「五つ子よ永遠なれ。文句はいろいろあるけど、なんだかんだで幸せな気分で見終われてよかった!」映画 五等分の花嫁 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
五つ子よ永遠なれ。文句はいろいろあるけど、なんだかんだで幸せな気分で見終われてよかった!
当方、アニメは一期、二期ともリアルタイム視聴。
ただし、原作は未読である。
思い入れたっぷりに絶賛されている方、作品愛ゆえにクソミソにけなしている方、双方に申しわけないのだが、自分は「五等分の花嫁」のたいしたファンではないし、作品への感情移入も正直あんまりない。
ただ、TV版24話も観てきて、どう終わったかも知らないってのもさすがに居心地が悪いので、誰が選ばれるかこの目できっちり確かめて、二期終了後の残尿感をすっきりさせたかった、というのが主たる視聴の目的である。
TVアニメ版の何が気に食わなかったかというと、まず一期はそもそもクオリティがあまり高くなかった。
キャラデザや色彩設定がかなり微妙なうえに、作画や動画のおかしい回も多かった。
作品の前提条件にもなんとなく合点がいかなかった。「五つ子は同じ顔」だっていいながら、どう見たって顔自体「ちゃんと見分けがつく」ように描かれている。それが作中では普通の人には「見分けがつかない」という前提になっていて、しかも髪色と髪型を揃えただけで、今度は視聴者にも「見分けがつかないキャラ絵」にすり替えられる。
これって、さすがに客側に「設定」を押し付けすぎなんじゃないのか?
それ以上に納得がいかなかったのが、お話の進め方があまりに雑だったことだ。
原作由来なのか、脚本が悪いのかよく分からないが、このアニメでは「誰かを探して飛び出した」のに、出先で「別のイベントが発生して」、そのまま探し人そっちのけで延々別件のほうにかまけてたり、誰かが熱とか出して倒れたのに、しばらく後のイベントではケロッとしていたり、相手が病気であることを全く考慮しないような言動に他の姉妹が出たり、といった「話の流れや心理の流れがどう考えてもおかしな」部分があまりに多すぎるのが、とても気になっていた。
二期になって、絵柄も作りも格段にマシになったが、細かいところの展開のおかしさは相変わらずで、ナラティヴがどう考えてもうまくつながらない話数(4話、8話、9話など)などは、一体どうしたものかと思ったものだった。一期以上に風太郎がSっぽくなっていて、五つ子もやたらギスってるのが、けっこうしんどいってのもあったし。
一方で、設定とキャラに惹かれたからこそ、視聴を継続していた、という部分も間違いなくある。
もともとギャルゲとエロゲ育ちで、この手の話は大好物である。
「五つ子」との恋愛というアイディア自体、とても興味深かったし、それぞれのヒロインのキャラがしっかり立っていたのはとても良かった。風太郎が5人のあいだでふらふらしたりせず、ストイックに家庭教師に徹していたのも好感が持てた。あと僕自身、中学生のとき、同学年女子&年上の男子の家庭教師をしばらくやっていたことがあったので(自分からではなく、教師だった親に頼まれてだが)、実はとても懐かしい設定だったりもした。
何より、「ヒロイン全員本当に底辺のバカ」ってのは、ずいぶん新鮮な試みだ。「可愛い女の子はおしなべて秀才」というベタなお約束を超えた、ある種のジェンダーフリーまで成し遂げているようにすら思う(笑)。
作者サイドの試みでいえば、この設定特有の要素である「入れ替わり」のヴァリエーションを徹底的に追求していたのは、良いチャレンジだった。また、「五つ子」という要素を、単なるギャルゲ的な恋愛対象としてだけではなく、アイデンティティ不安と個の確立、他者性の獲得、独立と連帯といった「一卵性ならでは」の方向で生かそうとしているのにも感心した。
要は、文句はたれているが、嫌いではなかった。そういうことだ。
で、今回の映画版である。
まず、尺はかなり長い。
かなり長いが、内容からするとこのくらいはあっておかしくない。
作画は、TVシリーズよりはだいぶマシだが、
最近のアニメ映画のレベルから比べるとだいぶ落ちる。
とくに、風太郎の表情作画にばらつきが多いように思う。
でも、ヒロインたちはとても可愛く描かれている。
とくに三玖はなんか牝として目覚めた感があって、かなりエロい。
なので、総じて言えば、観ていてそう嫌な感じはしない。
結論から言えば、僕はたいへん楽しめた。
感動して泣いたりはしなかったが、笑顔で映画館を後にすることができた。
なんだかんだで3年も付き合ってきたキャラクターが幸せな結末を迎えることができて、僕もふつうにうれしかった。
細部のゆるさというか、話の組み立てのおかしさは、正直TVシリーズから、あまり改善されていないようにも思う。原作を読んでいないから、奈辺に責任があるのかよくわからないが……。
たとえば、一例をあげるなら、文化祭の屋台の火事。
あんなことがあったら、出店禁止どころか、翌日からの文化祭の継続自体が危ういくらいの大変な大ごとなのに、男子はみんなで「なんで店出しちゃダメなんだよ?」とかぶー垂れてるし、女子は相変わらずいがみあってる。クラスで仕切ってた風太郎も責任を感じている様子などみじんもなく、他人事みたいに放置している。だめじゃん。
あるいは、実のお父さんの作中での扱い。
実父が誰かわかるって、それだけで1話も2話も使っていいような大イベントじゃないのか?
なんか、五月の母親コンプレックスを解消させるきっかけ程度の扱いで、ただのゴミみたいに退場させられてるけど、後ろに並んで五月応援してる4人って、こいつが父親だって知ってたんだっけ? 4人が、自分の本当の父親が誰かわかって、あんなに他人事みたいにふるまえるキャラだとは、僕にはとても思えないんだけど。逆にみんな知っていたとすれば、五月だけが知らない理由がよくわからないし、そもそも出ていった経緯も母親への仕打ちも知識として知ってるのに、素性や何をやっている人物かを全く知らないうえに、探したそぶりもない、なんてことがありうるんだろうか?
四葉が意識を喪うような倒れ方をして、病院に担ぎ込まれてるのに、翌日何事もないかのように文化祭に戻ってて、告白がどうの、3時に集合だのと、前日のことが何もなかったみたいな扱いになってるのも、さすがにどうかと思う。あげくに、四葉は全力疾走してるし、そのとき回りで「身体を気遣う」ような発言をする人間が一人もいない。そういや、風太郎の林間学校とか入院とかのときも、おんなじようなシチュエーションがあって、病人は似たような扱いを受けていた気がする(うろ覚え)。
だいたい、「最後の祭りが〇〇の場合」って、フラグ分岐したときに使う日本語ではないのか。
最初はそうだと思って観ていたのだが、各分岐であまりに重要なイベントが起こりすぎてて、他のルートで起きなかったと考えるのは無理がありすぎるので、どうやらこれは「一本道のストーリーを5つの視点に分けて、繰り返し描写しているらしい」ということに、途中で気づいた。
ってなると、風太郎は、たった三日の間に、さまざまな五つ子の前に足を運んで、それぞれから粉をかけられ、複数人からキスをされて、それぞれの生涯に残るようなイベントをこなして、その間に起きた出店の火事とか、父親の登場とか、四葉の入院とかといった「大事件」をほぼまるっと「スルー」したうえで、最後に誰を選ぶかって話に(五つ子も含めてみんなで)夢中になっているということになる。大変な過密スケジュールに加えて、まあまあの人でなしに思えるのは僕だけか?
作劇上ひっかかる点は、上げ出したらそれこそきりがない。
作中時間で言えば大して経っていないはずの、修学旅行での一花のやらかしとか、ニ乃や三玖の告白イベントへのリアクションが、風太郎・五つ子ともびっくりするくらい薄いこと。
文化祭の班分けで男女が対立して別の屋台を出すとか大変な事態になっているのに、風太郎がほとんど関心なさげに仕切っていること。
竹林の出し方も、さすがに適当すぎないか? 五つ子の恋の心の導火線みたいな扱いで、あんなやっすい扱いで出していいキャラだったんだろうか。
何よりひっかかるのは、最終的に選ばれた相手(一応名前は伏せておく)がなぜ選ばれたかが、作品だけからは今一つ判然としないことだ。
これにはたぶん理由があって、風太郎のなかで「幼い頃に出逢ったレナ」への想いの部分と、高校で再会してから育まれた想いの部分が、どう折り合いがついているかについて、ちゃんとした説明がないままに告白イベントになだれ込んでしまうのが一点。それから、「誰を選ぶか」を読者に対する最大の謎としてお話を引っ張るために、風太郎が折々に感じて来たはずの「特定相手に対する慕情」が完全に伏せ札のまま進行してきたせいで、観客もずっと横で付き合ってきたはずの風太郎が何を考えているかわからないのが、気持ち悪いのが一点。
もう少し、すっきりと「まあでもそうだよね、最初から考えてみたら、この娘を選ぶ以外なかったよね」と思わせてくれたらよかったんだけど。
と、さんざん文句を言い立てておきながら、今更なんなのだが。
総じて言えば、恋愛ものとしては、ふつうに面白く観ることができたのもたしかだ。
結局、「ナラティヴ」にはいろいろ問題があっても、「キャラクター」にはそれぞれ一本筋が通っていて、ブレがなく、ちゃんと愛着がもてるように描かれていたから、メインの部分は充分堪能できた、ということだ。
五つ子の魅力という意味では、TV二期では感じの悪い役回りを引き受けていた一花やニ乃も、しっかり親近感をもって可愛く描かれていたし、一定の自信をつけて多弁になり、ぐいぐいと発情顔で攻めてくる三玖にもドキドキした。四葉は「明るく前向きで誰にでも協力的」なキャラそれ自体が「後から自分にかけた呪い」である点がしっかり掘り下げられていて、ちょっと鍵ゲーの「トラウマ解放療法による救済」みたいなところがあって、ぐっと痺れた。五月も、推しのファンからすれば物足りないだろうが、ほぼ食欲魔人のマスコットキャラに堕していたTV版での扱いを考えれば、ひとりの女性としての見せ場は十分にたくさんあったと思う。
とにかく、たんなる惚れたはれたの恋愛話に終始せず、五つ子の成長と自立の物語として、きちんと完結していたのが良かった。
自分と同じ遺伝子を持った人間が5人いるという、究極のアイデンティティ・クライシス。
全員が最大の味方であると同時に、最大のライヴァルであるというアンヴィヴァレントな状況。
そのなかで、敢えて「個」を求め、「特別」を求める心の動きを「最初に」芽生えさせ、そのために闘い、傷つき、やがて挫折した少女が、風太郎に選ばれて、恋愛の勝者となる(=最も救済されるべき存在となる)という構図も、非常に理にかなっている。
かつて五つ子の紐帯を疎ましく思い、そこからの脱却を願って戦ったあげくに「しでかして」、逆に五つ子の紐帯の最大の「守護者」となった少女。
彼女を解き放てるのは、五つ子の「外」の世界からやってきた、風太郎しかいなかったのだ。
女優として花開いた一花だけでなく、五人は五人なりの道を見出して、それぞれのアイデンティティ・クライシスを克服する。その手助けになったがゆえに、風太郎との出逢いと慕情は、「勝った」少女だけでなく、「負けた」彼女たちにとっても単なる苦い失恋の過去とはならない。
その意味では、負けた4人の在り方は、京アニ版の『クラナド』のサブヒロインたちに近いのかもしれない(原作ゲームでは、選ばれたヒロイン以外、その世界線では救済されないシビアさがあるのだが)。
それから、実父の扱いは酷いものだったが、マルオお義父さんの扱いは素晴らしかったと思う。
もしかしたら、映画版で最もドラスティックに「救われた」のは、このマルオだったかもしれない。
彼は、ようやく、心から愛した女性の遺した少女たちと、「真の家庭」を手に入れたのだ。
すがすがしいラストシーン。
僕は胸いっぱいの多幸感を感じながら、映画館を後にした。
なので、作品に文句はいろいろあるけど、やはり敢えて言いたい。
こういう形で映画版にまとめてくれて、ありがとう、と。
そして、「五つ子よ、いつまでもお幸せに!」