DAU. 退行のレビュー・感想・評価
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全体主義の黄昏れ
独裁大国にとって人権など存在しない。命のあまりにも軽い扱いに気が滅入る。個人が全体に取り込まれると最悪の怪物となる。最終的には一番手っ取り早く、素早い解決策である暴力で終わらせてしまうやり方は時代を問わず何時でも根底にある。全体主義の核は恐怖であることを、この監督は映像と時間を上手く使って見事に描いている。その上で、エンディングにおけるナレーションがいつまでも頭に残る仕掛けとなっている「地獄は魂が浄化されるところである」。
尺の長さなど気にならないほど良く練られたシナリオと手持ちカメラによる画面の落ち着きなさによる効果が見事にはまった濃厚な作りで、少しの綻びが大崩壊となる過程を丹念に描くにはこれだけの尺が必要だと妙に納得がいった。監督の狂気が素晴らしい作品を生み、その時間を共有した喜びの余韻はしばらく残りそうだ。しかし、心胆を寒からしめる内容であることには違いがない。
ごっこ遊び?
観ないで評価はできないと思い、鑑賞。
自分としては、「映画」とはたとえ重くても暗くても、お金を払って観る娯楽。
そういった意味で、前作「ナターシャ」がギリギリだった。
「特別な作り方をしました」という前提条件(事前情報)があってこそ、鑑賞に堪えられたが、逆に何の事前情報も無ければ、ただの(だらだらとした)記録映像・実験記録。
それも、限りなく「作りものではない」という本プロジェクトの売り文句があったはずだが(ナターシャは、その一点でこその評価)、本作のラストは、壮大な「ごっこ遊び」。
確かに「悲劇的結末」は予想できたが、「殺人ごっこ」に「死体ごっこ」を見せつけられては、興醒め。
本プロジェクトの登場人物は、お芝居も演出も無く、カメラの存在を意識することなく、限りなく普通に生活していただけで、その記録映像の編集ではなかったのか?
(ナターシャの時はそういう説明で、それがウリだった筈だ)
最後になって「死体(役)」を見せるということは、出演者に芝居をさせている訳で、それならば脚本を作って役者に演技をつけて、もっとコンパクトな「作品」にもできたのではないか。
それとも、最後に本当に殺人(粛清)が行われた、とでもいうのだろうか?
本映画(プロジェクト?)の批評に、このことが一切触れられていない、気味悪さを感じる。
前作DAU・ナターシャと比べればストーリーははっきりしており理解し...
前作DAU・ナターシャと比べればストーリーははっきりしており理解しやすい。がシーン構成や演出のトーンは(所長室や幹部会議、実験シーンなどが増えているものの)前作同様で、6時間!の視聴は忍耐を要した。
時代はプラハの春が潰された1968年。閉鎖研究都市で成果を出せないが特権的地位は享受している科学者コミュニティと、それを国家への害悪とみなし治安的アプローチで対処しようとするKGB出身の研究所長、彼が手駒とする極右ナショナリスト的グループ。前作が全体主義の下で生きる個人に焦点を当てていたのに対し、本作は彼らのやりとり(科学者に対する反知性主義的挑発は本当に神経にこたえる)から、より広く、当時のソ連社会の一典型を描き出そうとしていると思えた。そして同時に、前作以上に、今日の民主主義社会に対する警告を強く含んでいると感じる。
追体験だとしても長すぎて皆に観てと言えないので星1つ減。
追記:ダウことレフ・ランダウは史実では1968年モスクワで死去とのこと。DAUプロジェクトにはまだ十数本の映画があると聞くが、時代を遡るのか、再び町が興されるのか。次回作も楽しみ(楽しくはないだろうが)。(クライマックスで彼の姿があったか記憶がないが、さすがにソビエト水爆の父の晩年がアレではアレなので、直前に家族の希望どおりモスクワに転居させたのかもしれない。)
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