「【嘘っぽくて作り物感が満載なのに、役者の演技によって泣かされる映画】」そして、バトンは渡された 山のトンネルさんの映画レビュー(感想・評価)
【嘘っぽくて作り物感が満載なのに、役者の演技によって泣かされる映画】
◎鑑賞時は原作未読
〜映画の第一印象〜
ずるい、ずるいぞ、ずるすぎるぞ、この映画。感想を一言に集約すると、「ずるい」に尽きる。映画は矛盾点や違和感のある脚本なのに、役者たちの演技力がそれらをカバーしているからタチが悪い。まるで演技の暴力。そして、この映画に泣かされた自分が悔しい。映画館にこだまする誰かの啜り泣く音。泣かせにくるシーンの数々。涙、涙、涙。泣いてないシーンはどこ?と思うレベルで泣かせにくる。本当にずるい。これほどまでにキャスト陣の演技力に支えられている映画は少ないかもしれない。
〜泣くポイントは人それぞれ〜
上映中に啜り泣く音が聞こえてくるのだが、「えー、なぜここで泣く?」というシーンで泣いていて逆に笑ってしまった。すみません。自分がどこに感情移入し、他人がどこで感情移入するのかを知ることができるのも映画館の醍醐味だなと思った次第です。人と人は同じ映画を見ていても解釈は千差万別なのだと思わされますな。
〜考察〜
①親切な父親たちに共通すること、そして梨花
周囲の人の愛を精一杯受けて育った優子。映画を見た人の中には、こんなに親切な人々ばかりは都合が良すぎると語る人もいる。たしかにそういった一面があることは否定しきれない。現実は厳しい。本当の親子でもないのに、この映画に出てくる人物たちのように子供のために尽くせるか?と問われるとYESと答えられる人は少ないかもしれない。けれど、この映画に出てくる2人目の父親である「泉ケ原さん」、3人目の父親である「森宮さん」。彼らに共通することが一つある。それは余裕だ。金銭的余裕や心の余裕。それがあるからこそ、血のつながらない娘である優子のことを大切に思ってあげられたのではないかと。ある意味で、梨花の人を見る目だけは良かったのかもしれない。
②血の繋がった家族(早瀬君と母親)だから喧嘩できるのか、血の繋がらない親子(森宮さんと優子)だから喧嘩ができないのか。
この映画では、2つの家族を対比的に描くシーンがいくつかある。そして、早瀬君は森宮さん親子の血のつながらない関係は、お互いを尊重し合えるから羨ましいという。しかし、血の繋がった親子でもお互いを尊重することが大事なのではと思ってしまう。
親子の繋がりは血が繋がっているとか、血が繋がっていないとかじゃないと切実に思う。
③リアル感を描けているかどうか
この映画を見た時に、優子の周りにいる人々の親切心にはリアル感がないという意見がある。たしかに、現実は厳しく、血の繋がらない人のためにここまで奮闘できる人は少ないだろう。けれど、リアル感とは何なのか?映画に求めるリアル感とは、実際のところ鑑賞者がリアルだと思う感覚、つまり現実を押し付けているだけなのではないか?と私は思ってしまうのだ。かのアインシュタインが「常識とは20歳までに身につけた偏見である」と言っているが、世界のどこかには科学でも説明のつかない、自分の常識では測れない出来事が確かにある。そして、私は映画とはある意味で自分の常識の外を体験できるツールだと思うのである。と、話が少し脱線した…
映画に話を戻すと、確かに優子を取り巻く人物たちはリアル感に欠けているかもしれない。しかし、ここまでの考えを振り返って、見方を変えてみると、この映画の登場人物たちは、単に鑑賞者である我々が求めるリアル感からは逸脱した存在(常識外)なだけと考えることもできるということだ。
そして、自分に疑問を投げかけてみる。本当にこのような人たちは存在しないのか?と。
もし映画に登場する親切な人々が実際に世の中に存在していると思えれば、世の中は案外捨てたものではないなという見方もできる気がしてくる。このように、自分の常識に疑問を抱いたり、自分のリアル感に問いかける経験ができるのはやはり映画の醍醐味なのだろう。そこから、自分の常識を上書きするなり、リアル感を更新するのもアリかもしれない。
仮に、映画を通した個人的な考えの変化が集団に伝播したら、鑑賞者たちが語るリアル感に欠けるという意見すら、稀な意見になるかもしれない。
④拭えない気持ち悪さのようなもの
つらつら述べたが、上記の見方はこの映画を温かい目で見ようとすればの話だ。個人的にはやはりこの映画を肯定的に捉えることは難しい。
大人たちのエゴによって明るく振る舞うことを身につけたみぃたん(優子)。彼女は母親である梨花から辛い時こそ笑顔でいることが美徳であるかのように教えられる。そして、笑顔でいることを美徳として捉え、常に笑顔を振る舞う。果たして、同級生から虐げられていてもヘラヘラする様は賞賛に値することなのだろうか。「辛い時こそ笑顔でいること」は、ある意味で「呪い」だと捉えることもできるが、この映画ではそういった黒い面には焦点を当てず、お涙頂戴な話に仕立て上げている。そのことに対して、やはり拭えない気持ち悪さのようなものを感じる。やはり母親(梨花)の歪な愛と複雑な家庭環境の中で成長した優子が、梨花と再開して彼女を許すシーンは必要だったのではないだろうか。それをせずに、梨花を殺すことで涙を誘ったこの映画はやはり罪深いと考えざるを得ない。
〜違和感〜
・父親としての森宮さん
森宮さんは終始、父親に徹しようとする。枕詞には「父親として〜」と常に森宮さんにとっての父親であろうとし続ける。本人曰く、東大を出てから生きる意味を見失いかけていた時に、梨花と出会って生きる目的を見つけたと言っていたが、、、
結婚式直前に娘の存在を知るとか、結婚詐欺もいいところだろうに…
・手のひらを返す同級生
最初の方で、優子は高校の同級生とうまく交友関係を築けていなかった描写がある。しかし、優子の身の上話を聞いた途端、優子のことを疎ましく思っていた同級生が手のひらを返したかのように良い人化するのは下せない。その過程は描ききれないのかもしれないが、人は変化する時はするが、そこを軽んじると陳腐なものになってしまう。このように、ストーリー全体に対する細かな部分の配慮がこの映画には足りないと感じてしまう。良い部分はあるものの、涙という情への訴えが悪い部分を曇らせているため、割と高評価なのかもしれない。
〜この脚本では観客の涙は誘えても、本屋大賞は受賞できないだろう〜
この映画の場合は演出よりも、むしろ脚本の方に問題があると考える。今作の脚本の橋下氏は59歳らしい。人は年齢ではないが、描かれる世界にはどうしてもその人が育った世代観というものは出てきてしまうものである。ちなみに、この橋本氏だが、映画『いぬやしき』の脚本も書いているとか。自分史上最高につまらなかった映画だ。『そして、バトンは渡された』の原作の内容も改変するし、この人が脚本を書く映画は見るのをやめようかな(※改変が悪だとは思わない。映画にしかできない見せ方もあるから)。橋本氏は、話題性のある作品に参加させてもらって、そこそこ話題を呼び、そこそこの脚本が書けるから起用されているという感じか。BEST of BESTの芸術家というより、あくまで商業作家なんだなと。
酷評してるみたいになってしまったな…
うーん。橋本氏に対して何か思うところがあるわけではない。この方の脚本は原作を尊重する以上に、映画としてどう見せるかという点を考えているとは思う。が、仮に原作以上のものを映画にしたいと思うとき、やはり実力が問われるということが言いたいだけだ。この脚本では原作の軸である「優子の芯の強さ」が描ききれていない。それは田中梨花という人物を殺したことに由来する。彼は田中梨花を殺すとともに、原作のメッセージをも殺してしまった。つまり、『そして、バトンは渡された』の映画化における改変は脚本家として失格ではと思った次第。これでは結局、酷評したいみたいになってしまった…ohh
◎映画の残念な点
〜バトンについて〜
・この映画の描き方だと「バトン≒優子」になってしまっているんだよな。これはこれでシンプルで分かりやすい。伏線回収としてはこういう見せ方もあると思う。しかし、原作ではバトンは優子であり、森宮さんからの愛とか、思いやりとか、ピアノとか、より抽象的なものとして描かれていたような…その辺をうまく表現できていないのがなぁ、残念。
〜この映画の見せ方〜
・結婚はゴールであり、始まりであるが、幸せの形としてそこをゴールのように描いた点が、女の幸せは結婚であるという穿った見方に繋がりかねない。この物語の本質は結婚ではなく、親子の絆や愛とかにあると思うのだが…皆さんはどう思いますか?
〜この映画を一言であらわすと〜
【田中梨花(石原さとみ)という人物を中心に振り回される人々の群像劇】になってしまっているのが残念で仕方がない。
◎映画の中で良かった点
〜ロッシーニが聴きたくなる映画〜
「2人でロッシーニになろう」は最高のプロポーズなのでは?
〜劇中に出てくる食べ物が飯テロすぎる件〜
餃子のパリパリ感といい、ご飯が進みそうな回鍋肉などはどれも実際に食べたくなるほど美味しそうだった。自分も美味しいご飯を作れる人になりたいと思いました。切実に…
〜映画からのインスピレーション〜
・最後に、この映画を通して自分の意識は何か変化したか?自分の中で何かを変えようと思っているか?
まずは、自分が優子の周囲の人々のようになれるような「余裕」を持つこと。いや、ちょっと待てよ。余裕は持つものなのか?余裕を持つというより、余裕を纏うといった表現が適切な気がする。余裕という服を身に纏い、「余裕のある自分」が自然体でいられる状態が一つの理想かもしれない。このように考えたのは、他人に対して親切になれる社会が仮に存在するならば、個人個人の「余裕」が鍵となると感じたからである。
〜映画館で見るべきか〜
映画館における音響、映像設備を使いこなせているかというと微妙。迫力とは無縁の映画。洋画に比べて邦画が低予算であること、そもそも映画のジャンルがアクションものではないからな。そのため、映画館の音響や映像美を体験すべく、映画館で『そして、バトンは渡された』を見るべきかと問われると見る必要はない気がする。
では、「家で見るか?」と問われると、最初の方が間伸びしてしまい、ここまで泣かされることもなかっただろう。隣の人とか寝かけていたし…結局、映画館で見たが故に、泣かされるというね。
〜泣いたシーン〜
①母目線の卒業式のシーン
▶︎カメラワークと音楽が迫り来るところ
②森宮さんが父親としてバージンロードを歩くことを勧められるシーン
▶︎友人は父親3人であるけば良いのではと言っていて確かにと思った(笑)
> こんなに親切な人々ばかりは都合が良すぎると語る人もいる
そうみたいですね。俺は原作既読で観ているので、違和感なしでしたが、そう思えたのは原作の力でした。原作はそういうことも含めてすんなり腹落ちするというか…いやいい話でした。レビューに書いたように、相対的に映画に厳しくなってしまいましたが、でも映画も売れてよかったと思います!
「余命10年」に共感ありがとうございました。
突然、フォローして、唐突でしたね。
(お詫びします)
今、この映画のレビューを読ませていただきました。
私も、この映画のテーマとか訴えていることに懐疑的なひとりです。
テーマは「血の繋がらない親子が実の親子以上に繋がれる」
確かに実親を憎む子供は多いです。
「家庭とは密室で子供が選べなかった親と一緒に何十年も暮らす空間」
とも言えます。
「家庭には毒がある」と、臨床心理学者の東畑開人が対談で話していました。
幸いにも私は、そこそこ幸せな家族の中で育ったのですが、
「そしてバトンは渡された」が描く人の善意を、全面的に信じることは私には出来なかったですね。
山のトンネルさんが書かれているように、「余裕」・・・精神的にも金銭的にも・・・余裕のある田中圭や市村正親のあり得ない善意により永野芽郁は、
守られて結婚というゴール(一般的には幸せを意味する)に進み映画はラストを
迎えます。
結婚イコール幸福。
この考え方にも違和感がある訳です。
長々と書きましたが、山のトンネルさんのレビューに共感する部分が多かった・・・と言いたかったのです。
「本屋大賞」受賞作は、どれも安い感動作が受賞しますが、しかしながら
どれも面白いです。
過去に受賞した三浦しをんの「舟を編む」とか、「博士の愛した数式」は素晴らしいと思いますが、、最近受賞作は感動の押しつけが多い印象です。
「そしてバトンは渡された」も感動の押し売り感は否めません。
御免なさい。喋りすぎました。
引かれちゃった・・・ですね!!