「レオス・カラックスの「告解」か?」アネット けろ教授さんの映画レビュー(感想・評価)
レオス・カラックスの「告解」か?
レオス・カラックスの映画は基本的には私小説的な自分自身の告白と理解すると、わかりやすくなる。それは『アネット』も同様で、主人公のヘンリーの(アンとの恋愛に関する)高揚感、(アネット誕生の)喜び、(観客から見放された)焦燥、(アンの成功に対する)嫉妬、(アンの死に対する)罪悪感、そして(指揮者殺しによる)破綻は、カラックスの人生と重ね合わせるとよくわかる(ような気がする)。ヒロインのアンは、その前半は(カラックスと別れて大成功した)ジュリエット・ビノッシュで、アネット出産後とお亡くなりになったあとの亡霊は(カラックスの亡き妻の)カテリーナ・ゴルべワか?指揮者は(かつての親友で撮影監督であった)ジャン=イブ・エスコフィエか?アネットは娘のナースチャ・ゴルべワ・カラックスか?ヘンリー(≒カラックス)は、アン(≒カテリーナ)と指揮者(≒エスコフィエ)を「殺した」ことについて、アネット(≒ナースチャ)に「お前には愛がない」と罰せられたいのか?もしそう考えることができるのなら、『アネット』は、カテリーナとエスコフィエに対する罪悪感を「ダーク・ファンタジー・ロック・オペラ」なるよくわからないながらも、観客に受け入れやすい(?)形であらわした彼独特の「告解」のなのかもしれない。もっともそうだったら、「見知らぬ人には気を付けて」「でもよかったら、知らない人にもこの映画を伝えてね」(『ポーラX』の興行的不振を踏まえている?)と最後にちょうちん行列で訴えるカラックスの業は相当に深いとも言えるし、恥を忍んでここまで自身をさらけ出したという意味では、温情的な観点からはカンヌの監督賞も妥当だったであろう。
もっとも、カラックスの人生にまったく関心がない普通の人にとっての問題は、映画の完成度である。この点についてはアダム・ドライバーが致命的であり、なぜ彼を(かつてのドニ・ラヴァンのように)カラックスが自身の代理として選んだのか分からない。だいたいヘタレWannabe「カイロ・レン」にこんな業の深いカラックスの代役は務まらない。カラックスのいつもの癖で自分の思い全開の映画なのはやむを得ないとはいえ、ドライバーの調子の狂っただみ声の歌を延々と聞かされる観客の身についても少しは考えてほしかった…(とはいえ、ドニ・ラヴァンはもっとあり得ないが)。なお、美魔女なマティオン・コティヤールの歌声は(幽霊になっても)よかった。その点で、映画としての完成度を考えたら☆3つ。もっとも、カラックスの映画(特に『ポーラX』)が好きな人にとっては☆5つかもしれない。