「フィルムへの熱い愛と鎮魂歌」エンドロールのつづき ニコさんの映画レビュー(感想・評価)
フィルムへの熱い愛と鎮魂歌
映画製作に憧れる少年の成長物語かと思いきや、フィルム時代への熱いラブレターだった。原題の「Last Film Show」がまさにぴったりくる物語。
家業のチャイ売りの仕事、映画館での体験、友だちとの光やフィルムを使った遊び、映写技師との出会いなどはどれもパン・ナリン監督の実体験。2010年に9歳の少年としてデジタル移行の場面に立ち会う、という時系列だけがフィクションだ。映画の原体験と、ファザルのモデルになった恩人の映写技師がデジタル移行時に仕事を失ったというエピソードの両方を描きたかったためそのような設定にしたと、インタビューで監督が答えている。
サマイは映写機が放つ光に興味を抱き、切り取ったフィルムを光に透かし、自作の映写機でリールを回した。どれもフィルムだったからこその体験だ。
そういった無邪気でまぶしい原体験の後だからこそ、映写機やフィルムが処分され別のものになってゆくシーンの喪失感が際立つ。
デジタルのよさだってもちろんたくさんある。フィルムのような運送コストがかからないし、劣化もしない。映画館でのライブ上映、舞台挨拶中継が出来るようになったのもデジタル化の恩恵だ。むしろメリットの方が多いから新しいテクノロジーに移り変わってゆくのだ。
それでも、表舞台を降りたちょっとめんどくさいローテクなツールには、独特の郷愁のようなものがある。カセットテープのリール穴に鉛筆を差し込んで調整したり凝ったラベルを作ったりといった作業は、今でも楽しく懐かしい記憶だ。
ナリン監督が抱くフィルムへの郷愁や、原体験をくれた技術が表舞台から去る時の切なさが、本作には凝縮されている。
もうひとつ印象的だったのは、サマイの母親が作るやたら美味しそうなお弁当だ。あまり見慣れないインドの郷土料理が多かったが、美味しいことだけは強烈に伝わってきた。ファザルがお弁当と引き換えにサマイを映写室に入れたことも、美味しそうな描写で納得だ。
サマイの父親は体罰過剰気味でずっと印象が悪かったが、その父がサマイの”映画上映”を陰から見て折檻棒を捨て、彼を学びのため外へ出す決心をしたのはじんと来てしまった。
サマイの家庭のような生活をしている家族は、基本的に日々の生活で精一杯だ。サマイたちが繰り返しフィルムを盗む行為を肯定はしないが、親の細々とした家業を手伝う彼らの生活の厳しさを思うと、軽々しく正論だけを押し付けるのも違う気がしてくる。可能な範囲の学業が終わったらすぐ、家計を支える働き手になってほしいと考える親の方が多いのではないだろうか。
サマイが父親に尋ねていたが、一生地元から出られないまま人生を送る可能性が高いのだ(自ら選択したならそれも悪いことではないが、それ以外選択肢がない状態は悲しい)。だからこそ、考えを改めた父親の決心が尊かった。
それにしてもやはり、「ニュー・シネマ・パラダイス」の存在感は大きい。田舎町、子供、映写技師、で既に「インド版ニュー・シネマ・パラダイスか?」と思ったし、デジタル導入の振りのシーンでは「映画館が火事になったか?」と思ってしまった(笑)。ただ、フィルム文化の終わる瞬間を映写機やフィルムの破壊という形で見せられたのは本作ならではのインパクトだ。
ちなみに近日公開の「フェイブルマンズ」とも、大雑把に見ればかぶる要素がありそうな気がしている。でも、似た設定でそれぞれの監督の映画観を比較するのもまた興味深い。