「自己責任の国に生まれて」梅切らぬバカ レントさんの映画レビュー(感想・評価)
自己責任の国に生まれて
珠子とその息子忠さんは二人で暮らしている。珠子は占いの仕事で生計を立てながら自閉症の息子の世話をしてきたが、息子が50を超える年齢になり、自身の老いも考えてグループホームに預けることにした。
しかし、そのホームは以前から地域住民とのちょっとしたトラブルにより疎ましく思われており、忠さんも慣れない集団生活からトラブルに巻き込まれてしまう。
地域住民と施設側との仲裁を頼んでも役所はただ傍観するのみで頼りにならず、結局忠さんはホームを出ることになる。
元の二人暮らしに戻った珠子と忠さん。自助には限界があると、共助である地域コミュニティーに頼ったがうまくいかず、公助である役所も頼りにならず、元の自助を強いられることとなる。
自助、共助、公助というどこかの国の元首相の言葉は当事者たちにとってはある意味当たり前の言葉だった。
自分の子供の世話を自分でするのは至極当然。しかし、その子供に障害があり、ほかに頼る家族親族もいない状況となれば地域コミュニティーに助けを求めるべきだし、また公的補助にも頼らざるを得なくなる。
ただ、現実はこの言葉の順序が示す通り、自助は近いが、共助、公助の順に当事者たちにとって遠い存在となっている。
新自由主義が蔓延する現代においては先の元首相の発言が出てきたのはある意味必然的だったし人々にとっても自己責任がいまやデフォルトとなっている。
自分のことは自分で責任を持て、経済活動においては至極当然のことを言ってるようだが、福祉の分野において行政側がこれを押し付けるのはいかがなものか。
2005年に施行された障害者自立支援法の応益負担の規定は障害が重いほど障害者に自己負担を課すもので、まるで障害を持って生まれてきたのがその当人の責任と言わんばかりのものだった。自己責任論を福祉の分野にまで拡張する障害自己責任を押し付けるようなまさに悪法だった。
そもそも自由競争を促進して経済を活性化させる新自由主義が自己責任論を定着させる以前から障害者世帯は自己責任を強いられてきた。
それは社会の障害者への理解が足りず、障害者であることの負い目などから当事者たちはそうせざるを得なかったからだ。
今でこそ多少は理解が進み地域コミュニティや公的補助を頼ることもできるようになったが、時にはそこから零れ落ち孤立して不幸な結果を招くこともある。
そんな不幸な結果を招かないためにも孤立を避け、地域とのつながりを保つことが大切だ。しかしかつて日本はOECD加盟国の中で平均の4倍もの精神病院病床数を指摘されており精神障害者を社会的に隔離しているとまで言われた。障害者たちが彼らの住む地域で受け入れられる土壌ができてない証拠だった。本作でもその部分が問題として描かれている。
本作では結局地域の理解を得られず元の親子での生活に戻ったところで幕を閉じる。一見救いのないラストだが、唯一希望が持てるとしたら隣人の里村家との交流だろう。酔っぱらった勢いで珠子たちの家をグループホームにすればいいという父親の一見無責任な発言に珠子もそうしようかしらと翌朝返すが父親は憶えていない。
まずは近隣住民との交流から障害者への理解を深めそこから地域コミュニティの輪が広がってゆく、地域コミュニティ再生を予感させる点だけが本作の唯一の救いなのかも。
桜切るバカ梅切らぬバカ。専門家によれば桜も梅も剪定によりむやみに枝を切り落とせばそこから病気になるのはともに同じ。丁寧な気配りが樹木の成長には不可欠。それは人や社会にとっても同じだ。
能力主義がまかり通る時代、生産性がないなどとして不要な枝葉をバッサリ切り捨てるような社会が人にとって住みよい社会だと言えるだろうか。これは障害者に限ったことではない。健常者だろうがいずれ年を取り社会のお荷物として切り捨てられるかもしれない。
誰もそんな社会に住みたくはないはず。障害者にとって住み心地が悪い社会は健常者にとっても住み心地が悪い。生産性などとほざいてる人間は自分が天に向かって唾を吐いてることにも気づかないのだろうか。
本作は人気芸人を起用して一見ほのぼのとした雰囲気の作品だが、結局何ら問題は解決されず幕を閉じる。この方が観客に問題を丸投げして考えさせるにはちょうどいいのかもしれない。
2021年12月劇場にて鑑賞