劇場公開日 2023年1月20日

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「 「ニュー・シネマ・パラダイス」を思い出す人も多いでしょうが、本作はノスタルジーで染め上げることなく、主人公の未知なる世界へ旅立ちを描きます。」エンドロールのつづき 流山の小地蔵さんの映画レビュー(感想・評価)

4.5 「ニュー・シネマ・パラダイス」を思い出す人も多いでしょうが、本作はノスタルジーで染め上げることなく、主人公の未知なる世界へ旅立ちを描きます。

2023年1月24日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

 映画館で映画を見る喜びは、間違いなく今もあるはずです。昨年、「トップガン マーヴェリック」を大きなスクリーンで堪能した時、確かにそう思いました。本作の主人公はインドの少年ですが、同様の経験をするのです。そして、同じように、映画の原初的な魅力に引きつけられ、映画のことを忘れられなくなってしまうのでした。

 映画館を舞台にし、映画愛に満ち満ちた傑作「ニュー・シネマ・パラダイス」。それのインド版かと思ったら、実は監督自身の実話から生まれた物語。映画で人生を豊かに、そして、映画館で映画をみる幸せに改めて気づかせてくれる至高の112分でした。

 9歳のサマイ(バヴィン・ラバリ)は、インドの田舎町で、学校に通いながらチャイを売る父親の手伝いして暮らしていました。
 一家は厳格なバラモン階級に属するため、厳格な父(ディペン・ラヴァル)は、映画は低劣なものと断じていましたが、自分が敬愛している女神がテーマの作品が上映されるため、これが最後だとある日特別に家族で街に映画を観に行くことになります。ギャラクシー座は満席で人で溢れ返っていました。席に着くと、目に飛び込んだのは後方からスクリーンへと伸びる一筋の光…。そこにはサマイが初めて見る世界が広がっていたのです。映画の魅力にすっかりとりこになったサマイは、再びギャラクシー座に忍び込ますが、チケット代が払えずにつまみ出されてしまうのです。それを見た映写技師のファザル(バヴェーシュ・シュリマリ)がある提案をする。料理上手なサマイの母が作る弁当と引換えに、映写室から映画をみせてくれるというのです。サマイは映写窓から観る色とりどりの映画の数々に圧倒され、いつしか「映画を作りたい」という夢を抱きはじめるのです。
 サマイは、映写室に入り浸りとなるなかで、段々光に近づいていきます。
 ついには、自分の手で映画を映せないか、試みるのです。駅の倉庫からフィルムを盗んでしまうのはいただけませんが、手に入れたフィルムを懐中電灯の明かりで壁に映してみます。しかし映像はボケていて、映像になりませんでした。それをファザルのアドバイスで、映画は一コマ一コマにシャッターが入り、一コマごとに暗転しているという仕組みを知ったサマイは、捨てられた機材や家財道具を集めて加工し、何と手作りの上映機を作り上げてしまうのです。光源は鏡で光を反射させて確保しました。スクリーンは、母の白いサリーを勝手に頂戴して代用。はじめは音なしで上映しました。あとで仲間の協力で音やセリフ、歌を自演することで、迫真の作品に仕上げています。
 サマイが上映するところを隠し見た父は、自分が気付こうとしなかった息子の才能を思い知らされます。そしてある決断をするのでした。
 こうして主人公の未知なる世界への扉が開くのです。

 サマイは、全てではないものの本作のパン・ナリン監督の自伝的人物。劇中で描かれるように、実際に映写室に忍び込み、フィルムのリールを盗んで少年院で夜を過ごしたこともあったといいます。オーディションを勝ち抜いた主演のバヴィン・ラバリをはじめ、父親役のディペン・ラヴァルやファザル役のバヴェーシュ・シュリマリ、そしてサマイの仲間たちを演じた愛嬌溢れる子役たちも全員グジャラート州出身であることにこだわり、監督の幼少期の思い出が詰まった故郷の、独特な雰囲気や風情を見事に再現してくれました。 ちなみにバヴィン・ラバリは本作が演技初挑戦とは信じられません!豊かな表情で、観客の心を虜にしてくれました。

 また、大自然の音や光の撮影方法にこだわり、映画は映画館でしか観られなかった時代のゆったりとした時間の流れや、幼い頃の飽くなき探求心を、見事な美しい映像で表現した。
 映画好きを描いた映画も多くありますが、サマイは普通のファンと少し違っていました。もちろん、アクションあり、ロマンスありのインド映画に魅力を感じている人は多いことでしょう。でも彼を魅了したのは、映画を映す光そのもの。スクリーンに向けられていた視線は、いつしか、後方に向かい、映写機から発するまばゆい光をとらえ、まさに光をつかまえようとするかのように、手をかざすのでした。そこに大きな夢を抱き未来を照らす光を追い続ける少年の姿が重なって見えたのです。

 子どもたちの映写風景は楽しげで、幸福感に満ちあふれていました。彼らは、映画が光と音でできていることを、頭でなく、直感で知り、映画と戯れる喜びを手に入れたのです。それはちょうどコロナ禍で上映が延期された「トップガン」を、ようやくスクリーンで見ることができた時、映画を取り戻したような気分になったのと、通じてはいなかったでしょうか。

 しかし、そんなサマイたちの喜びもつかの間。夢見心地だった彼らに、映画館での上映を巡って、残酷で悲しい現実が突きつけられます。映画のデジタル化の波がギャラクシー座にも押し寄せて、ファザルは解雇され、上映機はスクラップに。フィルムは資源ゴミとして、工場に送られてカラフルな腕輪に生まれ変わるのでした。サマイは、それらを積んだトラックを追跡し、フィルム映画の変わり果てた姿を目撃するのです。この描写は容赦がありません。異様にも映りましたが、映画をいとおしむサマイの痛みが伝わり、胸を打つシーンです。
 その辺のリアルティが、「ニュー・シネマ・パラダイス」とは違うところ。ノスタルジーで染め上げることなく、ショックから立ち直ったサマイを、未知の世界に旅出させる伏線へと仕上げていきます。この映画が、パン・ナリン監督の「自伝的な作品」であることを知らなくとも、サマイが光を追い求め続けるであろうことは、誰もが容易に想像がつくことでしょう。

 最後に、監督が敬愛するリュミエール兄弟、エドワード・マイブリッジ、スタンリー・キューブリックなど、ちりばめられた数々の巨匠監督たちに捧げるオマージュを見つけるのも本作の楽しみ方のひとつです。世界で一番の映画ファンだと語る監督が、世界中の映画ファンへ贈る映画へのラブレター。今もなおインドに存在する階級制度や貧困というテーマを背景に、に希望をもらえる、宝箱のような感動作でした。

流山の小地蔵