こちらあみ子のレビュー・感想・評価
全31件中、1~20件目を表示
側転のシーンはまるで奇跡。
原作が好き過ぎるので、どうしても映画単体として観ることができない限界を自覚した上で言うと、よくもまああみ子を演じられる子供を見つけてこれたものだと驚くほかなく、大沢一菜=あみ子を見ているだけで料金分の価値はある。なんだあの側転のシーンは。あんな映像が撮れたというだけで奇跡みたいなものではないか。
とはいえ原作から加えられたものがどうしてもプラスに機能しているようには思えず、そこは原作未読で映画を観た人とはどうしても同じ見方はできない。特に幽霊たちにサヨナラをするラストシーンは、どうしても大人の理屈で成長させられてしまうように感じられて、ラストのセリフともども蛇足であるように感じた。
さりとて、では原作とは違う表現として映画としてどう終わらせればいいかと考えた時になにか別案があるわけでもないのだが、作品としては大沢一菜ありきというか、大沢一菜に頼り過ぎではないかという印象ではある。
あみ子を中心に変わりゆく人たち
あみ子目線で見ると自由さや面白さでコミカルに描かれているように感じるが、別の角度から見ると凄く悲しくてもどかしいようなお話。
あみ子はいわゆる普通じゃない子なんだろうけど、あみ子にとってはそれが普通で、それを普通ではないと矯正するのは本人の良さまで消えてしまうような気もする
だがあみ子の行動や発言で学校では浮いているし家族も崩壊していく
自分が原因だなんて思っていないだろうし思っていたとしてもどこが問題なのかわかっていないだろう、それが悲しい、ひとりだけ取り残されているようで...
前半までは、あみ子にみんな向きあっていた、兄は「あの人はホクロか?それとも母ちゃんか?」などと言って、価値観を変えていこうと頑張っていたり、母親や父親も。
家族だからといえど、あみこと向きあうことに相当なエネルギーを使うだろうし、疲れてしまった。もどかしい。
最後、海で船に乗るお化けたちに波際から手を振る姿を見て、あみ子はそれでも元気に生きていくのだと決意のようなものが見えて、少しだけ救われたかなと思うような終わり方でした
「おばけなんてないさ!おばけなんてうそさ!」あみ子にとっての“おばけ”とは…?
アマプラで無料鑑賞できる『アタック・オブ・ザ・キラートマト』とか『トリプルヘッド・ジョーズ』とか見つけたんで、そういうの観て駄文書こうかと思ってたんですよね、実は。このアホは。
ですが、ここのところ、レビュアーさんが極端に少ない作品のレビューしか書いてないませんでした。
それも寂しいので“普通の映画”を観ることにした次第です。
いつも女装で観に行く映画館でフライヤーをもらってきて以来、気にはなっていた作品だったし。(しれっと女装絡めてるし・笑)
写真のぽけーっとした表情の奇妙な印象の子が、なぜかツボだったんですよ。
課金制だったので、どうせならと思いTSUTAYAへGo!しました。
“ちなみに”同時に借りてきたのって、やっぱり『インプリント~ぼっけえきょうてえ~』だったりするの。レビュアーさん、わずか2名の作品(笑)の、3人目に名を連ねようかと思ったんですが(懲りてねぇ…)そこは初志貫徹です。
相変わらず、まくらが長いです。ごめんなさい。では行きます『こちらあみ子』レビューです。
この作品のテーマに関わるキーワードっぽい“おばけ”って一体何?と思い、そこを考えてみることにしました。
結論から述べると、それはあみ子が抱える「自分でもよくわからない、漠然とした寂しさという恐怖」であったように感じました。
喜怒哀楽の、最初と終わり以外の感情を持ち合わせていないように見える「普通の子とはちょっと違う」彼女でですが、あと二個を認めてしまうと、自分自身が壊れてしまうこと。それを彼女自身の本能が理解しているように思えましました。
誰もが本能的に感じている“死”への恐怖に通じるような。
あからさまに死の匂いが漂っていたラストシーンなんて、その最たるものだと思いました。
“おばけ”たちの手招きに応えてしまういこと=どうしようもない「寂しいという感情」に呑まれてしまうこと=自我の崩壊=死にたいという気持ちが芽生えてしまうこと。なのでは?と。えつ、考えすぎ?
あみ子自身に「自我が崩壊する」という観念はないにせよ、それこそが「漠然とした恐怖」=“おばけ”の正体だったに違いないと思って。
最後の台詞の「大丈夫じゃー!」は、彼女が“おばけ”=「恐怖」に真正面から向き合う、もしくは、言えば立ち向かいたいという決意の“バイバイ”ではなかったのでは?と解釈したかったです。そうでないと、彼女があまりにも不憫すぎます。救いがなさすぎます。えつ、考えすぎ?
そんな彼女だからこそ、のり君という“希望”にすがりたかったのだと思えて。希望を見つめている時だけ彼女は、幸せな時間を過ごせていたのだと思い。傍目には滑稽としか映らなかったとしても。
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』でセルマが妄想の中でダンスを踊っていたかの如く。えつ、考えすぎ?
だから、鼻骨を折られるほど殴られても、彼女にとってのそれは、のり君と触れ合えるかけがいのない幸福な出来事だったのかな?と思えて。いつまでも剥がすことのない鼻の絆創膏は、あみ子にとっての“勲章”だったに違いないと思って。
“ちなみに”私、初見時にはあのシーンで笑ってしまったんですよ。
「好きじゃー!」→「殺ーす!」→「好きじゃー!」→「殺ーす!」→「好きじゃー!」→「殺ーす!」(笑)
ところが二度目に観ると、決して笑えない自分がいて。
先に述べたように、あみ子の、のり君への想いが、滑稽なまでに描かれている哀しいシーンだったと思うから。えつ、考えすぎ?
キーアイテムのトランシーバーは、言うまでもなく、彼女と他者とのコミュニケーションを表現しており。
決して応答のない一方通行の通話は「私はここにいますよ!」「私に気づいて!」のSOS信号だったのかなと思ったんですよ。えつ、考えすぎ?
そして、触れずにはいられないことが。銀幕初出演?(色々と調べたんですが、確たる資料が見つかりませんでした)の大沢一菜がとてもよかったの。
森井監督は、きっと一菜さんに演技をさせなかったのだと思いました。
あくまでも“素の”少女の姿を撮ることで、あみ子というキャラクターを創りたかったんだろうなぁと思って。
そのイメージにドンピシャとハマった少女が一菜さんだったと思って。
このあたり、先日観た『秘密の森の、その向こう』の少女の描き方と同じように感じました。
が…如何に?
アホの私にしては、珍しく真面目な考察系レビュー。
なのに、どうしてもわからなかったのは、劇中に登場する小動物の数々。エンドロールでもイラストが描かれていたので、きっと何かのサインだったと思うのですが。
やっぱりアホの私にはさっぱりでした。
『発達停滞大和民族』 こんな家族なら絆なんか要らない
彼女の心の中を、ファンタジーなシーンで描くが、健常者(?)としての偏見があるようでならない。きちんとこの少女の話を聞いたのだろうか。繰り返す、この社会から浮いた異常な少女(?)として、健常者(?)からは見える。それは仕方ないのか?そして、我々は本当に健常者なのか?
そもそも、彼女の視点で描くからには、正確な彼女の心理を描かぬば、彼女を描いた事にはならない。
つまり、
『絆を大事にする日本人』と言うからには、この映画の世界が、どうしょうもない社会であると理解しなければ駄目だ。なぜなら、『ストーリーの流れの矛盾』を利用して、デフォルメした誰にでも分かる様な設定にしてあるからだ。
・異常な放任主義
・異常な母親
・男子生徒のドメスティック
・知性の欠片すら無い夫
・子供達に無関心な学校教育
・噂だけが飛び交う村社会
大和民族はこう言った社会が『普通』なのだろうか。
それと比べて、少女のどこが変わっているのだろうか?普通に驚き、普通に親の愛を求め、順調に道徳心を育み、健気なまでに家族愛を求めようとしている。第2成長期のはずなのにその片鱗すらない。
勿論、家族が崩壊したり、流産がこの少女とは無関係なのは自明の理。最初から家族が壊れているのも、誰でも分かるはずだ。
大変に重要な事は、この演出家自身が、この主人公を分かっていない。若しくはに分かってあげようとしていない事なのではないだろうか?
強調して、もう一度言う。変わっているのはこの少女ではない。見ている者も含めた我々なのである。
原作者がこの少女の心を持った方なのかどうかは分からない。しかし、原作のテーマもそこにある。残念ながら、原作は読んでいない。また、映画は原作のテーマを理解しているかもしれない。しかし、充分な表現になっていない。そんな大変に残念な映画と評価せざるをえない。原作は大変に良いとは思う。だから、それを映画化するからにはきちんと原作者なは意見してもらいたい。
あの『ティファニーで朝食を』を映画化した時にトルーマン・カポーティは、主演をオードリー・ヘプバーンにした事と、結末を大いに批判した。社会はそのくらいの権限を原作者には与えるべきだ。考え方まで愛の無いAI化している。『発達停滞大和民族』だぜ♥
言葉にできない心の声をきけ!
作品序盤のあみ子が家族の写真を撮る場面、ゆるゆるで大らかな家族だなという印象を受けた。
この段階では、あみ子に対して、ちょっと変わった子くらいの認識だったので、あみ子が変わっているところを家族がよく分かっていて、それを受け入れている優しい家族に見えた。
物語が進み、あみ子が発達障害であろうことが分かってくる。
同じころにあみ子が、家族が崩壊してしまうようなことをしでかす。
こうなると、序盤に感じていたゆるくて優しそうな家族像が間違っていたことに気づき始める。
タイトルの「こちらあみ子」はトランシーバーに向かって言うあみ子のセリフだが、要はあみ子からの呼びかけである。私はここにいる。誰か応えてという呼びかけだ。
裏を返せば、誰もあみ子の呼びかけに応えていないことを意味する。
「お化けなんてないさ」と歌うあみ子の、「だけどちょっと、だけどちょっと、ぼくだってこわいな」のところが「私だってさみしい」と言っているように見えた瞬間に、言葉にできないあみ子の心がガツンと流れ込んできた気がした。
観ていてあみ子の呼びかけに自分も応えていなかったのである。
私が小学生や中学生だったころ同級生にあみ子のような子がいた。今までに数人と関わりをもったことがある。
その時の自分は普通に接していた、つもりだった。バカにしたりしていない、つもりだった。
しかし今考えてみると、自分はあみ子のお父さんとあまりかわらないことに気付いた。
それは、話が複雑化したときや、理由など、言っても解らないだろうと言わなかったことだ。
「なんで?」に対して、真実を言わず、適当に流す。自分は無意識にバカにしていたのである。
つまり、大らかそうに見えた父は、最もあみ子に向き合っていなかったことがわかるのだ。
優しく振る舞っているように見えても、家族として最低限の接触だけをして、あみ子に対する真摯さが足りていないのだ。
序盤に感じていた優しそうな家族は、ある意味で虚構だったといえる。
あみ子が起こした事件によって、頑張って支えようとしていた兄は崩壊。母はもっと直接的なダメージにより崩壊。父はあみ子を更に突き離すようになる。
唯一、あみ子に対して対等で真摯に向き合っていたお調子者のクラスメイトは、あみ子の「ねえ、なんでなん?」という問いに、過去の私とは全く違う理由で「秘密」と答える。
しかしそれは、奇しくもあみ子の孤立を生み出してしまった。
エンディング、怖さを感じるシークエンスだったが、最悪は免れた。
しかし「大丈夫」と答えるあみ子が本当に大丈夫だとは思えない。
あみ子は自分の複雑な感情を言葉にできない。言葉にできない心の声をきけ!
普通だと描かれないけれど視点の特異な映画
この映画のテーマが、「タブー」ですね。
発達障害を持つ小学生の「あみ子」の存在が周囲の人々を
変えて行く。
それが良い方向へ・・・ではなくて悪い影響を与えて
悪い方へ悪い方へ転がっていくストーリーでした。
普通の小説家はこんな発達障害児童の家庭への悪影響。
そんなことをテーマにしませんし、書かないと思う。
タブーです。
障害児の暗い部分、負の側面、家族への悪影響・・・なんて、
書けないですよ。
原作者の今村夏子さんはこの作品などで太宰治文学賞」と
「三島由紀夫賞」を受賞した。
映画からはちょっと離れますが、「こちらあみ子」に作者は
この作品に強い思い入れがあります。
大学卒業後に清掃のアルバイトをしていた、など人付き合いが苦手。
もしかしたら「あみ子」は作者の分身なのかもしれない。
全部、あみこの存在と言動のせい・・・とは限らないけれど、
映画を観てれば、あみ子のせい・・・そう思えてきます。
義母(尾野真千子)が死産したのは、あみ子のせいではない。
しかし庭に「弟の墓」と札を立てて、わざわざお母さんを呼びに行って、
「弟のお墓だよ」と見せつけて、
結果的にお母さんは号泣して、そこから病気がちになり、
精神に不調をきたし、入退院を繰り返す。
優しかった兄は中学で喫煙しはじめて暴走族に入り学校へ行かなくなる。
両親は離婚して、
あみ子は引っ越しとの名目でおばあちゃんの家に連れて行かれ、
お父さんに置いてきぼりにされる。
そしてあみ子の憧れの同級生の「のり君」が、
病んできて、「好きじゃー」あみ子、「殺すー」と、のり君。
「好きじゃー」「殺すー」「好きじゃー」を繰り返して、
結果、のり君はあみ子に暴力を振るい、
それもあみ子に馬乗りになり鼻の骨を折り大出血!!
すごく怖い話です。
それって、あみ子が優しい「のり君」を変えたってこと!?
作家が病んでるのかな?
発達障害児やダウン症の子供が家族にいても、健やかな家庭も多いと
思います。
事実、多動性障害児で手に負えなかった男の子が、
大人になり凄く人の心の分かる中学校教師に成長した例を知っています。
確かに問題提起映画。
障害児が家庭の不幸の連鎖を引き起こす、みたいな視点は
ちょっと極端ですね。
あみ子は少しづつ成長して、空気を読める大人に成長するかもしれない。
もしかしたら、成長しないかもしれない。
だけど「生きたい」と心の底から思っている。
この映画が描いた世界は、パンドラの箱を開けた側面がある。
ホラーよりも怖い映画でした。
印象に残る映画
てんとう虫やカエルをアップしているシーンの意図を知りたい。
あみ子が怖がるベランダからの音の正体がわかって良かった。
わからないのは怖い。
広島弁で話す自然な雰囲気がとても良かった。
”秘密だらけの世の中”イコール”みんな何考えてるかわからない世の中”イコール”怖いオバケの世界”。
最後にオバケたちにサヨナラしたのは面白い描写だと思った。
今作では描かれていないが、ラストの後、おばあちゃんとどのように過ごし、どう成長していくのか楽しみだ。希望の持てる終わり方だった。
エンディングで流れた主題歌『もしもし』(作詞・作曲:青葉市子)が、とても素敵な曲で尾を引く。
上映後、監督とのり君役の俳優の舞台挨拶があった。この作品、全国ロ...
上映後、監督とのり君役の俳優の舞台挨拶があった。この作品、全国ロードショーツアーをしていたそうで、私が観た9月の新文芸坐でちょうど1年経ったとのこと。
あみ子を見ていて、懐かしい子供時代を思い出した。通常の子とは違う感性を持っていて、純粋で自由で、そのせいで周囲の人たちを困惑させてしまう。何かの障害があるのだろうけど、普通の子と同じクラスにいる。
あみ子に優しくしなさいとお母さんに言われて、相手をしてくれるのり君。のり君のことが大好きなあみ子。習字教室で、のり君をこっそり見ているあみ子。
あみ子のお母さんは継母だということが観ていると後でわかる。そして写真撮影のシーンで、このお母さんが少し変だということも。
普段優しいお父さんもあみ子にウンザリすることがある。お兄ちゃんもそうで、だけどあみ子には自分の何が悪いのかわからない。
そして中学生の時、あみ子は酷い目にあう。
このころからあみ子は幻聴が聞こえるようになり、それを訴えるのだが誰も病院に連れて行くなどの処置をしてくれないところがかわいそうだった。
庭の金魚のお墓?のシーンから、「モリのいる場所」みたいな感じの作品かなと思ったが、面白いけどシリアスな展開だった。
あみ子にとってあの事件や家族の事はつらかったのだと思うが、三途の川ではなく、海で、こっちへおいでと呼ぶお化け達にバイバイして、生きることを選択したあみ子。きっと幸せになってくれるだろう。
愛すべき厄介者
発達障害のある女の子のお話。本人に悪気が無いのは十分承知の上で敢えて…残念ながらあみ子に全く共感出来ませんでした。誰が悪いわけでもなく、あみ子にとっては生きずらい世界なのでしょう。あみ子(回りの人達も)の今後に幸あれと願わずにはいられません。
今世紀一番しんどかった映画
純粋無垢とか素直とかいうのは簡単だし、力強く生きてほしいとか言うのも簡単。
継母は心が壊れた。
10円ハゲが出来た兄は家に帰らなくなった。
父はあみ子を持て余して捨てた。
確かに親を含めた身近な大人に知識とサポートが有ればあみ子にとって、そして周囲の人間にとって別の未来があったと思う。
でもこの結末はどうしようも無い。
発達障害的なものと思うけど、今もきっとどこででも起こりうる事だと思う。
お化けに呼ばれて海に入らなかったあみ子。
大丈夫、じゃないんだよ。と思う。
周りは全然大丈夫じゃない。
だからせめて、ひとかけらの客観性を持たずに生き続けてほしい。
ひたすら己の内側の声にだけ耳を澄ませて生きてほしい。
海に入らなかったのなら、お化けについて行かなかったのなら、最後まで何にも耳を貸さず貫いてほしい。
などと作中のあみ子に辛くなるのは、家族やのり君に申し訳なくなるのは、あらゆる場所でズレた発言行動をし続け、周りに人が居ないまま中年になり、先日ADHDだと診断された私だからだと思う。
自分を振り返り自己嫌悪に陥るには十分過ぎるほどの客観性があり、そして決意も決心もいつもあっという間に忘れてしまう毎日を過ごす私には、この映画は辛過ぎる。
ということで見返す事は絶対無いと思うし、冷静になって評価が出来ないけど(星の数は0にも5にも出来ないので2.5とします)、この映画の存在を、私自身を忘れないように残します。
それであなたはこんなあみ子を許せるのか?問題
(ネタバレですので鑑賞後に読んで下さい)
この映画の肝は、こんなあみ子を観客のあなたは許せるのか?問題だと思われました。
個人的には、(そう明確に演出しているのだと思われましたが)共感性の乏しいあみ子に対して終始イライラしてしまいました。(苦笑)
そしてこの映画の本質は、共感性の乏しいあみ子が、家族を含めた周りから、そして観客を含めて排除されて行く、それを露わにした作品だと言えます。
そういう意味ではこの作品を作った作者(監督)は冷徹なのかもしれませんが、個人的にはそれには感心できませんでした。
私達はおそらく現実であみ子に出会ったら、ほとんどの人が排除してしまう、そのリアルの方を肯定した方が良いと思われます。
そしてあみ子の内面理解を含めた本当の関係性は、綺麗ごとを取り除いたあみ子を排除したのちに始まるのだとも個人的には思われています。
映画自体はあみ子役の大沢一菜さんの演技も素晴らしく、見るべき点もあったのでこの点数になりました。
あみ子は最後、岸で「大丈夫!」と言ってそれが映画での救いになっていますが、現実ではもちろん大丈夫ではなく、本当に大丈夫にさせるには、あみ子以外の登場人物の、その他観客含めた大半の、あみ子ではない人々の内面の方も描く必要があるのだと、個人的には思われました。
よかった
原作が大好きなので、主人公のあみ子の感じに違和感がないことに驚く。実際原作も深刻な話ではあるのだが、コミカルに描かれていて読んでいて楽しい。ところが映画の本作はコミカルな感じがあまりなくて、状況の深刻さが浮き彫りになり、とてもつらい話だった。
おそらく監督さんはとても真面目な人なのだろう。今村夏子さんは、どんなに暗くて深刻な状況にもふざけてしまうような楽しい人なのだろうと思う。
待っているよ
文章で読んだ時よりも映像になるとギラギラとしたあみ子がそこにはいた 枠におさまりきらない感情のパワー
乾電池で例えるとあみ子は直列回路で自分を表現するタイプ多くの人はおそらく並列回路
そんな印象
裸足でドタバタ大袈裟に床を歩いてみた
あみ子の気持ちに近づきたくて そしたら少しだけ悲しくなった
応答せよ…こちらあみ子 無関心にされることほど心細いことはないよね あみ子は人と繋がることが苦手というか空気が読めないとこがある でもそこには全く悪意がない だから周りの人は疲れ果ててしまう
あみ子が応答せよと言えば言うほどに人は離れていく ただ世の中はそんな人だけではなく坊主くんみたいな子は必ずいてさりげなく気にかけてくれる
そのことに救われた
付かず離れずのお父さんにも
のり君の「殺す」と坊主くんの「殺す」は同じ言葉でも全く意味合いが違うし「おれだけのひみつじゃ」の言葉はあみ子の心にもさざなみのようにやさしく広がったろう
トランシーバーの波長のようにさざ波があみ子に寄せる
人の違いを尊重し痛みに気付ける世の中へ
あみ子から連絡きたら応答できるかな?
何て応えようかな?
待ってるよ
追記 やはり書いておこう…
高校生の頃バス停で待っていたら小学生の男の子にいきなり抱きつかれたことがある軽くフワッとした感じだったけど
何?と考える間もなく身体が硬直した
すると近くから、やめろやめろと冗談混じりに先生が生徒に言う声がした
別にその時はそれで流したのだけれども…
後から生徒が謝れないなら先生に謝ってほしかったと思ったことがある
もちろん悪意の無い行動だとは分かっていたけれど
今回こちらあみ子を観て思い出した今でも覚えてること
評論の必要性
大変にモヤモヤする、心の蟠りが消せない作品である。本当に難しく、このテーマに対して毎日、否、毎時間心の中で白黒が入れ替わる"オセロ"のような心情変化を繰り返させる正に普遍な問題である。
表題どおり、こういう作品は絶対に評論が必要だ。感想ではない、プロの評論家のロジスティックな建築的論評だ。そこには自分の気づき得なかった視点や、見えない所へのイマジネーション、そして腑に落とすヒントが示唆されている。
単に脊髄反射の如く、今作品を咀嚼できないという諸兄にはキチンとプロの論評の、感情とは一線を画した冷徹な理論をフィルターとして通すことで、如何に自分が映画を”ボーッと”観ていたかを恥じることになることを体験して欲しい。それでいいと思う。その”恥”を受け入れることで本当の意味の映画ファンにステップアップしていくのだから・・・
毎週、映画評を自腹(真贋は置いておいて)で観てのラジオで発表するラッパーは、7月29日(金)にこう言った。「もしかしたらカメラの視点は、一貫して言及されない誰かかも知れない・・・」と。
今作品、不思議なことに前妻の事は一切触れない。あの隠し事が一切できない(チョコクッキーの件は喋らない都合の良さは否めないがw)主人公が、この件に対して一切台詞として言及していない、又は妹を弟と間違った件も、勝手に妄想するに、過去にいたかも知れない産みの母やかつて存在していた弟が、寄り添うようにこの主人公を見守っている視点で描かれているのではないだろうかと・・・ だからこそ、スタッフロール中のエンディングテーマ中に主人公の問いかけと、曲中の『もしもし・・・』が呼応しているのではないだろうかと・・・ 勿論、パーソナリティはそこまでは発言していない。でも、ヒントをどう取るかは、観客の裁量である。
鑑賞後のティーチインでの今作監督の登壇で、もし質問を受け付けられたら是非訊いてみたい内容ではあったが、でもパンフレットにその答えが載っているかも知れない。私は財布に余裕が無かったのだが・・・(泣)
おーとーせよ、おーとーせよ
おーとーせよ、おーとーせよ、、、
このあみ子の呼びかけに、
応答しないが見守るよ(とも取れる)という解釈が、
今村夏子原作を映画化する時の高難度のキーワードだ。
言動のピントがずれている主人公に、
カメラもピント(こころの)を合わせない。
今村原作は、
軽妙に戦慄を感じさせながら、
解決不能の人間関係や、
社会問題をぶっ込んでくる、
言葉が闇を纏って刺さってくる、
それが魅力で、なおかつ、
的確な文章で、
行間でピントをぴったり合わせてくる。
映画は全部丸出し。
行間は基本的にはない。
どうやってピントを合わせるか。
今後もどこからか現れてくれるだろう、
ウルトラの兄、
兄自身も育てていた鳩と決別した、
鳩の卵は残した。
ウルトラの妹とはさよならした。
舟に乗っていた、むらさきの、、、、
ではなく赤いスカートの妹。
ウルトラの父と母もう要らない、、、
応答せよ応答せよ、
こちら観客、
大丈夫か?
大丈夫だ。
見事なピントだ。
と解釈した人にとっては傑作。
カットを割って細かく語ると、
今村ワールドが色褪せる、
高難度のキーワードを、
結果的にはだが、乗り切った。
受け入れることができなくても、認めることはできる
『ONE PIECE』を観るために並んだ大勢の人々の間を縫って、目的のシアターに入る。観客は十人に満たない。そりゃそうだろ、こんなめんどくさそうな映画だれが観るんだ。
観終わってため息が出る。なかなか厳しい作品だった。
原作はもっとあっけらかんとしていたように思う。そして、引っ越して行った先の田舎で、居場所を(たぶん)見つけたあみ子のことを、もう少し詳しく描いていたように思う。
あみ子は大人のことがわからない。大人もあみ子のことがわからない。でも、わかってほしい。受け入れることができなくても、認めることはできるだろう。あの丸刈りの少年のように。
井浦新演ずる父親の姿が胸に痛い。問題と真正面から向き合わず、常に目を背け続け育児放棄。あげくの果てに娘を実家に《捨てる》。ことなかれ主義の行き着く先。
父親はそれを「仕方のないこと」だと思っているに違いない。だが鏡写しのようにその姿を見せつけられた私たちには、本当にそれが「仕方のないこと」だったのかという疑問が芽生えてしまう。
発達障害を抱えた子どもたちへの社会的支援がうんたらかんたらというゴタクを吹き飛ばしてしまうほどの、主演の大沢一菜のナチュラルすぎる演技。彼女の出ている場面はまるでドキュメンタリー映像みたいだった。
この作品の最大の難点は、オバケたちを出演させてしまったことだと思う。
発達障害に幻覚症状が生じることはめったになく、誤解を招きはしないかと心配である。
ひとつの家族の在り方
大沢一菜さんが、
あみ子が、
あまりにもインパクトが強くって…
お父さんは、 “後添えさん > 子どもたち” なのね。
まぁ、実際にあるからなー、
周りにこのパターン。
あみ子のような個性のある子どもではなかったし、
何かやらかしたわけでもないのに、リアルに父親出ていったからなー。
ということで、ストーリー云々や、
何かのメッセージを受け取ることはなかったです。
こういう、ひとつの家族の在り方を観た感じ。
内容に関しては、そこまで感動も受け取るものもなかったですが、
配役も含めて、子役たちが本当に素晴らしかった。
大沢さんは、もちろんだけど、
お兄ちゃんの奥村さんも良かったなー。
お兄ちゃんだけは、なんやかんやあっても、ずーっとあみ子の味方だよね。
ベランダのオバケをやっつけに来たシーンは、少し泣けた。
心のトランシーバーで繫がっていたのかな。
憧れの のり君も良かったし、
個人的には、隣の席の坊主頭の子のキャラクターがリアルでね、微笑ましい。
観終わって思ったことは、
最終的に、あみ子には、新しい環境で強く生きて欲しい。としか…
自由と生きづらさ
あみ子はただ自分が思うままに生きてるだけで、大人になった私たちが失った自由をそのままに生きているんだけど、それが周りの人からしたら辛いっていうか。。。流産をした母が希望を取り戻し始めた時、より母を元気づけようと動いたあみ子の行動がずっと優しかった兄を不良に、優しかった父親を子を捨てるような育児放棄をする人間に変えてしまい、好きだった人にはこくはくしたら殴られ。あみ子の世界ではそれすらも強く生きる希望だったというか。。
多分ていうか絶対あみ子は発達障害なんだけど父親があみ子に関心がないから病院に連れて行ってあげないんだなって苦しかった。彼女は病気の自覚がないし、幻覚とか話をちゃんと返せなくなってきてたのに、、。
個人的に幽霊の演出めっちゃ好きだったし、絵作りや音作りにすっごい才能を感じた。
ただ客目線からしたら希望なさすぎてこっちが辛かったから星4。
全31件中、1~20件目を表示