劇場公開日 2021年7月23日

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「鑑賞後はどっと疲れてしまった」復讐者たち 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)

3.5鑑賞後はどっと疲れてしまった

2021年7月29日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

 まず本作品がドイツとイスラエルの合作ということに驚く。ネオナチなどの極右が勢力を伸ばしているドイツと、パレスチナ難民に対して暴力的な政策を実行し続けているイスラエル。両国とも不寛容が蔓延しつつあるように見える国だが、映画人はそういった狭量な情緒に陥ることなく、冷静に人類の未来を見つめていると感じた。台詞の殆どが英語なのは、ドイツ語にするとユダヤ人が異人に感じられるし、逆も然りだからだろう。英語にしておけば殆どの国で字幕がいらないという理由もあると思う。

 戦争は国家の犯罪だ。断罪されなければならないのは国家の指導者であり、その一味である。国家の指導者を特定するのは容易だが、問題は「一味」の範囲をどこまで広げるかということである。
 第二次大戦のあと日本の国民の多くは、自分たちは軍部とマスコミに騙されたのだと主張した。軍人は命令に従っただけだといい、マスコミは軍部の発表を伝えただけだと言う。では誰に責任があるのだろうか。東京裁判で裁かれた人間たちだけに責任があるのか。
 中国で厖大な人数の民間人を虐殺した関東軍の軍人たちには何の責任もないのか。戦争反対を叫んでいる者たちを逮捕し、投獄し、拷問し、殺した者たちには何の責任もないのか。彼らを密告した近所の人々には何の責任もないのか。「がんばれ日本」と戦争を応援した国民には何の責任もないのか。
 国は一部の横暴な指導者たちだけでは運営できない。国民の賛成がなければ、経済的な後ろ盾を得ることができず、結局は失脚する。クーデターで軍が政権を奪取したビルマも、近いうちに軍司令官のミン・アウン・フラインが失脚すると予想している。再度アウン・サン・スー・チーが政権を握り、少数民族に自治権を認めれば、世界各国からの援助や経済協力が得られるだろう。少数民族に自治権を与えると援助を打ち切るとアウン・サン・スー・チーを脅している国は、ビルマと国交を断絶するかもしれないが、それはそれでいいと思う。

 国民のコンセンサスがなければ戦争に突き進めないのは明らかだが、どの国の国民も、他国の民間人の虐殺など望んでいないと思う。虐殺は常に軍によって行なわれる。人を殺すための組織なのだから、当然のように人を殺す。相手が軍人か民間人かの区別は意外と難しいから、全部殺しておけば間違いはないのだ。軍人に深い考えはないから、スパイかもしれない敵国人は皆殺しにするのだ。
 しかし銃後の国民は戦場の現実を知らない。軍が戦場ではなく民間人の住む地域に行って略奪し陵辱し皆殺しにしていることなど知らされようがない。軍人と同様にこちらも深い考えはないが、残虐行為はしていない。ただ新聞を見て勝った、また勝った、日本軍はすごいと応援しているだけだ。その行為は戦争に反対しなかった不作為として責められるが、断罪されるほどのことではない。日本の戦争責任を取って日本国民全員が死刑に処されることはないのだ。
 復讐を考える人間は違う見方をする。学校でいじめられたら、平日の昼頃、つまり殆どの学生と教師が学校にいる時間に、その学校を爆破しようと考えるのだ。あるいはマシンガンを乱射して全員を殺す。

 本作品の主人公マックスはユダヤ人であり、腕に識別番号の入れ墨がある。ナチに捉えられた証拠だ。戦後になって妻と娘がナチに殺されたことを知る。復讐を誓うマックスはユダヤ人虐殺の報復を行なっているふたつのユダヤ人集団に合流するが、それぞれの考え方は異なる。マックスはより過激な集団に参加することにした。彼らの計画がプランAである。
 ポイントはみっつ。ひとつはナチスの「一味」の範囲をどこまでとするのか。ひとつはユダヤ人虐殺の報復をする人々に、ユダヤ人代表としての資格があるのかどうか。最後のひとつは、一度も人を殺したことのないマックスに人が殺せるのかどうか。

 事実に基づいた映画ということで、実際にそういう報復組織があったのだろう。ただ、ドイツ人とユダヤ人それぞれにホロコーストという史実が齎した澱のようなものがあって、人々がどのように折り合いをつけていったのかが解るし、戦後すぐのドイツ人には依然としてユダヤ人に対する偏見があったことも解る。その偏見は戦後78年を経過した現在に至っても、必ずしもなくなったとは言えない。
 戦後のニュルンベルクの街を驚異の再現力で表現して、演じる役者陣は皆とても達者である。映画としての完成度は高い。ニュルンベルクのシーンは緊迫感がずっと続いて、鑑賞後はどっと疲れてしまった。

耶馬英彦