場所はいつも旅先だったのレビュー・感想・評価
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「世界ふれあい街歩き」と「世界の車窓から」を足して割って水で薄めて調味料をドバドバ足した作品。
〇作品全体
…なんてタイトルにしちゃったけど、画面に映る写真や映像は素晴らしいものがあった。
街が動きだす前の静けさや明るさの切り取り方がすごく絶妙で、たまに早起きして出かけたときの、普段とは少し違う光の差し方、空気感、街の雰囲気…そういったものの点描が美しかった。冒頭5分くらいで言えば、本当に素晴らしかった。
でもその後がイマイチ。夜明け前や夜更けを映すアイデアはすごく好みだったんだけれど、それ以外は旅番組の薄い模倣に感じた。街の人とやりとりしたり、街の風景を切り取る場面は「世界ふれあい街歩き」っぽい。ただ、「世界ふれあい街歩き」は(やらせとはいえ)相手の言葉を相手の言葉として映していて、撮影者との対話を感じる。
でもこの作品はすべてをナレーションにしてしまっていて、相手との会話ではなく、自分自身の都合の良い解釈を延々垂れ流す、みたいな印象を受ける。人とのふれあいを主としたいのか、自分の価値観を語りたいのかが非常にあいまいに感じた。
街にいる人の背景を語る部分は「世界の車窓から」っぽい。その人のちょっとした「これまで」を知るのは確かに楽しい。でも、映される画面がすごく流動的で、ナレーションで語っている人物とは違う人物を映していたり、街の風景を映し続けたりしていて、全然その人物のことが入ってこない。
あとは「夜明け前や夜更けの街を撮る」ならいいんだけど、「その時間にいる人々を映す」となったときに自分の都合の良い解釈を垂れ流すのは、街に居る人たちに無関心過ぎやしないか。
深夜のドーナツ屋のカウンターチェアで首を垂れて寝ているおじいさんに「きっと楽しい夢でも見ているのだろう」というナレーションを添えるのはヤバすぎる。絶対そうじゃないとは言い切れないけど、その状況を幸福なものと捉えるのは無理がある。飲食店で働く人たちを映して、ほぼ初対面の人間に話す上っ面の言葉だけを鵜呑みにしたナレーションも、いろいろな旅先で一期一会を味わっている自分自身への自己陶酔に近い。普通であれば眠りにつく時間に街で働く人々を出汁に、上っ面なコミュニケーションだけを基に旅の幸福を味わってしまって、本当に良いのだろうか。
何度もナレーションで語る旅の良さはわかる。わかるんだけど、その自己陶酔の着色として深夜に働く人たちに一方的なナレーションを添えるのは、かなりグロテスクだった。
一番しんどかったのはナレーションの多さ。画面を見ればわかることをずっとしゃべってる。「無舗装の道を進んでいく」とか「朝の陽ざしが眩しい」とかいちいちしゃべってた。街に浸りたいし、浸れる風景がたくさん映っているのに、ずっとなんかしゃべってた。
なんでこんなにしゃべるんだろうと思ってたら、一番最後にこの作品を見ているあなたへ送る、というような言葉で締めくくられ、ラジカセを止めるような音で終わっていた。そうか、これは作者の精神世界を旅するものではなくて、旅の魅力を伝える記録映像なのか、と気づいた。であれば、口数も増えるか…とは納得したけれど、納得しただけで、それは作品の良さではないと思う。
旅番組の色々な要素は感じられるけれど、どれも薄味だった。そしてその上からナレーションという調味料が大量にかけられ、その味に困らされるような作品だった。写真や映像という素材本来の味をもっと味わいたかった。
〇その他
・監督がライターだと知って納得した。映像ではなく言葉を信頼しているような作品作りだったと思う。
・一番意味わかんなかったのは漁師の人のシーン。「僕にも漁師になれますか」なんてまったく意味のない質問をするのも意味わかんないし、案の定お世辞まみれの回答を語った後に漁師のすり切れた指を映していた。仕事の過酷さを語る指を撮っておきながらなんでそんなやりとりを残してしまうんだ…。過酷な仕事にも関わらず優しく返してくれた漁師の気持ちを映したかったのかもしれないけど、漁師の人全然カメラ見ないから気持ちが推し量れないし、そもそもそんなに漁師の人掘り下げてないし、なにより指から語られる過酷さが凄すぎて、吞気な質問とのギャップが怖すぎた。
自分が幸せだから周りも明るく見えてくるのはすごくわかるんだけど、それを実際の街の人々で、しかも深夜や夜明け前といういろんな環境の人が入り乱れてる時間帯でやっちゃうのはサイコパシー感あってヤバかった。
歩くのがお好きなら どうぞこのムービー、召し上がれ
松浦弥太郎の旅のエッセイを
小林賢太郎が いい声でナレーションする。
こんないい声の人が語ってくれて
旅の案内人が松浦さんならば
ついつい夜通し彼らにくっついて
知らない街を一緒に歩きたくなる。
昼が終わって夜も更け、そして次の朝を迎えるまでの「世界の裏側の時間」。
そこで人々はどんな顔で生きているのか
生来の人好きなのだろう、松浦は初対面の人や通行人の表情をひとつひとつ、自身の言葉で拾っていく。
日本の深夜労働者も、統計によると600万人なのだそうだ。
かなりの数ではないか。
ふと覗いた「Yahoo知恵袋」でこんな質問があった ―
「住んでいるアパートの別室で真夜中のとんでもない時間に住人が出入りしているが、どうしてあんな時間に料理をしたり、食事をしたり、話声を外に響かせたりするんでしょうか?」と。
一人暮らしの女性からの質問だった。
「600万人の存在」を知らなければ、彼女が怪訝に思うのも仕方ない。
紀行ものの映画はいくらでもあるけれど、「夜更け」や「夜明け」の時間帯に絞ってその街と人々を紹介するコンセプトは、これは変わってて面白かった。
ただし、夜勤を30年やっている僕としては、「朝」は一番辛い時間なのだ。疲労がピークの、身体が泥のように重たくなる時間。
朝日がキツくって、一刻も早く遮光カーテンを閉め切って床に入りたい魔の刻。
だからLAのドラッグクイーンが疲れた表情でつけまつ毛を剥がし、メイクを落とすシーンが一番心に沁みる。
宵っ張りで、早起き鳥の松浦弥太郎の当てどもない歩き旅。
自分が進めば世界が向こうから僕らに近づくってことだ。
月や太陽と歩調を合わせるってことだ。
【メモ】
夜のFM「ジェットストリーム」で、福山雅治がこのエッセイを朗読していたので、今回サブスクで本作を鑑賞してみたわけだが。
そもそもが活字で表された旅なのだから、著作を誰かが朗読する所までは原本にほど近くても、この映画化となると、今度はさらに赤の他人が映像を付けるわけで
原作からは少し乖離してしまうのはしょうがない。
夜間の長距離トラックの運転手だから、(そもそも活字の朗読劇なら) 僕には映像なんかまったく無くても良いのだ。
声に9割集中する。
映像はモニターを流し見しながら1割程度の関心で鑑賞。
映像なんか無くても、ハンドルを握るラジオ派の僕にはどうでも良いからね。
【追記】2025.1.17.
どうやら松浦氏が自ら撮影して、その映像に自分で説明文をつけていたらしい事をあとから知った。
道理でちょっと、くどく感じたわけだ。
星ひとつ減らしました。
知らない土地みたいな作品
知らない国の町にいる知らない人の人生の一部をありのまま映した作品。旅人(インタビュアー?)の方針はあえてその人物に深く関わらず、表面的なことしか映さない。だから観る人は旅人でもあり通行人でもあるような感覚になる。ドキュメンタリーという程でもない。
映画なのかテレビなのか個人制作動画かなんかなのか、分からない。でも、それでいい。作った人、撮った人が誰かも知らないし、映っている人物に知ってる人は一人もいなかった。正に知らない土地の旅だ。
この作品は、土曜日の午前と午後の間に起きて、ぼやっとする頭で湯を沸かして、少し長い朝食を食べるような時に見る様な作品だと思う。食後に思い立ってコーヒーを沸かす、少し冷まして飲み終わるくらいに見終わる作品だ。
人目線でより旅をしている気分になる「世界の車窓から」
椎名誠さんが好きです
理想する「旅」は目的を持たないこと
まだ果たせていない
右か左かさえ決めずに
出来るだけ後戻りはしないこと
出来るだけね
そんな旅をしてみたい
知らない所に行って初めての人と話す
今までの自分と比べない、食事も生活も着るものも考え方さえも比べない
素直に聴き素直に受け入れる
人それぞれ色々な旅があるでしょう
毎日同じルーティンで暮らしていてもそれは屁理屈をこねれば旅になると思うのです
「旅」を調べてみるとだいたいどこでも最初に
自宅を離れて… と書かれています
じゃ「自宅」は
個人でが生活の中心とする場所
日常生活をする空間
リラックスできるプライベートな空間
とあります
あまりしっくりこないな
寝床がいつも同じ場所なのは私はあまり好まないし
ヒロシさんはキャンプにリラックスできるプライベートな空間がその時の場所だし
私は外に出たいばかりです
憧れるのです、知らない場所やその風景、香りや風の冷たさ
そんな「旅」をしてみたくなりました
画家がその絵を描くように
松浦弥太郎の本みたいな語り口だなと思ったら松浦弥太郎の映画だった ...
台南の担仔麺は美味しい
私の個人的な意見で『旅を語る』なら、旅先は常に一人でいたいと感じる。
無愛想でいたいと言う訳では無いが『郷に入っては郷に従え』が私は苦手。
まぁ、旅慣れていないからなのだろうが。また、英語は全く話せないので、こちらから会話を挑みたいとも想えない。一期一会の方が良いと感じる。勿論、旅先で女性と知り合いたいとも思わない。
海外に限らず、夜の酒場へ行って酒場で戯れるなら、一人で家で映画を見て、次に行きたい所を探す。つまり、旅をしたくば、成田空港と羽田空港の間に住んで、面白い映画がやっていない時に出掛けるが一番だと思う。私は葛飾区区民。どちらも一時間でアプローチ出来る。葛飾区は『PLAN75』が無くば世界一住みやすい場所だと断言できる。
さて、
台南の担仔麺は美味しい。でも、東京でも同等の担仔麺を探す事が出来るし、東京にはナポリピッツァもある。ナショナリズムで申す訳では無いが、食の世界一は東京か大阪だろう。
私個人が海外経験が少ない事もあるが。
『びんらん』と『担仔麺』と『カラスミ』と『北京ダック』と『烏龍茶』は日本でも適価で味わえないだろうが。
追記
とは申しましても、
一人で行けないので、カワイイ身内の者に、連れて行って貰ってます。
【美しい人の営みを見るために、知らない街を独りで歩く幸せ。】
ー 松浦弥太郎氏のエッセイは、その少しスノッブな文章が時折鼻に付くも、文庫が出ると読んでいた。
そして、「暮しの手帖」の編集長になったと聞いた時に”この人は、人間や人間の生活が好きなんだ。”と勝手に思ったモノである。-
◆感想
・小林賢太郎の天鵞絨の様な声に誘われるように、サンフランシスコ、スリランカのシギリア(ここは、行った事がない。)、仏蘭西のマルセイユ、台北の台南と場所は移って行く。
・このドキュメンタリーで映されるのは、その町で生きる人々の姿である。そして、その姿を見ながら、小林賢太郎のナレーションが流れる。
心地よい時が流れていく。
<今作は、心地よい旅のドキュメンタリーである。それと共に、コロナ渦前まで春、夏、冬の大型連休に一週間ほど、京都に旅していた自分のスタイルとやや似ているな、と思った作品である。
劇中でも述べられるが、旅は独りが良い。
そして、出来るだけ予定を組まずに、行き当たりばったりで、旅をしたいモノである。
(但し、京都で酒を呑みながら美味い物を食べようと思ったら、予約は必須である。)
コロナ禍が”完全に”終息したら、京都以外のミニシアターを訪れる旅を考えている。>
上質なBSのぶらり旅のような雰囲気。
ただ、ぶらり旅は昼間の有名観光地のようなところを巡るが、この作品は深夜と朝が舞台となり、その時間を過ごす人間模様をゆったり紹介してくれる。
サンフランシスコ、シギリア、マルセイユ、台北と台南、メルボルン。
行ったことある都市は台北くらいだが、どの都市も何気ない空間、人があまり活動しないだろう時間であっても、都市は息づいているし、動いているし、新しい発見がある。
深夜なのに、ギラギラした18禁のような感じではなく、さわやかさすら感じる映像は見ていてホッとする。
レインボーフラッグからの「パートナーなの?」とか、
「自分でも漁師になれる?」のあとの指の切断あととか、
想像を促すアングルとはいい撮り方だなーと思った。
物足りぬ
何も残らないしっとり良い映画
ヒリヒリする様な深夜から朝方にかけてのダイナー、その夜のいかがわし...
【旅は楽しいもの】
バックパッカーをやってたこともあって、これまでに40カ国弱の国を旅したり、訪れたりした。
とは言え、アフリカは北アフリカだけだし、中東や中南米の国々には行ったことはない。
世界は広いし、多様だ。
この作品は、配信で十分な気はするが、僕は良い作品だと思う。
旅行者があまり見ることがない、夜から明け方の様子を収めて、市井の人々の何気ない姿をよく見せていると思うからだ。
旅行者は、大抵、日中に活動しないと多くの場所に行けないから当たり前だ。ある国に一年ほど滞在したことがあるが、夜徘徊したのは、その時ぐらいだ。
旅行者が深夜徘徊すると結構危険な目に遭うことは多い。
もし、コロナ禍から世界が立ち直り、往来が活発になって、外国を訪れるようなことがあれば、ちょっとした冒険心をくすぐるこの作品は良いと思う。
この映画の中でも言われているように、旅行のおおきな楽しみの一つは食べることだ。
日本にいると、特に東京は世界中の食べ物に出会うこと出来る。
でも、現地で、現地の人々が作った食事は、たとえ、口に合うのが日本で食べるものほうだったとしても、ものすごく思い出に残る気がする。
昔、気仙沼の中華料理店で食べた佛跳牆(フォーティャオチァン)は確かに洗練されてて美味しかったが、台北でサラリーマングループにご馳走になった佛跳牆(フォーティャオチァン)は、素朴だけど、なんとも言えない深みのある美味しさだった。気仙沼のお店は津波で無くなって、こちらも思い出になってしまったが、いつか、また、どこかで食べて、気仙沼も台北のお店も思い出したい。
あと、たくさんの国を旅して思うのは、中華料理は偉大だということだ。
ちょっと長く滞在して、現地の食事に飽きても、中華料理でリセット出来る。中華料理店ほど、世界中にあるレストランはないし、そして、味も安定している。
日本食も多くなっているが、味がかなり違うことがある。
だから、尚更、中華料理は偉大だと思う。
口に合わない料理もあるかもしれない。
でも、旅に出たら、現地の料理を屋台や、場末の様なお店で食べてみて下さい。
今は、情報が溢れているので、ネットで美味い店が割と簡単に見つけられるかもしれないし…。
エスプレッソ飲む漁師の太い指とか、何でもないものが心に残る
松浦弥太郎さんのエッセイを映像で読んでいるような感覚になる。臨場感がありながらリアリティより情緒が勝ってる、他にあんまり見た覚えがない映像で、面白かった。小林賢太郎さんの、上手いんだろうけど、上手い感じに聞こえない語りも気持ちいい。
本当に自分が旅したときみたいに、街の人が言ったこと、取ったそぶりが不思議と記憶に残っていく。「わたしたちは生では食べないわ」と笑われたり、もう話すことはないというように窓に視線を戻されたり、自分がしたかのように。
説明が細かいところとないところがあって、そのランダム感も好ましく感じる。わざとなところも多々あるんだろう。例えばレインボーフラッグを映して、店内の描写があって、年配男性と若い男性の2人客に「2人はパートナー?」と聞いたという語りが入っていて、そういう界隈かそういう店かなんだろうなあと分かって、もうしばらくその店を見る。
舞台挨拶があって、松浦さんは何回も「ありがとうございました」と言って深々と頭を下げておられた。足をくじいたそうで心配だ。プロデューサーの名前はもう忘れないであげてほしい。編集などで何度もこの映画を見ていてラストシーンで感極まるとおっしゃっていて、私でもちょっとそんな感じはあった。
隣の人は舞台挨拶中も上映中も寝ていて、寝息と小さないびきが聞こえており、起きたと思ったらマスクの中にハンカチを入れていた。よだれかな。金曜の夜なので、今日この映画まで働いて、やっとパルコの8階に来たんだったら、そこで思わず休息を取ってもそれはしょうがないのかも。人生や日々が旅だというなら、そういう旅もまたありなのだ。という程度には優しい気持ちになった。嫌味っぽく書き記す程度に優しくないけど。だって、いびきはさ。
朝ごはんがどの町のも美味しそうだった。バーの赤っぽいピンクのお酒も美味しそうで帰りにピーチネクターを買って一気飲みした。缶がそんな色だったので。
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