こちらあみ子のレビュー・感想・評価
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ハゲか兄貴か。ホクロかお母さんか。そういうことじゃ。
オレは広島出身だし、舞台はなじみある呉市だから、どうしてもひいき目はあるもんだが、「この世界の片隅に」に並ぶ呉映画の代表作といっていい。
「この世界の片隅に」がオレのおばあちゃんの話であるならば、これは、オレの話であり、オレの娘の話だ。
「こちらあみ子」
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しかし、まあ、情報量の多いこと。これを21日間で撮ったとのこと。ちょっとどうかしているほどにヤバい。スゴイ。原作未読だが、本作を観れば、作り手がどんなに原作を愛し、咀嚼し、腹に落とし込み、作り上げたのかが、滴るように感じる。
オレはこのあみ子を特別な子とは思えないし、ましてや発達障害だという風にも思っていない。あえて言うなら、ノリ君の苗字が分からないところぐらいか。
■見える世界
カメラは基本、「ある視点」で少し距離をとってあみ子を描写する。時にあみ子からの視点となるのは、
・サチコのホクロ
・同級生の小坊主
の2点。
お父さんの新しい奥さんになるサチコをホクロオバケというあみ子にコウタは自分のハゲをみせ、わしははげか、兄ちゃんか?と尋ねる。あみ子は兄ちゃんだと答え、コウタは「そういうことじゃ」と返し、あみ子はへたくそなスキップで「お母さん♪」と喜ぶ。
実際にサチコと生活すると、ホクロばかり見てしまうあみ子。
しかし、臨月のサチコが病院から帰ってくるのを、猛暑の中、外で待つあみ子。そのあみ子をみて、「びっしょりじゃね」とサチコはあみ子の顔、頬を手で愛おしく(一方で執拗に)汗をぬぐう。この時にあみ子から見るホクロはなぜか小さくなっている。
ここで初めてあみ子から見て、ホクロオバケではなく、お母さんになったのだろう。
しかし、実は死産という結果で、あみ子の家庭は崩れていく。(オレはこの死産の理由が、サチコの崩れようからして、ちょっとイヤな想像をしているが、ここでははっきりと描かれていない)
もう一点、同級生の小坊主との会話。小坊主のある言葉を境に、風向きが変わる。(本当にカーテンの揺らぎが変わる!)そこから小坊主はあみ子からの視点となる。
子供は残酷だとか、無垢だとか、発育障害だとか、親からして、人間からして、そういうことではなく、向き合うきっかけは誰にだって必要だ。
この2点はあみ子の視点。そして大体を占める「ある視点」だが、これはラストとエンドクレジットでわかる。
「おーい、水はまだ冷たいじゃろ」と問いかける声は、エンドクレジットでトランシーバーが横に書かれた監督、いや監督だけでなく、オレらの声なのだ。
「大丈夫じゃ」と答えるあみ子。
「ある視点」とは監督のこの作品への誠実さの表れであり、またオレらの誠実なまなざしでなければいけない。
■予兆
落ちてこないミカンは、その後の誕生日の食事の悲しい出来事の予兆。
とうもろこしのビシャビシャは破水の予兆。
テレビで流れる「フランケンシュタイン」は「ミツバチのささやき」のオマージュと、そこから聞こえる悲鳴は、病院にいるサチコの悲鳴。
保健室でのチャイムの音の音程がズレるのは、その後の悲しい出来事の予兆。
玄関のすりガラスは不安を感じさせ、玄関からところどころ物語が展開する。
■お気に入り
あみ子が霊の音を感じ始めるところはちょっと「エクソシスト」を思い出し、家の階段もちょっと「エクソシスト」を感じさせるんだよね。だけどそれはホラー的な見せ方ではなくって、あくまで作り手が映画好きってことだろう。(サチコの伏せた髪はさすがに貞子ではないだろう)
ノリ君の腹キックを不謹慎に笑ってしまったり、保健室の先生役播田美保が妙に怪演で笑ってしまった。
追記
ちょいちょい挟む小動物
「僕らはみんな生きている」
そういうことじゃ。
文字から映像へ、あみ子のしあわせな跳躍
たまたま、まわりの人たちと原作本を回し読みししており、「そういえばこの本、映画になるらしいよ」と話題にしていた。イメージどおりの女の子のちらしや予告を目にして「わー、楽しみ!」と盛り上がりながらも、「いったい、どんな映画になっているんだろう…という不安というか、怖いもの見たさのような気持ちも、むくむくと膨らんでいた。
小学5年生のあみ子は、(傍目からは)自由気ままに生き、枠からはみ出しまくっている。同級生・のりくんを好きでたまらないあみ子が、こっそりと「赤い部屋(母の書道教室)」を覗き見ているように、読者もこっそりと、あみ子の真っ直ぐではちゃめちゃな言動を覗き見ている…気持ちになる。(ぼとぼとと汗がしたたり落ちるシーンでは、読み手の立場を忘れて「見つかった!」と叫びそうになった。)でも、映画はそうはいかない。暗闇の中とはいえ、無数の見知らぬ人たちと時間と場所を共有し、あみ子の物語を追うことになる。想像すると、自分が覗き見されているようで、何ともむずがゆい気持ちになった。
さて、本編。早速あみ子は、スクリーンの端から端をめいっぱい動き回る。教室が並ぶ校舎や川沿いの通学路を遠景で捉えた、ヨコ移動の繰り返しが印象的だ。粒のように小さくても、あみ子の生き生きした存在感は群を抜いている。「とても見ちゃおれない」と思っていた覗き見のシーンも、のりくんへの2度の告白も、不思議な明るさと力強さに満ちていて、文字から映像が立ち上がる瞬間を存分に味わえた。のぞき穴に閉じ込められていたあみ子が、スクリーンという広い活躍の場を与えられたのは、大正解・大成功だったのだ。
「弟」の誕生を控えた10歳の誕生日をピークに、あみ子の家はゆっくりと壊れていく。母は(ホラー映画さながらに)乱れた髪をテーブルに投げ出して反応しなくなり、兄はライオンのような髪をなびかせながらバイクで轟音を撒き散らす。そして成すすべのない父は、その日暮らしがやっととなる。けれども、あみ子の中では、彼らは何も変わっていない。(自分にきょうだいがいないからかもしれないが、)特に兄との関わりには、心打たれるものがあった。ベランダからの「霊の音」に日々悩まされ、追い詰められるあみ子を唐突に救ったのは、幼いころにグミの実を跳び上がって取ってくれた兄。(絶妙なコントロール!)幼いあみ子の好物を書き留めていた母も、あみ子との生活をつなぎ止めてくれた父も、それぞれにあみ子と繋がっている。
冒頭と同様に、画面いっぱいの道をひとりで歩いてきたあみ子は、広々とした海に出る。そして「あるもの」たちに大きく手を振る。映画ならではのラストと、エンドロールに寄り添う音楽の余韻が、じんわりと心にしみた。
帰り道、「えー、何かわかんなかった!」と小5男子は頭を抱えていたが、「好きやー」「殺す!」、「好きやー」「殺す!」の告白シーンの再現は、やたら面白がっていた。自分も、何かにあれほど情熱を傾けてみたい。そしてもし、子がそんな告白を誰かにしたら/されたら、本当にうらやましい、と心から思う。
ホントに演技未経験?
少し風変わりな少女と、それを取り巻くみんなのお話。
お話自体は淡々と日常が描かれ、おおきなアップダウンがあるわけではありませんが、時折挟まれる長尺のワンカットシーンには思わず目を奪われました。
演技未経験の子役にあそこまでの長回しとは凄いですね。
もしかすると台本は最低限で、自由にしていいよと言われていたのかな?と思うほどです。
青葉市子の音楽が素晴らしい
原作既読。
原作のストーリーはもちろん、雰囲気もかなり忠実に描かれている。
よって個人的な感想としては原作を読んでの感想とおなじである。
「こういう子いるな」「こういう子の見ている世界ってきっとこんな感じなのだろう」と納得。
テンポもよく演者も上手い。
主演の子の眼差しはあみこの純粋さと持て余すほどのエネルギーを映し出しているし、
井浦新・尾野真千子夫妻も安定の上手さである。
(森井勇佑監督はこれが初監督作品とのことだが、よくこの二人をキャスティングできたと思う。二人が今作が初共演というのも意外だ)
が、特に感動したりすることはない。
自分にとっては既定路線という感じだった。
つまらなくもないが面白くもない。多分世界観が自分に馴染みすぎているのだと思う。
しかしながら、音楽はかなり良い。
ちょっとしたシーンの音楽からして良いのだが、
お化けの歌が主人公のイマジネーションと共に
フルサイズ(?)で流れるシーンの曲の展開は目(耳)を見張るものがある。
「これは凄い!」とおもって最後のクレジットをみたらなんと青葉市子であった。
彼女の楽曲は結構好きだが、劇伴までするとは知らなかった。
普段のライブなどで見せる以上に高く深い音楽性と技術があるのだと驚いた。
ちなみに本当は河合優実さんが惚れ込んだという「あみこ」と間違って鑑賞した・・・。
穏やかな家庭崩壊映画NO1
おそらく発達障害のようなものを持つ子どもの目線で送る映画
劇的ではなく穏やかに、時間をかけて蝕むように家庭崩壊していった
ところどころであみ子の周りの人が「うわ、こいつ、、、」みたいな目であみ子を見るのがしんどかった
無関心なお父さんなんて手を出す一歩手前までいってた
けど僕も小学生の頃はあみ子のようなクラスメイトをそういう目で見てた
後半の中学生パートからいよいよ周りから浮いてきて見ていられなかった
中学校は社会に出るロールプレイングみたいな場所だと思う
一人だけ制服のあっていないあみ子はまるで小学生のまま中学校に通ってるようなチグハグさがあった
冒頭の小学生の解像度が高くていい!
友達の名前呼んで「呼んだだけ」
道路で不恰好な側転をしだす とか
幸せなときもあったのよ
グレーゾーンってやつだろうか。
息子が小学校でグレーゾーンぽい男児に困らされてるもんで
自分的には変な感じでタイムリーな作品だった。
人を傷つけないあみ子はなんて良い子だろうと。
ただ周りの人の苦労は大きいと思う。
「弟の墓」なんて見てるこっちがゾッとするし
食事の態度とか、あれやられたらイラつくだろうなと。
ただただ怠慢な父親にもイラつきながら
「幸せなときもあったのよ」なんて、どこかで聞いたセリフが頭から離れなかった。
家族だからなんでもうまく行くわけじゃない
悪意があるわけじゃなくても歯車がうまく回らずゆっくり家族が崩壊していく様子が悲しいはずなのに、あみこ視点で描いているからか、瀬戸内海の綺麗な景色のせいか、あまり暗くならずに淡々と話が続く。
父親がもう少しどうにかしていれば、、という見方もあるが、何ともならなかった気がする。
手招きには応じず残ったあみこ、いつか家族がまた揃う日がくるとといいね。
自分の中に感じる純朴さに涙した
エンドロールに入った直後に涙があふれてきた。
理解できなかったあみ子の言動は、それを理解しようとしなかった私自身で間違いはない。
あみ子自身が誰にも理解されていないことを14歳くらいになってようやく気付き始めたときに、今までそれを理解しようとしかった自分に出会う。この物語は、私自身の物語かもしれない。
頭の中に流れ続けていた「お化けの歌」 父までもあみ子を放棄したことがあみ子のなかでゆっくりと理解されてゆく。
あみ子にとっての謎 それはその通り謎だが、この作品のテーマの象徴でもあるだろう。
このテーマを言葉でうまく説明できない。それは、あみ子にとっては純粋な興味だが、大人になるにつれその「謎」そのものへの興味が同世代たちと乖離していく。
最後にあみ子は朝方まで一睡もできずに、やがてはだしのままスキップしながら海辺まで行く。
目の前に何艘かののボート ボートをこぐ霊たちの姿 彼らはあみ子に手招きしている。
あみ子はただ手を振り返し続ける。
霊たちはやがて、再びボートを漕ぎ始めて去ってゆく。
誰かが道端から声を掛けた。
「おーい、まだ冷たいじゃろ?」
あみ子はその声に振り返りながら大きな声で返事をする。
「大丈夫じゃ!」
そう、あみ子は大丈夫なのだ。もう、何があっても大丈夫なのだ。
あみ子はあみ子のまま生きることをこの世界に向かって宣言したのだろう。
この瞬間、彼女の純朴な精神に打たれてしまった。
この作品は2000年ごろの広島を描いたのだろうか?
「はだしのゲン」という言葉と戦争当時や昭和40年代くらいまでいた元気な男の子の女の子バージョンがあみ子だろうか?
2000年以前まではあまり言われなかった発達障害。
今では何でもすぐに病名を付けられてしまう時代。
あみ子の義母は、最初はあみ子に対して温厚だったものの、死産したことと「弟の墓」なんてものを作ったことで完全にあみ子をシャットアウトしてしまう。
いまでいうネグレクトだろう。食事も作らず、家事もしない。
さて、
兄のコウタはなぜ不良グループの仲間になったのだろう?
コウタは義母がまだ臨月の時すでに10円玉ハゲを作っていた。彼は何らかのストレスを抱えていたと思われる。
その時コウタは「あまり母さんのほくろばかり見るな」という。母に人一倍気を使っているのが伺える。そのストレスがコウタのハゲだったのだろう。
「弟の墓」
これがすべての元凶だったのだろうか? 俯瞰している視聴者からは、あみ子がした行為はそこまで咎めることはできないように思うが、義母が泣き喚いたことでそれが「元凶」とされたのだろうか?
コウタもこれがきっかけであみ子に辛く当たるようになった。
コウタはなぜそこまで変化してしまったのだろう?
あみ子が作る墓には母の墓はないことから、離婚したと考える。
その原因を作ったのは、少なくともコウタの認識ではあみ子だったのかもしれない。
父は最後まであみ子の世話をしていたことから、最初にあみ子から手を引いたのが母だったのだろう。
母を初めて紹介されたときコウタは、「俺のハゲを見ろ。オレはハゲか兄か? お父ちゃんは眼鏡かお父ちゃんか? あの人は母かほくろか?」と尋ねる。
一般の人から見れば奇異に見えてしまうあみ子の言動を何とか修正しようと頑張っていたが、墓の件でコウタの心が折れてしまったのだろう。
あみ子は発達障害なのかもしれない。勝手気ままに学校に来たり来なかったり 勉強もしないし字も書けない。今この瞬間に興味惹かれることだけがあみ子を動かしている。
そして人々はすべてあみ子をおかしな子としてレッテルを貼っている。
兄が暴走族でなかったなら、いじめの対象だった。しかしこの作品のテーマはいじめではない。兄の変化はそのための伏線だったのだろう。
この作品の基本的な視点は「あみ子」 彼女そのものだ。元気で活発で、他人を傷つけたりはしない。
ただ人と同じことができないだけだ。枠に縛られていることができないだけだ。
また、この作品は教育システムや社会システムに問題を投げかけているのでもない。
母がいなくなり、また新しい母がやってきて、弟が生まれる期待。それが妹だったとずっと知らないままでいたのは、「みんな秘密にする いつも 毎日」
そうして、みんなから相手にされなくなってゆく。
「私、気持ち悪かったの? どこが? 教えて、全部」
みんなからそう思われていたことを男子から聞かされたとき、ほんの少しだけ周囲との齟齬があったことを感じ取る。
その男子が「それはワシだけの秘密じゃ」と言ったのは、それを口に出すことが自分自身に返って来ることを悟ったからだろうか。心の底では、誰もあみ子を裁くことなどできないことを知っていたのかもしれない。
男子から教えられた「鷲尾佳典」という漢字 ノリ君の本当の名前 それを忘れまいと心に刻むあみ子。
大切なものがひとつひとつ消えていくのを実感として心に降りてくる。
彼女の心にほんの一瞬触れた男子は、彼女を傷つけるような言葉は間違っても言えなくなってしまったのだろう。
引っ越し 転校 おばあちゃん宅 大きなカエルに大きな蛇 でも、同じ年頃の子供たちは誰もいない。
夜中にしたトランプゲーム やがて父から聞かされる「本当のこと」
あみ子には彼女なりに考えることがあったのだろう。
あの時、
引っ越し直前に兄がやってきて、突然「謎」だった霊の音の正体を暴いて見せた。
「ウォ~リャ~」
鳩の巣と1個の卵を外に放り投げた。
生まれなかった命 その卵はきっと「妹」だったのだ。
木に引っ掛かった卵にはどんな意味があるのだろう?
何かの可能性を示しているのだろうか?
明け方の浜辺で見えたボート
あみ子には霊になるという選択もあった。
でもあみ子は端からそんな選択肢は持たない。
その霊たちを見送るだけ。あみ子の些細な「謎」の根源がゆっくりと昇華されていった。
中学時代までの想い出たち
すべてに別れを告げて彼女は大きな声で言った。
「大丈夫じゃ!」
この訳の分からない作品に心打たれる自分がわからない。
言葉にならない「赦し」のようなものを感じるだけだ。
リアルでいい。
発達障害の子を理解しよう、見守ろう、という感じや、他で一発凄い能力あります、みたいな事ではないのは、これはリアリティがあってよい。
身内がどんどん傷ついていき、周りからはいじめられ、それでもどうとも思わないというようなことを表現するのは難しいと思うが、よくできてました。
確かにホクロが気になります。
広島で暮らす四人家族。主人公のあみ子は発達障害、多動症なのか?他の子供達とは違う子供。母(尾野真千子)は家で書道を教えている。父も兄も優しく穏やかな家族。母は、妊娠中だったが子供が死産になってしまう。あみ子は思いつくと行動に出す為庭に亡くなった子供の墓を作り母に見せた事で母はおかしくなり徐々に家庭が良くない方向へと進むストーリー。
とてもセンシティブで、衝撃的、切なくて、残酷に描いた映画だが良く表現したなと感じます。
あみ子は、ただ思った事、感じた事を行動にしてしまい相手の気持ちが理解出来ないが故に、周囲の人間も恐怖や不快に感じる。あみ子は、確かに理解もしているし、会話も成立する所から普通の子供と一緒に学ばせるのも理解は出来るが!学校側もあみ子を見て手を差し伸べる事が出来なかったのか?なんて思ってしまう。先生も家庭訪問に来て、母親が病気になっている事は父と話している場面がある。
学校でも、唯一あみ子に一番自然に接する坊主の青年がいたのが、救いでしたね。
兄も、たぶん一番あみ子の理解者じゃないのかな?回想シーンで兄とあみ子が歩きながら、母の事をホクロと言うあみ子にきちんとお母さんで、ハゲは兄、メガネは父親と会話するシーンは心に残りましたね。しかし、不良に走ってしまう。状況を受け止めるには、無理だったんだろうと感じて切なくなってしまう。決して家族は誰一人悪くないのでは?と思う。
あみ子は、裸足が好きで感性が敏感すぎるのでは?きっと本当に霊的な存在も見えていてラストでのシーンであみ子が手を振っているのは、あみ子なりの選択で「大丈夫❗️」と言ったのなら、前向きなラストにもとれました。
全編通して、家族意外の関わりがあまり表現されていないので、社会から孤立している家族である様にも映り社会が冷たくも映ります。そこで手を差し伸べてくれたのが、祖母だった。
あみ子は、これが個性だから仕方ないと一言で片付けられない内容なだけに実際に悩んでいる家族もいるだろう。こういった子供もいると言う大人の理解が必要な社会が確立することなのか?なんて考えさせられる映画でした。
心をえぐられる名作
発達障害と思われる主人公の女の子・あみ子。
彼女は純心すぎるまっすぐな心を持ち、まっすぐに生きていく。
しかし、「あみ子から見た世界」と「世界から見たあみ子」はあまりにも違いすぎ、彼女の周りが少しづつ崩壊していく…。
素晴らしい映画でしたが自分にとってはあまりにも辛すぎて心がえぐられましたので☆5から☆-1.5をえぐりました。
ですが、何度も見返すといろいろな発見がある素晴らしい映画です。
大沢一菜の演技力!
発達障害のあみ子自身に変化はないが、環境と周囲の態度が変化していく。あみ子にはそれがわからない。
あみ子のことを純粋ととり、周囲が温かく見ていく必要がある。これが社会の模範解答ではあるが、現実は容赦ない。
この映画を言葉で説明するのは簡単じゃない。 この小説を読んだり、 この映画を見たりしてほしいと思う。
動画配信で映画「こちらあみ子」を見た。
2022年製作/104分/G/日本
配給:アークエンタテインメント
劇場公開日:2022年7月8日
大沢一菜
井浦新
尾野真千子
奥村天晴
大関悠士
橘高亨牧
幡田美保
黒木詔子
一木良彦
映画「星の子」を見て原作者、今村夏子の别の作品も見たくなった。
見てみるとこれは「星の子」とはまったく違う映画だなと感じた。
しかし、よく考えてみると子供が主人公で、
舞台は学校と家庭という点は同じだなと思った。
広島県に住むあみ子は変わった子どもだった。
自分の感情にまっすぐで、
他人の気持ちを気にしない。
あみ子の同級生であるのり君が、
お母さんから「孝太君の妹は変な子じゃけどいじめたりしちゃいけんよって。なんか変なことしようとしたら注意してあげるんよ」と言われている。
父親と母親(井浦新、尾野真千子)とお兄ちゃんはあみ子に優しい。
あみ子の日常を淡々と描く。
ある時お兄ちゃんが唐突に不良化した。
タバコを吸う。
暴走族に入る。
家に帰らなくなる。
父親は全く注意しない。
母親も注意しない。
あみ子は小学校でも中学校でも変わらず同じような生活を続けていた。
ある日保健室で事件が起こる。
大好きなのり君に殴られてあみ子は鼻を骨折する大怪我を追う。
自宅に帰ると父親に言われる。
「あみ子、引っ越ししようか」
父親と一緒に祖母の家に引っ越しした。
数日たった日、父親に言われる、
「お父さんは家に帰らなければいけんのよ」
あみ子は祖母の家に置き去りにされた。
これは障害を持った子供の話だった。
あみ子の同級生の坊主頭(橘高亨牧)が毒舌ながらもあみ子に優しかったのは印象的だった。
この映画を言葉で説明するのは簡単じゃない。
この小説を読んだり、
この映画を見たりしてほしいと思う。
満足度は5点満点で4点☆☆☆☆です。
あみ子からのメッセージ
観ていて何だか苦しくなった。
あみ子には、
言っても分からないかもしれないが、
言わないと関係は変わらない。
あみ子は多分変わらないから、
周りの人が変わるしかないのかな。
難しいけど。
あみ子への伝え方はお兄ちゃんの
ホクロかお母さんかの例えが良かった。
あみ子が引っ越す前に級友の男の子に
自分の変なところを一から教えてと
言ったけど、その男の子が
秘密と言って言わなかったのは
優しさからだけれども。
しんど過ぎたのと、なぜ作ったのかが全く理解できなかった
予告やいろんな媒体の宣伝、ネタバレに警戒し高評価のレビュー内容は確認せずポイントだけを見て鑑賞したところ、予想外の作品だったので面食らいました
ADHDの方々とそのご家族・周囲の方々のご苦労は他人には理解できないほどの心底計り知れないものがあると思っていますので、容易く手をかけるべきではないテーマだと思いました
本作を高評価する寛容な気持ちにはとてもなれず、むしろこういうのをフィクションの映画で作る意図が全く理解できないな、という一言が私の感想です
昨年「福田村事件」「月」など実話の映像化作品を観て震える思いをし、その事を残す偉業に挑んだ作り手へ敬意を感じ素晴らしいと思いましたが、本作はそれらとは全く次元の違う事だと思いました
久々にずんと重たかった一本
<映画のことば>
ちゃんと宿題をして、毎日学校にも行って、先生の言うこともちゃんと聞けるんなら(お習字を)やってもいいですよ。できますか。
授業中に歌を歌ったり、机に落書きしたりしてませんか。ボクシングも、はだしのゲンも、インド人も、もうしないと約束できますか。できるんですか。できますか。
さゆりさん(お母さん)から、矢継ぎ早に厳しく問い詰められた時の、なんとも言えない、あみ子の表情が、評論子には印象的でした。
題名にも関わってきますが、本作では、トランシーバー(あみ子への誕生日のプレゼントとして両親から贈られた)も、大切な意味を持っていると思います。評論子は。
もちろん、トランシーバーは通信機器なのですけれども、言い直せば、それは離れている「こちら側」(自分)から「向こう側」(通信の相手側)に繋がるもの。
自分自身でしっかりと持っている、あみ子の世界から、物理的にはつながっていても心理的にはそれとは完全に隔絶されている他外界(他者の世界)とを繋ぐモチーフとなっていたように思われます。
反対に言えば、そういう手段だけで外界と繋がっている、あみ子の閉塞的な世界を象徴するものなのだと思います。評論子には。
久しぶりに、観終わって「ずんと重たい」一本を引き当ててしまったというのが、偽らざる実感です、評論子としては。
反面、秀作としての評価に値する一本でもあったと思います。評論子は。
(追記)
たぶん、あみ子ちゃんは、いわゆる「ピンク色のゾウ」を探すタイプの子だったのだろうと思います。
ゾウは、普通はゾウの色をしているのですけれども。
しかし、自分のアタマで独創的にものを考える子は、皆とは違う発想で、皆とは違うことを発想するようです。
(ネットで引くと、また違う意味が多く出てきてしまうのですが、「サレジオ学院」という学校のWebページには、評論子の言う意味が出てくるようです。)
今の学校教育は、そういう独創的な子を排除するので、たぶん、あみ子ちゃんにとっても、学校は、決して居心地の良いところではなかったことでしょう。
文部科学省(旧文部省)が決めた学習指導要領のとおりにものを教えなければならない先生方にとっては、本当に「扱いにくい子」だった筈ですから。
加えて、そういう環境下で教育を受けた他の子どもたちも、長じて大人になると、今度は社会の中で、あみ子のような子を「変わった子」「変な子」と見てしまう―。
そういう負の循環(矛盾の拡大生産)が、早く断ち切れて欲しいと思っているのは、独り、評論子だけではないことと、信じたいところです。
(追々記)
哲郎があみ子を実家に置き去りにして(あえて、置き去りといいます)、ひとり夜道をクルマを運転して自宅に帰る道すがら、彼の心中は、どんなものだったのでしょうか。
男手だけで、生活のために仕事を続けながら、家事と育児とをこなしてあみ子を育てる決心ができなかったことを責めることはできないと、評論子も思います。きっと胸が潰れるような思いだったことは、疑いがないと思います。
反面、実は、評論子は安堵も感じてしまっていました。
大学生の頃から、自分で食べるものは自分で作っていたという「経験」かあった評論子は、彼と同じような選択は、することをせずに切り抜けてくることができたからでした。
同時に、そういう経験がもしなかったとしたら、彼のした選択を、評論子は、責めることができないとも思います。
いずれにしても、走り去る父(哲郎)のクルマを見ながら、あみ子の胸も潰れそうに痛んだことは、疑いようもなかったことと、評論子は信じています。
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