こちらあみ子のレビュー・感想・評価
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ハゲか兄貴か。ホクロかお母さんか。そういうことじゃ。
オレは広島出身だし、舞台はなじみある呉市だから、どうしてもひいき目はあるもんだが、「この世界の片隅に」に並ぶ呉映画の代表作といっていい。
「この世界の片隅に」がオレのおばあちゃんの話であるならば、これは、オレの話であり、オレの娘の話だ。
「こちらあみ子」
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しかし、まあ、情報量の多いこと。これを21日間で撮ったとのこと。ちょっとどうかしているほどにヤバい。スゴイ。原作未読だが、本作を観れば、作り手がどんなに原作を愛し、咀嚼し、腹に落とし込み、作り上げたのかが、滴るように感じる。
オレはこのあみ子を特別な子とは思えないし、ましてや発達障害だという風にも思っていない。あえて言うなら、ノリ君の苗字が分からないところぐらいか。
■見える世界
カメラは基本、「ある視点」で少し距離をとってあみ子を描写する。時にあみ子からの視点となるのは、
・サチコのホクロ
・同級生の小坊主
の2点。
お父さんの新しい奥さんになるサチコをホクロオバケというあみ子にコウタは自分のハゲをみせ、わしははげか、兄ちゃんか?と尋ねる。あみ子は兄ちゃんだと答え、コウタは「そういうことじゃ」と返し、あみ子はへたくそなスキップで「お母さん♪」と喜ぶ。
実際にサチコと生活すると、ホクロばかり見てしまうあみ子。
しかし、臨月のサチコが病院から帰ってくるのを、猛暑の中、外で待つあみ子。そのあみ子をみて、「びっしょりじゃね」とサチコはあみ子の顔、頬を手で愛おしく(一方で執拗に)汗をぬぐう。この時にあみ子から見るホクロはなぜか小さくなっている。
ここで初めてあみ子から見て、ホクロオバケではなく、お母さんになったのだろう。
しかし、実は死産という結果で、あみ子の家庭は崩れていく。(オレはこの死産の理由が、サチコの崩れようからして、ちょっとイヤな想像をしているが、ここでははっきりと描かれていない)
もう一点、同級生の小坊主との会話。小坊主のある言葉を境に、風向きが変わる。(本当にカーテンの揺らぎが変わる!)そこから小坊主はあみ子からの視点となる。
子供は残酷だとか、無垢だとか、発育障害だとか、親からして、人間からして、そういうことではなく、向き合うきっかけは誰にだって必要だ。
この2点はあみ子の視点。そして大体を占める「ある視点」だが、これはラストとエンドクレジットでわかる。
「おーい、水はまだ冷たいじゃろ」と問いかける声は、エンドクレジットでトランシーバーが横に書かれた監督、いや監督だけでなく、オレらの声なのだ。
「大丈夫じゃ」と答えるあみ子。
「ある視点」とは監督のこの作品への誠実さの表れであり、またオレらの誠実なまなざしでなければいけない。
■予兆
落ちてこないミカンは、その後の誕生日の食事の悲しい出来事の予兆。
とうもろこしのビシャビシャは破水の予兆。
テレビで流れる「フランケンシュタイン」は「ミツバチのささやき」のオマージュと、そこから聞こえる悲鳴は、病院にいるサチコの悲鳴。
保健室でのチャイムの音の音程がズレるのは、その後の悲しい出来事の予兆。
玄関のすりガラスは不安を感じさせ、玄関からところどころ物語が展開する。
■お気に入り
あみ子が霊の音を感じ始めるところはちょっと「エクソシスト」を思い出し、家の階段もちょっと「エクソシスト」を感じさせるんだよね。だけどそれはホラー的な見せ方ではなくって、あくまで作り手が映画好きってことだろう。(サチコの伏せた髪はさすがに貞子ではないだろう)
ノリ君の腹キックを不謹慎に笑ってしまったり、保健室の先生役播田美保が妙に怪演で笑ってしまった。
追記
ちょいちょい挟む小動物
「僕らはみんな生きている」
そういうことじゃ。
文字から映像へ、あみ子のしあわせな跳躍
たまたま、まわりの人たちと原作本を回し読みししており、「そういえばこの本、映画になるらしいよ」と話題にしていた。イメージどおりの女の子のちらしや予告を目にして「わー、楽しみ!」と盛り上がりながらも、「いったい、どんな映画になっているんだろう…という不安というか、怖いもの見たさのような気持ちも、むくむくと膨らんでいた。
小学5年生のあみ子は、(傍目からは)自由気ままに生き、枠からはみ出しまくっている。同級生・のりくんを好きでたまらないあみ子が、こっそりと「赤い部屋(母の書道教室)」を覗き見ているように、読者もこっそりと、あみ子の真っ直ぐではちゃめちゃな言動を覗き見ている…気持ちになる。(ぼとぼとと汗がしたたり落ちるシーンでは、読み手の立場を忘れて「見つかった!」と叫びそうになった。)でも、映画はそうはいかない。暗闇の中とはいえ、無数の見知らぬ人たちと時間と場所を共有し、あみ子の物語を追うことになる。想像すると、自分が覗き見されているようで、何ともむずがゆい気持ちになった。
さて、本編。早速あみ子は、スクリーンの端から端をめいっぱい動き回る。教室が並ぶ校舎や川沿いの通学路を遠景で捉えた、ヨコ移動の繰り返しが印象的だ。粒のように小さくても、あみ子の生き生きした存在感は群を抜いている。「とても見ちゃおれない」と思っていた覗き見のシーンも、のりくんへの2度の告白も、不思議な明るさと力強さに満ちていて、文字から映像が立ち上がる瞬間を存分に味わえた。のぞき穴に閉じ込められていたあみ子が、スクリーンという広い活躍の場を与えられたのは、大正解・大成功だったのだ。
「弟」の誕生を控えた10歳の誕生日をピークに、あみ子の家はゆっくりと壊れていく。母は(ホラー映画さながらに)乱れた髪をテーブルに投げ出して反応しなくなり、兄はライオンのような髪をなびかせながらバイクで轟音を撒き散らす。そして成すすべのない父は、その日暮らしがやっととなる。けれども、あみ子の中では、彼らは何も変わっていない。(自分にきょうだいがいないからかもしれないが、)特に兄との関わりには、心打たれるものがあった。ベランダからの「霊の音」に日々悩まされ、追い詰められるあみ子を唐突に救ったのは、幼いころにグミの実を跳び上がって取ってくれた兄。(絶妙なコントロール!)幼いあみ子の好物を書き留めていた母も、あみ子との生活をつなぎ止めてくれた父も、それぞれにあみ子と繋がっている。
冒頭と同様に、画面いっぱいの道をひとりで歩いてきたあみ子は、広々とした海に出る。そして「あるもの」たちに大きく手を振る。映画ならではのラストと、エンドロールに寄り添う音楽の余韻が、じんわりと心にしみた。
帰り道、「えー、何かわかんなかった!」と小5男子は頭を抱えていたが、「好きやー」「殺す!」、「好きやー」「殺す!」の告白シーンの再現は、やたら面白がっていた。自分も、何かにあれほど情熱を傾けてみたい。そしてもし、子がそんな告白を誰かにしたら/されたら、本当にうらやましい、と心から思う。
黄色いトランシーバーは片方が失せているから、 もはや会話が不可能だと我々に解らせるサインだろう。
奈良美智を彷彿とさせるこの面構えったらない!(笑)「こちら あみ子」。
子どもは こじれてなんぼだ。
このポスターのスチール写真をもって、映画の価値は決まったと云うべきだろう。
傑作だと思うのだ。
映画を観ていない人でも、この写真は一度見たら忘れられないものね。
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でも、中身は違った。
今村夏子原作。
「ポスター写真」のインパクトは天晴れだが、
実際の映画は、う~ん、だ。
非常に難解であり、多くの問題提起やヒントを視聴者に投げかける。
消化するのが難しい。
★の数は僕の好き嫌いで決めた。
思っていたのと違ったのだ。
ラッセ・ハルストレムやリンドグレーンの主人公たちのような、大人社会にはまだ染まっていない=生き生きとした子供時代と、その子供たちの生き様へのあくなき肯定・賛美を描いたストーリー・・とは違ったのだ。
恐らくあみ子は
(劇中、触れられないが)、自閉症スペクトラムや、多動性注意欠陥障害の「患者」にカテゴライズされる存在なのであろうが、
同居者は拳骨を握りしめて歯を食いしばり、あみ子との生活を耐えに耐えているのであり、
学友たちは自分をころしてあみ子のヤングケアラー役を背負い込み、
教師たちは特別支援学校に回されなかったあみ子との騒動を、教室や保健室でスルーするような態度にも出ている。
強情で聞き分けのない子どもに手を焼くと「きっといつかはこの子も成長して大人になってくれるはず」と親は自分に言い聞かせて、祈りながら耐える。
「誰に似たんだろう」とも思う。
でも快癒の可能性とか、希望の未来が見え得無いのであれば、
これはあの映画「どうすれば良かったか、」の前段に位置するだろう破壊的な世界なのだ。
尾野真千子の母も、井浦新の父親も、
あみ子には手を上げない。
というか もう既に疲れ切っていてその気力すらなく、母は金切り声の絶叫ののち床に伏しており。父は脱力感と諦念。兄は制御できぬ世界へと脱出し、
・・つまりこのあみ子による逆DVの家庭環境で、家庭が“死に体”になっているのだ。
物語はスッキリしない。
というか、非常に嫌な後味すら残す。
今村夏子があの「星の子」を書いたご本人なのだと知れば、「ああ、なるほどね」と思った。
歪んでいるのだ、この人は。
そして無理心中だけが回避されて映画は終わってしまう。
検索すればこの映画についての考察や分析の寄稿が山ほど読める。どれもこれもが歪んだ出来ばえゆえだ。
「あみ子はかつての私自身です」とか、原作者が言ってくれれば良いものを、我関せずの投げっぱなしの《虫唾の走る放置》に我々は取り残されてしまう。
ぞっとするばかりだ。
原作者とも対話は出来ないと感じた。
・・・・・・・・・・・・・
付記
「岬の兄妹」のレビューで触れた事だが、我が家では精神疾患の女の子を児童養護施設から預かって長く一緒に暮らした経験があるもので、今回、作者のネタ探しの文章と、あと一歩を踏み込まない距離を固持する血の気のない創作態度には
共感が出来なかった。
心に寄り添える人が必要なのです。
今村夏子の小説「こちらあみ子」と同時収録された「ピクニック」は、さらっと読んでしまうとそこに潜む不穏な空気を理解できなくなるので注意が必要だ。なのでこの映画も予備知識なしに観てしまうとあみ子もただの変な子だとか親もダメダメだなぁとかしか感じないかも知れない。今も昔(映画の時代背景は80-90年代か)も世の中は「不寛容」が渦巻き、ほとんどの人々が自己中心で生きている。イガグリ頭の同級生(ノリ君ではない)や保健室の先生みたいな人はむしろ珍しい。疲れ切ってしまいあみ子を育てることを諦めた父親を責めることは我々には出来ない。病院で診て貰うとかそれなりの施設を探すとかも解決策と思えない。あみ子は継母であろうが母親を好いていた。不幸な出来事でその関係性が壊れたことが残念でならない。心に寄り添える人がそばにいて適切な教育をゆっくり行えば何とかなると思う。これから一緒に暮らす祖母に期待したい。少なくともあみ子は幽霊たちにバイバイできたのだから強く生きていく意思はあるのだから、、。
色んなことを観客に考えさせた素晴らしい映画であった。この題材を監督デビュー作に選んだ森井勇祐に拍手を送りたい。
大沢一菜の演技力がすさまじい映画・・・
あみ子役の大沢一菜がとても演技に見えなくて、彼女こそ当時のアカデミー主演女優賞を取るべきでは?と思いながら観た。
おそらくはASD、ADHD、あとLDもあるだろう発達障害コンプのあみ子によって、誰も悪気は無いのに家庭が崩壊していく様がまさに地獄だった。携帯が出てきていないことから作品の時代背景的には90年代なのだろうか。「発達障害」なんて言葉がまだ知られてなかった頃だ。いまならもっと早い段階であみ子を療育に繋げられただろうか。
母親も父親も兄も限界の状態で最終的にあみ子が切り捨てられていく様が痛々しくしんどい。あみ子に対して愛情が最初からなかったわけでは無いのが余計に苦しい。
いじめられても怪我しても血を出しても状況を理解できていないのか、泣くこともしないあみ子。でも何も感じていないわけでは無い。ヘルプのだし方もよくわかっていないのだ。このままだと何か事件に巻き込まれても状況を説明することすら出来ないだろうト余計な心配をしてしまう。(実際に身体障害、知的障害のある女性が性的加害のターゲットにされることなどはよくあることで、あみ子のような発達障害のある女子もその例外では無いだろうと思う)どうかなんとか療育に繋げてくれないかと祈るようなしんどい気持ちで観た。
映画はフィクションながら、現実で療育に繋げられることも無いまま家族にも切り離され孤立したまま大人になった発達障害のある人が数多く居ただろうことを思うと胸が痛い。
世の人たちは自分の子が健常者として生まれてくることを疑いもせず軽々しく子供をほしがるが、この映画をみて自分の子があみ子のようでも愛せるか真剣に問うた上で子供を作って欲しいと思う。
どんどん嫌な気分になっていくし、あとから考えてもやりきれなくなる
心が痛くなる
まだ観ていないが、最近公開された綾瀬はるか主演のルート29という映画に興味があり、その監督の初期作品という事で、レンタルDVDで鑑賞しました。
主演の子役は、ルート29にも出演していた大沢一菜という子らしいのですが、女子だか男子だか判らない独特な外見と、どんな波乱にも一切動じない無頓着さ、言い換えれば最強の鈍感力を表現し切った演技に驚かされました。
あみ子の人格の設定が、ADHDの様な病理的な原因によるものなのか、単に天真爛漫なだけなのかは判りませんが、他人の機微にも無頓着だし、自分が酷い仕打ちをされても無頓着だし、悪意はないにしても、周りの「常識的な」人達がことごとく影響を受けて人生を破綻させていくにも関わらず、本人はそれでも飄々として我が道を突き進む姿勢に、複雑な気持ちになりました。
ピュアすぎる故に、周囲に理解されず取り残されてしまっている可哀想な存在なのか、それとも無邪気過ぎる言動故に周囲を不幸にしている悪魔的な存在なのか、理解に苦しみました。
こちらあみ子という風変わりな題名も、作中に登場するデバイスから取られていたのだと判りましたが、劇中では結局これが通信成立する場面はなかったし、終盤では片方を紛失してもはや一方通行でしか存在し得なくなった状態になっても尚これは捨てきれず、逆に本来は家族の思い出が詰まっているはずの別デバイスは、執拗に捨てようとする場面は、いつまでも周囲に理解されず、一方的な送信のみで終わってしまっている人間関係と、一番大切にしたかったものが何なのかを物語っている様に感じました。
最後まで感情を露わにしない父親にも、優しいのか冷たいのかよく判らない不気味さを感じるし、本当は優しいはずの兄も義母も、本音が見えないし、そんな無関心な周囲に囲まれて健気に生きているあみ子が不憫に感じました。
あの世からの誘いも毅然と跳ね除け、毅然と生きていく超鈍感な姿勢に、生物としての根源的な強さを感じました。
最後に声をかけてくれた人が誰なのかは判りませんが、救われれば良いなという一抹の清涼感を感じました。
大沢一菜さんの演技にグイグイ
コミュニケーションの苦手な発達障害児・多動症・自閉症など協調が難しいキャラクターの子どもはたくさんいて、ようやくそれらが認知され始めているが、中々世間に受け入れられていない。
あみ子ちゃんも、暖かな家族に守られていたけど、大きくなると、周囲と乖離してくるので守りきれない。
親御さんの御苦労が痛々しい。
誰も悪くないからなお辛い。
ラストの海のシーンで、父に捨てられ自殺するのかと、ドキッとしたが、お化けに別れを告げたのでホッとした。
鑑賞後よく考えたら、自身の変なことが何であるかを気にしていたので、少しずつ大人になっていっていたのだから自殺は考えられない。時間はかかってもおばあちゃんと幸せに暮らしてほしい。
ルート29を見た後、U-NEXTで視聴。重いテーマだが、主役の役者...
沈む
ホントに演技未経験?
青葉市子の音楽が素晴らしい
原作既読。
原作のストーリーはもちろん、雰囲気もかなり忠実に描かれている。
よって個人的な感想としては原作を読んでの感想とおなじである。
「こういう子いるな」「こういう子の見ている世界ってきっとこんな感じなのだろう」と納得。
テンポもよく演者も上手い。
主演の子の眼差しはあみこの純粋さと持て余すほどのエネルギーを映し出しているし、
井浦新・尾野真千子夫妻も安定の上手さである。
(森井勇佑監督はこれが初監督作品とのことだが、よくこの二人をキャスティングできたと思う。二人が今作が初共演というのも意外だ)
が、特に感動したりすることはない。
自分にとっては既定路線という感じだった。
つまらなくもないが面白くもない。多分世界観が自分に馴染みすぎているのだと思う。
しかしながら、音楽はかなり良い。
ちょっとしたシーンの音楽からして良いのだが、
お化けの歌が主人公のイマジネーションと共に
フルサイズ(?)で流れるシーンの曲の展開は目(耳)を見張るものがある。
「これは凄い!」とおもって最後のクレジットをみたらなんと青葉市子であった。
彼女の楽曲は結構好きだが、劇伴までするとは知らなかった。
普段のライブなどで見せる以上に高く深い音楽性と技術があるのだと驚いた。
ちなみに本当は河合優実さんが惚れ込んだという「あみこ」と間違って鑑賞した・・・。
穏やかな家庭崩壊映画NO1
おそらく発達障害のようなものを持つ子どもの目線で送る映画
劇的ではなく穏やかに、時間をかけて蝕むように家庭崩壊していった
ところどころであみ子の周りの人が「うわ、こいつ、、、」みたいな目であみ子を見るのがしんどかった
無関心なお父さんなんて手を出す一歩手前までいってた
けど僕も小学生の頃はあみ子のようなクラスメイトをそういう目で見てた
後半の中学生パートからいよいよ周りから浮いてきて見ていられなかった
中学校は社会に出るロールプレイングみたいな場所だと思う
一人だけ制服のあっていないあみ子はまるで小学生のまま中学校に通ってるようなチグハグさがあった
冒頭の小学生の解像度が高くていい!
友達の名前呼んで「呼んだだけ」
道路で不恰好な側転をしだす とか
幸せなときもあったのよ
家族だからなんでもうまく行くわけじゃない
自分の中に感じる純朴さに涙した
エンドロールに入った直後に涙があふれてきた。
理解できなかったあみ子の言動は、それを理解しようとしなかった私自身で間違いはない。
あみ子自身が誰にも理解されていないことを14歳くらいになってようやく気付き始めたときに、今までそれを理解しようとしかった自分に出会う。この物語は、私自身の物語かもしれない。
頭の中に流れ続けていた「お化けの歌」 父までもあみ子を放棄したことがあみ子のなかでゆっくりと理解されてゆく。
あみ子にとっての謎 それはその通り謎だが、この作品のテーマの象徴でもあるだろう。
このテーマを言葉でうまく説明できない。それは、あみ子にとっては純粋な興味だが、大人になるにつれその「謎」そのものへの興味が同世代たちと乖離していく。
最後にあみ子は朝方まで一睡もできずに、やがてはだしのままスキップしながら海辺まで行く。
目の前に何艘かののボート ボートをこぐ霊たちの姿 彼らはあみ子に手招きしている。
あみ子はただ手を振り返し続ける。
霊たちはやがて、再びボートを漕ぎ始めて去ってゆく。
誰かが道端から声を掛けた。
「おーい、まだ冷たいじゃろ?」
あみ子はその声に振り返りながら大きな声で返事をする。
「大丈夫じゃ!」
そう、あみ子は大丈夫なのだ。もう、何があっても大丈夫なのだ。
あみ子はあみ子のまま生きることをこの世界に向かって宣言したのだろう。
この瞬間、彼女の純朴な精神に打たれてしまった。
この作品は2000年ごろの広島を描いたのだろうか?
「はだしのゲン」という言葉と戦争当時や昭和40年代くらいまでいた元気な男の子の女の子バージョンがあみ子だろうか?
2000年以前まではあまり言われなかった発達障害。
今では何でもすぐに病名を付けられてしまう時代。
あみ子の義母は、最初はあみ子に対して温厚だったものの、死産したことと「弟の墓」なんてものを作ったことで完全にあみ子をシャットアウトしてしまう。
いまでいうネグレクトだろう。食事も作らず、家事もしない。
さて、
兄のコウタはなぜ不良グループの仲間になったのだろう?
コウタは義母がまだ臨月の時すでに10円玉ハゲを作っていた。彼は何らかのストレスを抱えていたと思われる。
その時コウタは「あまり母さんのほくろばかり見るな」という。母に人一倍気を使っているのが伺える。そのストレスがコウタのハゲだったのだろう。
「弟の墓」
これがすべての元凶だったのだろうか? 俯瞰している視聴者からは、あみ子がした行為はそこまで咎めることはできないように思うが、義母が泣き喚いたことでそれが「元凶」とされたのだろうか?
コウタもこれがきっかけであみ子に辛く当たるようになった。
コウタはなぜそこまで変化してしまったのだろう?
あみ子が作る墓には母の墓はないことから、離婚したと考える。
その原因を作ったのは、少なくともコウタの認識ではあみ子だったのかもしれない。
父は最後まであみ子の世話をしていたことから、最初にあみ子から手を引いたのが母だったのだろう。
母を初めて紹介されたときコウタは、「俺のハゲを見ろ。オレはハゲか兄か? お父ちゃんは眼鏡かお父ちゃんか? あの人は母かほくろか?」と尋ねる。
一般の人から見れば奇異に見えてしまうあみ子の言動を何とか修正しようと頑張っていたが、墓の件でコウタの心が折れてしまったのだろう。
あみ子は発達障害なのかもしれない。勝手気ままに学校に来たり来なかったり 勉強もしないし字も書けない。今この瞬間に興味惹かれることだけがあみ子を動かしている。
そして人々はすべてあみ子をおかしな子としてレッテルを貼っている。
兄が暴走族でなかったなら、いじめの対象だった。しかしこの作品のテーマはいじめではない。兄の変化はそのための伏線だったのだろう。
この作品の基本的な視点は「あみ子」 彼女そのものだ。元気で活発で、他人を傷つけたりはしない。
ただ人と同じことができないだけだ。枠に縛られていることができないだけだ。
また、この作品は教育システムや社会システムに問題を投げかけているのでもない。
母がいなくなり、また新しい母がやってきて、弟が生まれる期待。それが妹だったとずっと知らないままでいたのは、「みんな秘密にする いつも 毎日」
そうして、みんなから相手にされなくなってゆく。
「私、気持ち悪かったの? どこが? 教えて、全部」
みんなからそう思われていたことを男子から聞かされたとき、ほんの少しだけ周囲との齟齬があったことを感じ取る。
その男子が「それはワシだけの秘密じゃ」と言ったのは、それを口に出すことが自分自身に返って来ることを悟ったからだろうか。心の底では、誰もあみ子を裁くことなどできないことを知っていたのかもしれない。
男子から教えられた「鷲尾佳典」という漢字 ノリ君の本当の名前 それを忘れまいと心に刻むあみ子。
大切なものがひとつひとつ消えていくのを実感として心に降りてくる。
彼女の心にほんの一瞬触れた男子は、彼女を傷つけるような言葉は間違っても言えなくなってしまったのだろう。
引っ越し 転校 おばあちゃん宅 大きなカエルに大きな蛇 でも、同じ年頃の子供たちは誰もいない。
夜中にしたトランプゲーム やがて父から聞かされる「本当のこと」
あみ子には彼女なりに考えることがあったのだろう。
あの時、
引っ越し直前に兄がやってきて、突然「謎」だった霊の音の正体を暴いて見せた。
「ウォ~リャ~」
鳩の巣と1個の卵を外に放り投げた。
生まれなかった命 その卵はきっと「妹」だったのだ。
木に引っ掛かった卵にはどんな意味があるのだろう?
何かの可能性を示しているのだろうか?
明け方の浜辺で見えたボート
あみ子には霊になるという選択もあった。
でもあみ子は端からそんな選択肢は持たない。
その霊たちを見送るだけ。あみ子の些細な「謎」の根源がゆっくりと昇華されていった。
中学時代までの想い出たち
すべてに別れを告げて彼女は大きな声で言った。
「大丈夫じゃ!」
この訳の分からない作品に心打たれる自分がわからない。
言葉にならない「赦し」のようなものを感じるだけだ。
リアルでいい。
確かにホクロが気になります。
広島で暮らす四人家族。主人公のあみ子は発達障害、多動症なのか?他の子供達とは違う子供。母(尾野真千子)は家で書道を教えている。父も兄も優しく穏やかな家族。母は、妊娠中だったが子供が死産になってしまう。あみ子は思いつくと行動に出す為庭に亡くなった子供の墓を作り母に見せた事で母はおかしくなり徐々に家庭が良くない方向へと進むストーリー。
とてもセンシティブで、衝撃的、切なくて、残酷に描いた映画だが良く表現したなと感じます。
あみ子は、ただ思った事、感じた事を行動にしてしまい相手の気持ちが理解出来ないが故に、周囲の人間も恐怖や不快に感じる。あみ子は、確かに理解もしているし、会話も成立する所から普通の子供と一緒に学ばせるのも理解は出来るが!学校側もあみ子を見て手を差し伸べる事が出来なかったのか?なんて思ってしまう。先生も家庭訪問に来て、母親が病気になっている事は父と話している場面がある。
学校でも、唯一あみ子に一番自然に接する坊主の青年がいたのが、救いでしたね。
兄も、たぶん一番あみ子の理解者じゃないのかな?回想シーンで兄とあみ子が歩きながら、母の事をホクロと言うあみ子にきちんとお母さんで、ハゲは兄、メガネは父親と会話するシーンは心に残りましたね。しかし、不良に走ってしまう。状況を受け止めるには、無理だったんだろうと感じて切なくなってしまう。決して家族は誰一人悪くないのでは?と思う。
あみ子は、裸足が好きで感性が敏感すぎるのでは?きっと本当に霊的な存在も見えていてラストでのシーンであみ子が手を振っているのは、あみ子なりの選択で「大丈夫❗️」と言ったのなら、前向きなラストにもとれました。
全編通して、家族意外の関わりがあまり表現されていないので、社会から孤立している家族である様にも映り社会が冷たくも映ります。そこで手を差し伸べてくれたのが、祖母だった。
あみ子は、これが個性だから仕方ないと一言で片付けられない内容なだけに実際に悩んでいる家族もいるだろう。こういった子供もいると言う大人の理解が必要な社会が確立することなのか?なんて考えさせられる映画でした。
心をえぐられる名作
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