「まいった」RUN ラン 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
まいった
なんびゃくと映画の感想を書いてきたので、じぶんなりの経験則があるのだが、作法のひとつ、としていることに「ものすごく面白かった映画はすぐにレビューを書かない」というのがある。
(読者がいない素人レビュアーなので、作法とか言っちゃうのは、こっ恥ずかしいこと──なのは承知しています。)
推察できると思うが、すごく面白かった映画を見て、すぐレビューを書くと、いわば「興奮さめやらぬ」状態なので、筆が乱れ、結果として映画のみりょくが伝わらないから──である。
(誰にも読まれていない過疎レビュアーなので「筆が乱れ」とか、なんかすごく勘違いした言い回し──なのは承知しています。)
この作法は、超絶につまんない日本映画をみて、憤激しているときも、おなじ。
怒っていると、うまい皮肉が浮かんでこなかったり、罵倒がバシッと決まらない。
で、姑息な小市民のわたしは、難癖や嫌味の文々をあれこれ考えながら、怒りのしずまるのを待ちつつレビューを構築していくという、ひじょうに陰湿なレビュアーをやっている。
だが、往往にして、激怒した場合よりも、おもしろくて興奮状態のときのほうが、うまく文が書けない。
もちろん、さいきんの(というかここ50年間以上)日本映画はわたしを激怒しかさせてこなかった──ていうのもあるが。
(ごまめがはぎしりしているだけ。痛くも痒くも、なんの影響もありません。)
このことは、人様のレビューにおいて、興奮さめやらぬまま書かれたレビューが、ぜんぜん映画のみりょくを伝えていない、ことからも証明できる。
たとえば「すごくすごくすごくすごくすっごく面白かった。」と書かれてあった──とする。発言からは書き手のこうふんが伝わってくる、だけで映画のみりょくは伝わらない。
わたし自身、むかしは修辞を過剰に盛っただけのレビューを書いていたので、経験則になったわけだが、映画は形容詞によって伝わるものではない。むしろ面白かったとかつまんなかったとか要らない。どのみちレビューなんてどれも同じようなことしか言ってない。だから人の触れていない枝葉のことを言ったほうが、ど素人のレビューとしちゃ伝わる。
(これは指南なんかではなく、じぶんのレビューの読者はじぶんだけのなので、じぶんで書いてじぶんで読んで、そう思った──てだけの話です。)
むかしアブデラティフケシシュのアデル~(2013)という映画を見たとき、わたしはものすごくこうふんした。なんつうか異次元的なこうふんだった。けっきょくアデルにレビューを書くのはやめたが、ずっとあとになってレビュー書けないみたいな心境をレビューにした──のだった。
本作はSearching(2018)の監督とのこと。その紹介だけで、ほとんど飛びついた。(ストリーミング配信サービスだけどね。)
とてもこわい。そしてふるえるほど面白い。本気で興奮した。これは時間を置いても多分書けないから書いとく。
アイデアがある。映画そのものに頭の良さがある。てより、なんていうか人類の叡智をかんじる。Searchingのときも、狭い世界の話を展開していながら、家族愛みたいなところへ昇華していた。これの場合は、かんぜんにホラーだけれど、終局で看板「University of Washington Be Boundless」(ワシントン大学、無限の可能性)がクロエの目に入ったとき、それによって生にたいする執着が芽生えたとき(おおげさかもしれないが)わたしは魂がふるえた。
ごまめらしくこの感動を、牽強付会なdis日本映画でまとめるが、おねがいです!日本映画界、はずかしいから、もう映画つくらないで!
ばかなひとに映画をつくってもらいたくない──猛烈にそう感じさせた賢い映画だった。