スーパーノヴァのレビュー・感想・評価
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愛することは寂しいこと
最初から最後まで愛に溢れていて、最初から最後までずっと寂しかった。
終始ティッシュが手放せない状態でしたが、ちょっとひねくれてるタスカーが目に涙を浮かべてるところにグッと来たかな。向き合ってお互いの気持ちを吐露し合うところも。
長年連れ添っているだけあって、お互いみなまで言わずともわかってしまう部分も多いだけに、直接話すことでそれが現実味を帯びていくのは少し怖いくらいでした。
ラストをどう読み取るのか……という感じですが、サムがピアノを弾いているのがリサイタルなのかどうか判断がつかない部分や、ラストとは反対にオープニングでの映像、そして「スーパーノヴァ」というタイトルから考えれば、二人が下した決断は理解できるのではないでしょうか。
それも観た人次第だと思いますが……
なぜこのタイトルを付けたのか。
《天文》超新星◆新星(nova)より大規模な激変星。大質量の恒星が一生の最後に一気に収縮して大爆発を起こす<中略>放出されるエネルギーはすさまじく、太陽が一生の間に放出するエネルギーに匹敵するとされる。また超新星爆発によって水素より重い元素が作られ、宇宙に放出される。
発音sùːpərnóuvə、カナ スーパーノウヴァ、分節super・no・va
だそうです。劇中でタスカ―が女の子にお話しするシーン。秀逸です。
冒頭の暗転から、静かなピアノの単音にストリングスが重なり、ほんの小さな白い点が表れる。
その白い点が少しずつ増えていき、天体だと分かる。真ん中にある小さな白い星が少しずつ少しずつ大きくなる。しかしそれは画面全体からすると、とても小さい。気づくか気づかないか。それがゆっくりと周りにある星より大きくなったかなと思ったところで消えてなくなる。
冒頭からここまで、約2分。
スーパーノヴァという言葉が持つ強さからみれば、
とてもとても静かで長い時間をかけたオープニング。
そして、この静かなスーパーノヴァこそがこの映画を
見事に表している。
ストーリーは実に地味。
ゲイのじいさん二人のロードムービー。
しかし、その地味な旅路の会話やしぐさ、エピソードなど
長い年月をかけ培ったであろう2人の絆が
なんとも素晴らしい。さすが名優。
病気を宣告されてから
君に迷惑をかけてまで生きていられない。
僕の看病のためにピアノを手放すなど耐えられない。
それならば僕は喜んで命を捨てる。
いや、
君といつまでもいることこそが僕の生きがい。
君がいない人生など耐えられない。
それならば僕は喜んでピアノの才能を捨てる。
慈愛に満ちた、激しい感情のぶつかりあい。
そしてラスト。
ピアノの演奏曲エルガーの「愛の挨拶」。
いま一緒にいる人を生涯大切にしたいと
とても強く胸に響いた。
【”ずっと一緒だ”と彼は言った。人はいつか必ず、地に戻り星になる。けれども、その時に愛した人が傍に居てくれたら、これ以上の幸せは無いと思った作品。観る側に深い余韻を残す、哀しくも美しき作品でもある。】
ー ピアニストのサム(コリン・ファース)と作家のタスカー(スタンリー・トゥッチ)は、ユーモアと文化をこよなく愛する20年来のパートナー。
だが、タスカーが抱えた病が、かけがえのない2人の思い出と、添い遂げるはずの未来を消し去ろうとしていた。
大切な愛のため、それぞれが決めた覚悟とは…。(フライヤーより)ー
◆感想
・フライヤーを読むと、コリン・ファースとスタンリー・トゥッチは、20年来の友だそうである。
ピアニストのサムと作家のタスカーが、キャンピングカーで旅に出た際の社内でのユニークで楽しそうな遣り取りからは実際に友人である事が、何となく伺える。
- 名優二人の最初は楽し気な、そして終盤に向けて哀しみ溢れる様に変化する二人の演技が、素晴らしい。-
・タスカーが抱えた病(認知症)が徐々に進行していく様が、ワンショットで描かれる。
それに気づくサムだが、彼は敢えてそれに触れない。
- サムが社内で見つけた“ペントバルビタール経口液”の瓶。鎮静睡眠剤だが、過剰摂取すると死に至るクスリである。あの量は、充分に致死量を越えている。驚きと悲しみの表情を浮かべるサム。
更に、別のシーンでは、サムは作家のタスカーの草稿を盗み読む。最初は整然と書かれていた文章が徐々に乱れて行き、最後は単語になっている草稿を読んだ時のサムの哀し気な表情。そして、サム、サム、サムと綴られた紙を見つめるサムの表情。ー
・サムの姉の家に寄ったサムとタスカー。サムの姉の家族から歓待され、翌日はサプライズパーティが行われるシーン。
タスカーが書いたスピーチ。彼が病ゆえに読めなくなり、サムが変わって原稿を読む。そこに掛かれていたタスカ―が皆への感謝を伝える言葉。そして、サムへの深い感謝の言葉。
- 外に出て、美しい星空を見上げながらタスカ―がサムの姉の娘に語り掛ける言葉。
”星は死ぬ前に、最も光るんだよ・・”-
<イギリスの湖水地方の美しき風景も趣を与える作品。
ラスト、新居のベッドで寝ているタスカー。階下から聞こえて来るピアノ曲。
階段の手すりを掴みながら降りていくタスカーが見たピアノを奏でる、サムの姿。
木製の机の上にある木箱がクローズアップされる・・。
そして、画は暗転し、盛装したサムがピアノを独り弾くシーンが描かれ、終幕する。
観る側に余韻を残す、哀しくも美しき作品である。>
パートナーを襲った予期せぬ病(超新星爆発)が二人の関係に新しい光(超新星=supernova)を灯らせる愛の物語。幾つになっても新しい星は輝くのだ。
①コリン・ファースは『シングルマン』で、パートナーを突然失くした中年のゲイの喪失感・絶望感とそこからの蘇生を見事に演じ上げて見せた。本作では認知症を発症した長年のパートナーに最後まで寄り添いたいと願いつつ本当にやり遂げられるのか自信を持てない葛藤を内に秘めたまま(もしかしたら最後になるかも知れない)二人だけの旅に出た初老のゲイの苦悩をほぼ内面演技だけで表現する。接写(流石に老けてきた。私と同い年だが、やはり西洋人は老けるのが早いのか)が多いが目の表情、顔の表情のみで内面の感情が手に取るように伝わってくる。②スタンリー・トィッチのスターキーも難役だ。いずれ近いうちに自分のことは勿論愛するサムの顔も名前も忘れてしまうことになる恐怖を抱えながら軽口を叩き明るく振る舞う。しかし心の奥では、自分がまだ自分であるうちに、サムに変わり果てた自分を見せる前に、この旅の間に全てを終わりにしようと、命を断つことを密かに考えている。③相手を愛するがゆえにすれ違う二人のやがてくる未来への選択の違い。そして長い付き合いだからこそ二人とも相手の考えは口には出さずとも察している。サムの姉の家でのパーティーの間にスターキーが考えていたことの確たる証拠を見つけてしまったサム。翌日二人は初めてお互いの考え・想い・選択をぶつけ合い大喧嘩する(超新星爆発だ)。④
差別や偏見のない理想の世界、幸せな終末。
主演二人の静かな眼差し、ウィットに富んだ会話、心吸い込まれるような湖水地方の風景、どこまでも広がる星空の中、一瞬の煌めきを放ち消えてゆく星。繊細で静謐な描写に浸る幸せを感じさせてくれる良作です。
最も心打たれるのは、ゲイカップルである主人公達をごくごく自然に受け入れ、包み込み、愛し労る周囲の人々の態度。
サムの姪がタスカーから「スーパーノヴァ」の話を聴く場面では、物語の核心とも言える話の内容はもとより、「叔父の男の恋人」という(少なくとも今の日本では)特殊な存在に懐き、尊敬の念すら抱いているような姪っ子ちゃんの眼差しにやられました。
差別や偏見のない、理想の世界がここにあります。
基本的には異性カップルでも成り立つ愛の物語ですが、「子ども」という未来に繋がる存在が介在しない分、今という刹那を慈しみながら生きる二人の姿が心に沁みます。
サムと周囲の人々の愛に包まれて旅立ったタスカーも、彼との愛を胸に生きてゆくサムも、満ち足りた幸せな人生と言えるでしょう。
独り者としては羨ましい限りですが、コリンのお尻を冒頭で拝めた眼福を反芻しつつ(美しい風景より結局これか 笑)生きていきたいと思います。
自分ならどうするか
終始ドラマって感じで多少の効果音以外は湖水地方の美しい風景と渋い男性俳優2人の演技しかない。
長年連れ添ったパートナーが認知症で徐々に自分自身を失っていくのに直面し、彼からの提案でキャンピングカーで旅に出る。認知症に罹っているのは作家タッカー、そのパートナーのサムはピアニスト。お互いこの旅行に思惑を持っていそうな雰囲気が漂う。夫がアルツハイマー、妻が末期ガンのロードムービー「ロング、ロングバケーション」に少し似てるが、こちらは片方は見送るだけの立場でかつ、同性カップル。同性カップルならではの要素はないが、同性だからこその悲しみが伝わってくる。
最後、薬の入った箱を前に、サムが「ずっと一緒だ」と言ったので、こっちも2人で逝っちゃうのかと思ったが、ラストはピアノのリサイタルで終わったので、その選択は取られなかったのだろう。お姉さんの家であれだけ多くの友人に囲まれたのだから、その選択で良かった。
観た人みんなが、自分がサムなら、タスカーならどうするか、考えさせられる作品。
コリン・ファース、最初に見た「アナザーカントリー」は1985年頃?35年以上前か、美青年だったけど今回は優しいクマさんみたいだった。
難しいなぁ...
「愛しているなら許して欲しい…」って
いちばん難しいやつ。
「ブラックバード」だったり、「痛くない死に方」だったり…
自分の選択肢がそうなのか、
それとも映画業界に尊厳死的なテーマが多くなっているのか、
世の中の風潮なのか…
とにかく難しい問題。
逝く側、遺される側、どちらの気持ちも、現実にそこに在るから。
でも、もし、自分が生きる側なら、やはり、心の辛さを我慢して、
逝く側の思いを尊重するようにしたい。
逆なら自分の気持ちを優先させて欲しい。
日本の法律が許すならだけど…。
盛り上がりは然程ないが、淡々と描くことにより、リアルさが増しているし、
二人の心の繋がりの強さを余白で感じ取れる。
風景も美しく、二人の押さえた演技も素晴らしく、深く心に染みました。
長きにわたって親交のある名優どうしだからこそ表現できたもの
ぱっと見、このタイトルからSFスペクタクルを想像してしまったが、本作はその真逆にある愛に満ちたヒューマンドラマだった。20年間連れ添ったパートナーどうしが繰り出す旅路。窓を過ぎゆく湖水地方の景色は息を呑むほど美しく、二人が交わす会話もウィットに富み、互いを思い合う温もりに溢れている。初めから不治の病をちらつかせるのではなく、会話の中でごくナチュラルにその要素を浮かび上がらせていく語り口も非常に巧みだ。その上、劇中で語られる”超新星”をめぐる逸話がとても神秘的な印象を刻む。曰く、かつて爆発した星たちがもたらした物質によって人間の体は生成されているのだと。この辺りから本作のタイトルが人の生命を象徴するものであることがわかってくる。そして運命の決断。タスカーは、パートナーの記憶の中で永遠に輝き続けることを選んだのだろう。観る側に様々な賛否を呼び起こす結末だが、その点も含めて深い余韻を残す作品だ。
答えはないけれど
この物語は、観るこちら側の「認知症患者への介護経験の有無」で感想が大きく変わる作品だろう。たとえ病状が進行しても、すべては忘れない、忘れることはできない。想像を絶する生命の波紋に共に揺るがされる激動の日々を経て、そしてそれがいつか穏やかな慈しみの時間へと変わる。死はその終着点。私の経験ではそんな想いに至った。
コンサートを終えてサムがあの家に帰ると、何気ない顔をしたタスカーが「おかえり」と微笑む。幾度となくあったこれまでの様に夕飯の準備をしながら、でも少しばかりの失敗もしながら(例えばシチューの塩味が強過ぎたり?)。
昨日の続きの今日にはいろんな今日がある。すっかり病人になってしまったかと思う日もあれば、まったくもって真っ当な意見でこちらに注意勧告してくる頼もしい日だってある。決して世界のすべてが変わってしまう訳ではない、いつだって昨日の続きの今日なのだ。病気であろうとなんであろうとそれは決して変わらない。
サムとタスカーの思い出を巡る旅は終わっても、ふたりの生きる日々はこれからも続いてゆくだろう。いろんな今日を越えて、まだ見ぬ明日を夢見つつ、今夜も狭いベッドの中でふたりは眠る。今までにない新しい素敵と決意と覚悟を抱えながら、いつかたどり着くその先の終着点まで。
と、そんなエピローグだったらいいなあ、なんて思ったり。その答えは観る人それぞれ、ですね。
愛情の深さは一緒
監督は異性、同性関係なく愛情の深さに変わりはない、ってことを描きたく本作を作ったそうです。
はい、それは静かで美しい映像と共に、十分に描いていたと思います。
主人公のカップルは旅にでています。その道中は、彼らの起伏ありつつも豊かであろう人生をなぞるかのようです。この演出とてもよいです。二人の会話を始め、作る空気感も見事です。さすがの演技力です。
全体的にセリフ少なめ、少ない描写で的確に説明してくれますから、ゆったり静かにクライマックスに向けて、物語が厚く厚くなっていきます。
愛するが故の言葉の数々に、想いの大きさに見てる方はホントに辛いです。頭だけの理解ではどうにもならないことだらけですよね、この世は。
ラストのまとめ方は余韻を楽しめ、、、いや、楽しむではないな。ずっと僕はこのエンディングの解釈について考えてしまってました。作中の二人がとても好きになってしまい、幸せになってほしいなぁって思ったからではないでしょうか?ワンコのルビーも可愛い。
答えは一つじゃない。愛の形の数だけあるんだろうな。
秀作です。
期待値を上げず自然体で
哀切の物語
ピアニストのサムと作家のタスカーは、長年時間を共にしてきたゲイカップル。タスカーは病のため認知症が進み、いずれはサムのことも忘れてしまうと思い詰めている。
サムの久しぶりの演奏会のため、二人は車で旅をする。途中、サムの実家に立ち寄り、姉夫婦や友人の歓待を受ける。その夜、サムはタスカーが隠していたものを見つけてしまう。
湖水地方の美しい景色を背景に、老境に入った二人の旅を淡々と描くこの映画は、二人の抑えた演技と相俟って切々と感情に訴えかけるものがある。もちろん、愛し合う二人の性別がどのような組み合わせであっても一応は成り立つ物語ではあるのだけど、男同士だからこその哀切を感じさせ、何が起きたのかを思い描かせるラストも含め、余韻の残るいい物語だった。
なお、完全に余談だが、コリン・ファースがヒゲを生やすとああなるというのがちょっと個人的に衝撃だった。
しみる。
湖水地方の風景と儚くも美しい物語
実力派俳優たちの繊細な表情にため息の出るような湖水地方の美しい風景、心揺さぶられる音楽。久々に芸術作品に出会ったようだ。
今生きている私たちを平等に待ち受けているのは“死”である。死に対しどのように向かうのか。認知症と安楽死をテーマに、だけど決してシリアスには描かずに、美しく前向きに描いているようにも感じた。
冒頭から映し出されるキャンピングカーに乗る2人のカップルは20年以上連れ添ったピアニストのサムと小説家のタスカー。タスカーは若年症認知症を患っている。サムの演奏会に向かうまでを2人はキャンピングカーで旅し、サムの実家を経由しハイランドの上を目指している。
刻一刻と症状が悪化するタスカー、愛するサムに迷惑をかけたくない、自分の変わり果てた姿を見せたくないと自死を望むタスカーに対し、愛した人を最期まで愛し貫くと腹を括ったサム、互いが互いを思い合う故に2人の間で大きく意見が食い違う。
第三者目線からみても甲乙付け難いほど両者の気持ちが痛いほどわかる。
悲しい物語ではあるが、題名の「スーパーノヴァ」のように、人生でこんなにも愛せる人に出会い、輝いた人生を送れた2人がただただ羨ましい。
スーパーノバのように消えて行った
スーパーノヴァの NOVAとは、新星のことで、それにスーパーが付くから「超新星」。星がその核の原子力を失うと、爆発して粉々になって滅ぶがそのときの光は太陽よりも明るい光となって消えていく。その大爆発を超新星爆発という。銀河系の中で起きる超新星爆発による衝撃波は、星どうしの密度に揺らぎを生み出し、新たな星の誕生を促すのだそうだ。私たちが何気なく夜空を見ていて、強く光を発する星があるかもしれない。その時私たちは何千億光年という遠い昔に激しく瞬いて、光と共に消えて行った星の残骸を見ているのかもしれない。残骸は周囲のガスに衝突して断熱圧縮されて高温を維持する。そして高温を維持できなくなるまで数万年輝き続ける。ふたご座にも、おうし座にも白鳥座にもその残骸がある。爆発の時、光となり、粉々になった星の粉は、地球に落ちてきて、私たちの体の一部になる。
そんなことを、夜空をみながら、作家のタスカーが、恋人のサムに繰り返し語って教えている。
タスカーは2年前に若年性認知症と診断されて、いまは、思考する自由も、体の自由も失いつつある。名のある作家として活躍してきたが、20年来の人生のパートナーであるサムに面倒をかけている。2人は休暇を取って、キャンピングカーで昔の友人や、タスカーが生まれ育った田舎を旅行することになった。サムは、いまはタスカーと会話を楽しんでいるが、もう自分で服を着ることもできなくなったタスカーが、じきに普通に日常生活を送ることもできなくなり、サムのことを認識できなくなる日も近いことを予感している。サムはタスカーが自分のことを忘れてしまっても、そばにいて支え、排尿便出来なくなっても世話して、自分の腕の中で死なせてやりたいと心に決めている。
二人はタスカーが生まれて育った田舎で親戚や兄弟たちと、なごやかに過ごした後、湖に面した、静かな山荘に数日間過ごす。しかし、サムは偶然、タスカーが毎日几帳面につけている鍵つき日記帳を、開けて中を見てしまう。そこにはもう活字がかけなくなっているタスカーの殴り書きと、自殺用の薬が入っていた。タスカーには、まだ自分の意志で自ら死を選ぶ判断力も行動力もある。しかし進行性の病ゆえ、明日それが実行できるかどうかわからない。じきにタスカーがその薬が何なのかわからなくなったら、自分の意思を達成することもできなくなる。サムとの激論の末、タスカーは言い争いに疲れて眠ってしまう。目が覚めた時、机の上には彼の鍵つき日記帳が置かれていた。もう心配することも、思い残すこともない。トスカーはしっかりとサムに抱かれて旅立つ。
というストーリー。
美しい映画だ。イングランドの自然がいっぱいの田舎、深い森、静かな湖、落ち葉の絨毯。冷たい清涼な風。「明日」がない二人の愛情が画面をみながらしっかり伝わってきて、せつない。コリン ファースも、スタンレー ツチも素晴らしい名優だ。年を取って、二人ともどんどん魅力的な役者になってきた。
テーマは認知症と尊厳安楽死。星もいつかは爆発して滅亡する。星の爆発で地球に降りかかってきた粉をまとった人間もいつか死ぬ。尊厳死を望む人間が認知症に陥った時に、どう死ぬべきか。
オーストラリアでは、ビクトリア州(州都メルボルン)で、2017年に「VOLUNTARY ASSISTED DYING法」(医療的自殺ほう助法)が立法化され、2019年から施行されている。施行後6か月で52人の末期患者が安楽死で亡くなった。そのうち42人が医師の処方の薬で、9人が医師の静脈注射で亡くなった。安楽死の条件は、成人で、ビクトリア州に1年以上居住し、余命半年以下であると2人以上の医師に診断され、生存よる苦痛が耐えがたいと認められた場合に限っている。
ビクトリア州に続いて、タスマニア州と、南オーストラリア州(州都アデレート)でも同様の安楽死法がすでに議会で決議され、来年からの施行を待っている。安楽死は、EUでは、スイス、オランダ、ベルギーなどで同じような条件つきで認められている。しかし、オーストラリアの法は、医師が患者に直接静脈注射で致死量のモルヒネを投与できるという意味では、EUの国々の法よりも積極的に患者の要望に応える内容になっている。
これに対して、バチカンでは神に対する冒涜だと、おきまりの批判をしている。しかし、人間は自分の人生に自己決定権をもち、本人の尊厳を守るために苦痛より安楽死を望むのは自然の流れだ。私は医療現場にいて、パラテイブケア(終末医療)に関わっているが、処方箋に従って、たくさんの末期患者にモルヒネを投与してきた。 命は時として科学では説明できない。治療効果がなく、飲めない食べられない状態になって輸液もせず、全身皮膚がんに侵された90歳の患者が激痛に苦しみぬきながらも死ねず、1か月以上も生存しなければならなかった例を見てきた。
オーストラリアは6州1準州と特別区に分かれているが、6州のの半分の3州ですでに安楽死法が議会を通過した。今後、安楽死法は各州で論議され、法整備されるだろう。
この映画は、ゲイのカップルが片割れを安楽死させる。 少し前まではタブーだったことを正面から描き、美しく描写している。人は長く生きるようになりすぎた。人はどう生きるのか、そしてどう死んでいきたいか、もっとオープンに語られなければならないが、この映画がそのきっかけになれば良いと思う。
コリン・ファレルが顔も含め全く違う感じで、さすが役者。二人の過去は...
スーパーノヴァ
2人の主人公の演技が自然でいいですね、
出来れば部屋で生活してる所からの映像で
キャンピングカーで出かける
そうして欲しかったです、編集と音楽
音楽は2人の思い出の音楽を
もっと流して欲しかったです、
最後は自分なりの解釈なんですが
亡くなった後
月日が流れて
コンサートを開いてる様に
ピアノを弾いている顔から
懐かしんで、あの頃を回想して
微笑んでいるように見えました、
テーマを重くさせないように
亡くなる部分を見せないで
コンサートでの終わり方に
頑固さと、賢さと、亡くなった方の
思いが表現されてるのかなと
思いました。
沢山泣く用意をして行きましたが
そんなには、泣けなかったです。
切ないけれど
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