「胸糞悪さと痛快さの詰まった復讐アトラクション・ムービー」プロミシング・ヤング・ウーマン ニコさんの映画レビュー(感想・評価)
胸糞悪さと痛快さの詰まった復讐アトラクション・ムービー
ポップで心地いい映像と音楽、主人公キャシーが仇達に加える制裁の段取りの小気味良さ。殺伐とし、まさかと思いながらほっこりとしかけ、すぐさまどん底に突き落とされる絶叫アトラクションのような筋立て。
そんなエンターテイメント性たっぷりの物語の底に横たわるのは、レイプ被害の救いのなさ。人生を砕かれ周囲にも理解されない被害者と、何事もなかったかのように人生を謳歌する加害者、その残酷な構図だ。
医大の同級生によるレイプ被害と周囲の無理解を苦に自殺した親友ニーナの無念を晴らすことに一身を捧げるキャシー。レイプ主犯の男がイギリスにいて復讐のチャンスが巡ってこない間も、類似の男達の退治に余念がない。やがて主犯の男が帰国するとの情報を得て、当事者達への復讐行脚が幕を開ける。
キャシーの復讐の基本セオリーは、「相手をニーナや自分と同じ精神状態に置く」ことだ。「お前が同じ目にあったらどうする」と言葉にしてみればありふれた台詞だが、キャシーは手加減なしでそれを実行する。そしてレイプをした当人だけでなく、ニーナの訴えを信じなかった傍観者も、女性であろうと制裁対象だ。
声をあげにくく、社会に理解されづらい状況にある被害者と、そんな被害者の弱みに付け込んだ加害をし、罪悪感のかけらもなくのうのうと生きてゆく加害者。この理不尽さは、キャシーのような「前途有望な若い女性」がその立場を投げ打って復讐するに足るほど深刻なものであるということだ。何故なら、その行為はニーナのような「前途有望な若い女性」の命を奪うほどの重さを持つのだから。
男性の描写がとにかく容赦ない。キャシーの罠にひっかかる男達、レイプ事件の当事者、道端の作業員といったモブにいたるまで。一見どこにでもいそうな男達が、キャシーの前でゲスな姿を晒す。初手ですぐゲスさが判明するタイプから、根深いところに隠し持っているタイプまで。
男性が鑑賞するとちょっとげんなりするのではと思うほどだが、どうにか救いのある描き方をされる男性も二人だけいる(それが誰かは、最後まで見極めが必要だ)。女性の傍観者もキャリーから手の込んだ仕打ちをされていることを合わせて考えると、男性対女性という対立構造のみでジャッジするわけではない、という意図も感じた。「女性の味方」といった括りに収まる作品ではないのだ。
相手の受ける傷や人生など一顧だにしない無自覚な加害者と想像力のない傍観者は、さまざまな状況の中に存在する。キャリーは彼らの被害者の怨念を全て背負って闘う仕置人のように見えた。
基本的に胸糞悪い話なのに、娯楽性の高いサービス精神旺盛な作りとキャシーの復讐手腕の痛快さに、もう一度見に行きたくなってしまう。フェネル監督(女優でもあり、キャリーが見るメイクアップビデオにちらりと登場している)はこの作品を「ポップでかわいくて楽しい感じの毒入りキャンディ」と言っているが、まさにぴったりだ。
エスタブリッシュ層の一部、いわゆる〝勝ち組〟男子の中で一番タチの悪い連中が炙り出されてましたが、善し悪しの問題とは別に、現実的には一定の比率で存在しますよね。
そして悲しいことに、現実世界では一定比率の女性が、圧倒的に不利な状況にいます。仮に裁判という戦いで勝ったとしても傷は女性のほうが圧倒的に深い。
せめて映画の世界だけでも、と思わずにはおれませんでした。