「『発達停滞大和民族』 こんな家族なら絆なんか要らない」こちらあみ子 マサシさんの映画レビュー(感想・評価)
『発達停滞大和民族』 こんな家族なら絆なんか要らない
彼女の心の中を、ファンタジーなシーンで描くが、健常者(?)としての偏見があるようでならない。きちんとこの少女の話を聞いたのだろうか。繰り返す、この社会から浮いた異常な少女(?)として、健常者(?)からは見える。それは仕方ないのか?そして、我々は本当に健常者なのか?
そもそも、彼女の視点で描くからには、正確な彼女の心理を描かぬば、彼女を描いた事にはならない。
つまり、
『絆を大事にする日本人』と言うからには、この映画の世界が、どうしょうもない社会であると理解しなければ駄目だ。なぜなら、『ストーリーの流れの矛盾』を利用して、デフォルメした誰にでも分かる様な設定にしてあるからだ。
・異常な放任主義
・異常な母親
・男子生徒のドメスティック
・知性の欠片すら無い夫
・子供達に無関心な学校教育
・噂だけが飛び交う村社会
大和民族はこう言った社会が『普通』なのだろうか。
それと比べて、少女のどこが変わっているのだろうか?普通に驚き、普通に親の愛を求め、順調に道徳心を育み、健気なまでに家族愛を求めようとしている。第2成長期のはずなのにその片鱗すらない。
勿論、家族が崩壊したり、流産がこの少女とは無関係なのは自明の理。最初から家族が壊れているのも、誰でも分かるはずだ。
大変に重要な事は、この演出家自身が、この主人公を分かっていない。若しくはに分かってあげようとしていない事なのではないだろうか?
強調して、もう一度言う。変わっているのはこの少女ではない。見ている者も含めた我々なのである。
原作者がこの少女の心を持った方なのかどうかは分からない。しかし、原作のテーマもそこにある。残念ながら、原作は読んでいない。また、映画は原作のテーマを理解しているかもしれない。しかし、充分な表現になっていない。そんな大変に残念な映画と評価せざるをえない。原作は大変に良いとは思う。だから、それを映画化するからにはきちんと原作者なは意見してもらいたい。
あの『ティファニーで朝食を』を映画化した時にトルーマン・カポーティは、主演をオードリー・ヘプバーンにした事と、結末を大いに批判した。社会はそのくらいの権限を原作者には与えるべきだ。考え方まで愛の無いAI化している。『発達停滞大和民族』だぜ♥