、人間の少女・アネットに変わる。
このシーンに心を掴まれた。
歌う少女アンジェル・マクダウェルの、憎しみを表現する歌唱が素晴らしい。
そして2人の二重唱。
「愛と憎しみ」
対立する心情をハーモニーしながら、アネットは断罪して行く。
この辺りが堪りません。
「地獄に堕ちろ!!」
「邪悪なペテン師マク・ヘンリー」
「神の類人猿・マク・ヘンリーは邪悪なペテン師で悪魔の使者」
この映画は、笑えないジョークを連発する
スタンダップ・コメディアン・ヘンリーの冒険と転落の叙事詩でもあります。
オペラ界のスターのアン(マリオン・コティヤール)
天使のように美しく気高いアン。
そのソプラノ・ヴォイスはベルベットのように滑らか。
天使に媚びても相応しくない男ヘンリー(アダム・ドライバー)
2人の結びつきは初めから破滅を予感して、
デビル(ヘンリー)は天使(アン)に嫉妬し、意図したか分からないが、
天使は召される。
そう言った背徳感。
レオス・カラックスの毒気が懐かしく復活が嬉しい。
多くのファンが待っていた筈だ。
この悪魔的なロック・ミュージカルは、
冒頭にはレオス・カラックス監督と娘のナスティア・カラックスが仲睦まじく
登場して、カラックス監督の口上で始まる。
破滅的に美しいこの映画を、
観客は深呼吸して、
息を潜めて、
ただただ見つめ、
浸る。
父親からZ世代の娘へ捧げる生歌
70年代に活躍したおっさんバンドスパークスからの持ち込み企画だとか、格差婚をテーマにしたスタア誕生へのオマージュだとかいろいろ言われているけれど、色眼鏡をはずして素直に本ミュージカルを見れば、実娘ナースチャとその父親レオス・カラックスの関係に言及した映画であると、すぐにお分かりいただけるだろう。
前作『ホーリー・モーターズ』のミュージカル・パートが意外にも好評だったせいなのかは分からないが、ノア・バームバックの『マリッジ・ストーリー』(こちらも格差離婚がテーマ!)で美声を披露したアダム・ドライバー、そして(口パクだと思ったらすべて生歌だった)マリオン・コティヤールが、スタンダップ・コメディアンヘンリー&オペラ人気歌手アンの夫婦役でキャスティングされている。
映画冒頭のブレヒト的イリュージョンシーンの中で親子揃って仲良くカメオ出演していたナースチャの美しい顔立ちに異国情緒を覚えた私がすかさずググってみると.....なんと母親は『ポーラX』に大抜てきされたカテリーナ・ゴルベワというロシア人女優であることが判明。数本の映画に出演した後、44歳という若さでこの世を去っている。直前うつ病に苦しんでいたことは事実のようだが、いまだ死因は不明のままだ。
(本作のヘンリーとアンの関係を逆さまにしたような)カラックスとの格差に悩んだ末の◯◯だったなどと噂されてはいるが、真実のほどは謎。今まで目にいれても痛くないほどに可愛がっていた娘から「パパはママを殺した。そして娘の私を見せ物にしている。愛しているなんて気安く言わないで!」なんて悲しいことを言われたら、ショックで夜も眠れなくなってしまうのではないか。父親の愛情を無条件に受け入れマリオネット?のように愛らしかった娘が、突如なして変わってしまったのか、と。
SEX中しかもマリオンのお股にアダムが顔を埋めながらのクンニ中、あるいは産婦人科医に扮した古舘寛治!が出産間近のマリオンのお股をのぞきこみながら、あるいはマリオンの背泳ぎからのトイレで排尿中...あり得ない姿勢で役者たちは、同時録音の生歌をムリくり歌わされたという。アンのオペラ・コンサートはもちろん、ヘンリーの“神の類人猿”ライブ、そして前作『ホーリー・モーターズ』における路上パフォーマンスも同様に、最近のカラックスはやたらと“生”に拘っている。
内輪話ゆえの“照れ”をミュージカルというオブラートにくるんだ上での“生”演出は、「息すら止めてご覧下さい」という冒頭の辛口コーション同様、今時の観客に対する監督カラックスの不信感のあらわれではないだろうか。リドリー・スコットは「ミレニアルズは携帯電話で教えてもらわない限り、何かを教えてもらうことを望んでいないのです」という(自棄糞ぎみの)コメントを残していたが、映画という古臭い記録媒体ではもはや届きにくい父親の生メッセージをZ世代の娘に伝えようとした、ささやかな試みだったのかもしれない。
ヘンテコな音楽劇
かつてレオス・カラックスの映画――『ボーイ・ミーツ・ガール』『汚れた血』『ポンヌフの恋人』をワクワクしながら鑑賞した僕だが、数十年ぶりに観るカラックスの映画=本作は、あまり楽しめなかった。冗長な、つまらないおとぎ話だという感想を抱いた。途中からは、ワクワクどころか、「早く終わらないかな」と思いながら観ていた。
かなりクセの強い作品だから拒否反応を示す人も少なくないだろう(実際に途中退場する人もいた)。
もちろんいろんなタイプの映画があっていいわけだけど、僕も、この風変わりな音楽劇には、感情移入できず、どうも好感が持てなかった(でもスパークスの音楽はよかった)。やっぱり僕は近年のミュージカル映画でいうと『ラ・ラ・ランド』が断然好きですね。本作があまりに異質なので比べるべきものではないかもしれないけれど。
てなわけで、本作も人生の折り返し地点を過ぎて残り時間の少なくなったような方にはオススメできません。
いっこく堂の腹話術でも観ている方が、ずっと楽しめますよ。
ミュージカルっぽくないが格好良い一作
スパークスの音楽をちゃんと聞いたことないのですが、原案・楽曲を担当しているだけあって、ばっちりあっていてめちゃくちゃ格好良かったです。そして、ミュージカルっていうふれこみなんですが、ミュージカルを作ったことがない人が作ったんだろうなぁって感じがWELCOMEなんです。ミュージカル物が苦手な僕が飽きずに見ていられるくらいに「へぇ〜」と感心するようなノリが多いんです。全体にポップでそれも良し。ミュージカル的なHシーン・・・・生涯初めて見た気がします(笑)。
さてさて、ストーリーですが根幹部分はそこそこにベタな気がします。全く詳しくないので完全なる推測ですが、シェイクスピアの戯曲にありそうな感じです。でも、なんだか面白いんです。きっとそれはアネットのカラクリの効果かなぁって思います。そのカラクリが出るまでの途中まで正統派な感じですが、急に異端な展開を見せてくれます。「なんで?」って「?」が100個くらい付きますし、それはラストまでずーーーっと引きずります。きっと。のアネットのカラクリ。ポカーンとなる時間帯ありますよ。でも、でも、「なるほどー!!!」の大団円ラストに繋がってるんですよ、これが。ポカン展開の効果ありです。
結末についてはいろんな解釈があると思います。いろんな捉え方ができるのではないでしょうか?そういうの楽しいですよね。僕の説は「アネット=(親の)パペット=ステージママ(パパ)への皮肉」かなぁなんて思ってます。
しかし、安定のアダム・ドライバー。芸達者な方ですねぇ。それと、今作でレオス・カラックス監督の作品を初めて観ましたが、日本への造詣が深い方なんでしょうかね?非常に日本リスペクトを感じる場面多かったんです。ちなみにエンドロールは最後まで見てくださいね。ナイスな演出ですよ。
全体を俯瞰すると結構ワチャワチャしていますがこれがスパークスの作りたかった物なんでしょうね。後日「スパークス・ブラザーズ」を鑑賞したらその点はさらに納得しました。
多分、好き嫌いが分かれる作品なんじゃぁないかなぁ?って思います。僕は気に入りました。
アダムドライバーのファンだけが観れば良い作品
プロデュースにも名を連ねている
アダムドライバーの心の闇というか、
こういうことをやりたかったのか〜という
わかりみ。
まあいいでしょう。
ガス抜きも必要ですから。
それにしても
ミュージカルを謳うわりに音楽が酷かった。
同じ曲のリプライズばかり。
その分、印象的ですが…
オケピットのオーケストラシーンもあるのに
ほぼストリングスはシンセの打ち込み。
ピアノも含めてデジタル音と稚拙なスコア。
それも含めてホラーなら仕方ありませんが…
アダムドライバーのファンだけが観れば良い作品。
インパクトのあるポスター画に騙された?
オープニングやエンディングで明示されているように、これは、リアルなドラマではなく、作り話であり、寓話である。そして、そのことを補強するのが、ミュージカルという手法と、タイトルロールが人形という仕掛けであろう。
特に、人形については、この映画のテーマを表象するもののように思われ、最も重要な役割りを演じているのではないかとも考えられる。例えば、親からしてみれば、子供は自分の言いなりになる人形としてしか見えていなかったということであり、子供にとっては、自分の考えをしっかりと持つことで、親の操り人形から一人の人間へと成長することができたということを言いたかったのではないか?
あるいは、それは、勝手な深読みで、単に、映画の中身と同じような「子供の才能の搾取」となることを避けるため、子役を起用しなかっただけなのかもしれない。
いずれにしても、そうした考えを巡らす時点で、すでに監督の術中にはまってしまっているということだろう。
カラックスの異質な世界になじめるかなじめないか、でしょうね。
冒頭こそわくわくしていましたが、中盤からは一体何を見せられているんだかとモヤモヤしてしまい、いつかこの気持ちも上がるだろうとあきらめずにクライマックスを期待していたけれどそのまま終わりました。
“ロックオペラ・ミュージカル”ならきっと私好みなハズ、と予想していましたが、「スパークス・ブラザース」という映画が上演されているのは知っていてもスパークス兄弟を知らず、カラックス監督さえなじめない私には難易度高かったです。
せめて、せめてアダム・ドライバー演じるヘンリーのスタンダップ・コメディがもう少し面白ければなぁ。
刺激に満ちているけど、アネットの表現を受け容れられるかどうかで評価が分かれそうな一作。
レオス・カラックス監督作品を劇場で鑑賞する体験は久しぶりでした。カラックス監督としては、確か初めてとなる全編英語、かつミュージカル映画ということで、予告編の段階から期待に胸をときめかせつつ、果たしてどんな映画になるんだろう…、という心配も少しありました。
オープニング早々のミュージカルシーンは、予告編で見たとおりの力強さ、かっこよさ、そして荒々しくも美しさに満ちていて、実に素晴らしいと感じました(カラックス本人も娘とともに登場。また演奏しているミュージシャンは本作の音楽を担当したバンド、スパークス)。そこから中盤まではおおよそ予告から予想できる展開となるのですが、中盤以降は大きく方向性が変化します。
物語の分岐点となり、本作のイメージとしても使われている嵐のダンスシーンは、美しくも演劇的であるため、心象風景を映像としているのかと思ったら、本当に嵐のまっただ中のダンスだったとは!カラックス監督の、観念的なようで実はものすごく具体的な状況を美麗に描く映像感覚が、まさに怒濤の勢いで迫ってくる場面でした。
映像は緑や青が印象的に使用されており、それぞれが「生」や「死」を画面全体で表象しています。また物語全体は聖書や寓話の引用に満ちていて(原案は音楽担当のスパークスによるアルバム)、さらに映画を俯瞰的(メタ的)に見る視座も含まれています(ラストのメッセージははあからさま過ぎて笑うけど)。
一回の鑑賞では容易に全貌を掴ませない重層的な魅力に満ちた本作は、さすがレオックス監督作品です。
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