ONODA 一万夜を越えて : インタビュー
遠藤雄弥&津田寛治「映画という共通言語が言葉の壁を越えた」 フランス人監督のもとカンボジアでの撮影秘話
太平洋戦争終結後も任務解除の命令を受けられず、約30年間フィリピン・ルバング島に潜伏、1974年に51歳で日本に帰還した小野田寛郎氏の物語を基に、フランスの新鋭アルチュール・アラリ監督がフィクションとして映画化した「ONODA 一万夜を越えて」。フランス・ドイツ・ベルギー・イタリア・日本合作で、メインキャストは日本人、ほぼ全編日本語で、約4カ月間カンボジアにて撮影された。“最後の日本兵”と呼ばれ、社会現象を巻き起こした実在の人物を演じること、過酷なジャングル生活の日々を海外ロケ、外国人スタッフとともに撮り上げたことは、どのような経験だったのだろうか。オーディションで選出され、主人公・小野田の青年期を演じた遠藤雄弥、成年期を演じた津田寛治に話を聞いた。
――小野田さんは実在した方で、戦争という特殊な環境下を生きた一人の人間として、また、戦後の特異な行動から、さまざまな捉え方ができる人物です。どの様に映画の中の小野田のキャラクター像を作り上げていったのでしょうか?
遠藤:僕は今年35歳なのですが、小野田さんのことはお名前しか存じ上げず、正直なところ横井庄一さんとの区別もつかない程度の漠然とした知識しかありませんでした。オーディション前に、シナリオを読んでこんな方がいたのか……と驚きました。映画の小野田と実際の小野田寛郎さんには、違いがあります。もちろん演じるにあたって、自分なりにいろいろとリサーチをして撮影に臨みましたが、アラリ監督が求めていた小野田像はより人間らしいものでした。戦時中の出来事を忠実に再現してメッセージを届ける、ということよりは、こういう状況下に置かれた人間はこうなんだ、ということを監督は観客に伝えたいのかな、と思いました。人間味に溢れた、人間らしさに富んだ小野田像を監督と一緒に探していった感じです。
映画の中の20代の小野田はコンプレックスの塊です。もちろん、当時の日本は国のために命を捧げる……という思想がベースにあって、それを諏訪敦彦監督が演じる実の父親から、祖父の小刀を渡され、捕虜になったら「自害しろ」と言われる。また、高所恐怖症のために、憧れていた飛行機乗りになれず、優秀なお兄さんと比べられるジェラシーなど、複雑なコンプレックスがあったのだと思いました。それでお酒に溺れるようになった彼が、イッセー尾形さん演じる谷口少佐という人物と出会い、実の父よりも父性に富んだ谷口にすがるように心酔していく。そんな谷口に連れて行かれた陸軍中野学校二俣分校で、コンプレックスの塊だった青年が「君たちは特別なんだ」と教えを受ける……。
津田さんが演じる成年期まで、ある種の一本筋の通った、いろんな感情があり、迷いがある中でもああいう形の人物像に至ったのだと思います。柔軟性と羞恥心もあるのだけれど、自分のコンプレックスがさらけ出てしまう瞬間があったり、仲間たちの前でも吐露する場面があったり。その若い小野田の微妙な感情の機微をアラリ監督と探していきました。
津田:役作りにあたっては、遠藤君と重複することも多いのですが、僕自身はテレビの画面を通して生前の小野田さんを見てきた世代です。小学生の頃ですが、テレビの中の小野田さんは普通の人に見えたのに、フラッシュを浴びて、マイクを向けられていて、どんな人なのかを親に聞いてびっくりした記憶があります。劇中でもバックパッカーの鈴木青年が小野田さんをパンダや雪男と並べるように、子供だった僕も全く同じ人間だとは思えなかった。30年間ジャングルで布団もなく、普通の食事もできず、自分で獲った食物を食べていたのか…。そんな驚きがありました。だから、そんな小野田さんをフランスの若手監督が映画にすると知り、本当に驚きました。台本には、今までに見たことのない日本軍が描かれていました。人間という生きものが動物と違うのは、理性を持ち、組織で動いて物事を成し遂げたり、自分自身は何者かと考えたり、宗教など信仰を持ったり……そういった生きものがジャングルでどう生きるか、監督はそこを小野田さんという人物を通して描きたいのだと僕は理解しました。
そして、その視点が日本の監督だったらあり得ないのかなとも思いました。やはり、日本人だといろんなものを背負わなくてはいけないですし。そういったところではない部分を描くところがめちゃくちゃ面白い。遠藤君たちが仲間たちの絆であったり、どのようにジャングルに潜伏するようになったのかきっちり表現していただいた後で、僕のパートは前半に小塚役の千葉哲也さんとの絡みはありますが、たったひとりになったところをしっかり演じなければいけない。僕はよく瞑想をやるのですが、その心境に近かったです。フランスの若手監督が、日本人の心の芯にある瞑想や禅、みたいなところに行き着いている感じが興味深くて。台本のある個所のト書きでは「緑と同化している小野田」と一行ありまして。これは、もう無の境地に至った小野田さんかなと(笑)。だから、日本のことをちゃんと理解されている監督だと思いましたね。
その後日本で、小野田さんの本を読んだりして役作りの準備する中で、監督にメールで、「読んだ方がいいものはありますか?」と尋ねたら「台本以外は読まないでくれ」と。だから、監督は小野田寛郎さんという人物を忠実に描きたい、という思いではなかったので、それで楽になりました。ただ、衣装部さんや美術部さんたちの再現の仕方は半端ではなかったです。例えば、服の縫い目の一つ一つまで写真を見て研究していました。そういう部分で史実的なところはリアルに説明できているから十分だと思いました。
――カンボジアでのロケについてお聞かせください。肉体的にも過酷な撮影になったのではないでしょうか。おふたりはほぼ入れ違いでの現地入りということで、お互いに現地では作品について話す機会はなかったそうですが。
津田:そうですね。バトンタッチのような日に、カンボジアがどういう場所だとか、「痩せようと思わなくても痩せますよ(笑)」とか話した程度です。お互い、現場の体験が壮絶だったんです。遠藤君は自分のすべてをかけて臨んでいましたから。もちろん僕もですがそういう経験って、人生であまりないと思います。
遠藤:僕らが滞在したのはカンポットという街。ゆったりとした時間が流れている素敵なロケーションだったんです。その雰囲気に救われました。気持ちがピンと張りつめていたのを、そこで和らげてもらえるような素敵な町でしたね。
津田:それは僕も同感です。そして、日本と違って週休2日で、週1でパーティがあったりするんです。僕らみたいに日本の撮影スタイルに慣れていると、そこで気持ちが切れちゃうんじゃないかな、という懸念もありましたが、実際そういう流れに入ってみると、休日の2日間でいろいろと整理できるんです。だから、その2日に救われました。
肉体的な役作りについては、僕が演じた時代は、どれだけベルトを締めてるんだろう……って思うほどめちゃくちゃシュッとした小野田さんの姿が写真で残っているので(笑)。しかもガリガリではなく、筋肉がしっかりした細マッチョに作り込まなければいけませんでした。監督に途中経過の写真を送ったら「もうそれ以上痩せないでいいから、体に気を付けてくれ」という返事がきましたね。
遠藤:僕は撮影の一週間前にカンボジアに入りましたが、やはり気合が入りすぎて監督から「痩せすぎだから、このあと津田さんが大変になっちゃう」って言われました。ほぼ順撮りで撮影が進んでいく過程で、共演者の方々も減量していくのでそこで痩せすぎると、バトンタッチの時に津田さんと千葉さんが大変だからと、現地で3~4キロ増やしました。まるで「レイジング・ブル」のような貴重な体験でした。カンボジアの助監督が袋一杯の食パンにピーナッツバターを用意してくれたり。彼は、津田さんのことをいつも「チュダさん」なんて呼んで、ちょっとお調子者というか、ムードメイカーでしたね。
――初めての国際的な現場での映画撮影は、おふたりにとってどのような経験になりましたか?
遠藤:そもそも映画を作るという目的が一緒。横一列でそこに向かっている人たちって文化も言葉も越えるというのが、僕の発見でした。正に、澁谷悠さんという通訳者なくてはこの映画はできなかったのですが、その一方で、なんとなく監督が演出しているときに、言葉が分からなくてもなんとなく言いたいことが分かるようになるんです。化粧の下地のように演出の下地が分かるというか。ああ、映画という共通言語があり、同じ目的を持っている人が集まると、こんな風に文化も言葉も越えるんだな、と。本当に貴重な経験だったし、発見でした。
津田:アラリ監督はいろんなバージョンの芝居を見たいタイプで、いろいろとやらされましたが「セリフを抑えてくれ」のような技術的なことは一切言われませんでした。ハートのことを言っているうちにああいった芝居になって、こういう気持ちでやってくれと言われて、どんどんナチュラルになっていく理想的な演出だったと思います。通訳の澁谷さんがとても優秀で、監督が求めている芝居により近づくような訳し方をしてくださったのだと思います。その力も大きかったと思います。
また、近くにいる、カメラマンや美術さんの言っていることもお互いにわかるような気になりました。やはり同じものを作っていると言葉の壁を越えるんだなと。だから、撮影が終わるときはさみしいくらいでしたね。カメラマンも、録音さんも、スタッフ全員のキャラが立っていて。本当に楽しかったです。遠藤君たちはほかの日本人キャストも一緒で絆が深そうでしたが、僕は一人の時が多かったので、周りを見ていることが多かったんです。
遠藤:本当に、スタッフさんがみんな陽気で。ベルギーやフランス、カンボジアのスタッフさんの職人像は日本とまた違って面白かったですね。
津田:トリュフォーの映画のバックグラウンドものを見ているようでしたね。
遠藤:スタッフさんたち一人ひとりが役者やればいいのに……って思うほどでした。それぞれの人生観が豊かで。
――それらのお話から、トリュフォーの「映画に愛をこめて アメリカの夜」のような現場が目に浮かびます。
津田:実際に、「アメリカの夜」みたいっていう話が良く出ていたんです。「ここはアメリカンナイトで行くから」って。向こうでは、つぶし(擬似夜景)でやることを「アメリカンナイト」って呼ぶんです。
遠藤:そういった話も聞いて、やっぱりアルチュール(・アラリ監督)も、スタッフもみんなめちゃくちゃシネフィルだなあって。日本映画にも詳しくて。小津安二郎さんとか北野武さんの映画もたくさん見ているようです。
――そして、完成した映画を見てのご感想は?
津田:全然台本と違っていました。そこは日本でいうと、北野作品にも似てるなと。日本だと台本通りにやって、その後出資者が満足するように編集するということもあるのでしょうが、フランスは監督は周りに気を遣わず、とにかく作り上げた世界観の中に入るのが仕事だという土壌があります。俺、そこはそういう風に芝居してないんだけどな……っていうような、日本だったら監督が俳優に失礼だからと気を遣ってしないようなつなぎ方も普通にあります。そこがフランス映画っぽくって。それで初めて見た人が面白い感覚になるのが素晴らしいなと。
遠藤:僕はやっぱり冷静な目では見れなくて、一般客としてこの映画を見たかったですね。ワンシーン、ワンカットの思い出が出てきちゃうんです。長尺と言えどもシナリオを知ってる分、この3時間弱、お客さんはどのくらいの体感で見ていただけるのかなと考えちゃいます。あとは個人的な主観が入ってきてしまって……。見ごたえある映画にはなったんだろうな、かろうじてそれだけは思います。
津田:史実と異なる――などの批判もあるかもしれませんが、例えば誰も実際の戦国時代や新選組のことを知らないように、僕らとしては、アラリ監督が作ったこんな日本兵が見られてよかった。しかも参加できて、大きな宝になりました。外国の方だからこそ撮れた映画。今は無理かもしれないけど、日本でもこんな映画が撮れる若手監督が出てきてくれることを願ってやみません。次の世代への指針になってくれるといいですね、日本兵だからって怒鳴らなくていいんだとか。また、日本の若手俳優たちが良い芝居をしているところもこの作品の大きな見どころです。