「共感と反感という新しさ」茜色に焼かれる R41さんの映画レビュー(感想・評価)
共感と反感という新しさ
なぜ生きなければならないのか?
社会生活を強いられる人間だけが持つこのような普遍的問いかけが大昔から今まで問い続けられるのは、おそらくその答えを自分で見つけなければならないからだろう。
同じ人など存在したことはない。
それ故すべての人の人生と苦悩は異なり、だからこそすべての人が持ってしまうこのような問いかけには各々で答えを出す必要があるからこそ、このような作品は作られ続けるのだろう。
生きる理由
すべての歯車が狂っていたケイ
彼女の生い立ちから現在までのことを聞いたリョウコは「何でケイちゃんがいくつもいくつも…」と言葉を失う。
そこに見た強い共感
どん底の人生に加算された中絶手術と余命宣告
さて、
この作品に込められた普遍的テーマは、普遍的だが千差万別だ。
特にリョウコの生き方には共感とある種の嫌悪を感じてしまう。
彼女との考え方の違いは多くの視聴者に共通するように思う。
彼女の人生を作っているのは絶対的なものではなく、リョウコの独断的思考による。
そこに共感と反感が共存している。
ここがこの作品の新しさではないかと思った。
何もマイナス部分がないのであれば、夢とか志などが人生を最高のものにするだろう。
しかし、リョウコのようにマイナス面を抱えてしまうことで人生は一変し、生きるためにお金の必要性に迫られる。
そうして彼女特有の思考によって自分自身を苦しめていることさえわからない状態となる。それが問題かどうか考えることさえできない。
そもそも受け取りを拒否した汚いお金と生きるためのお金の差とは何だろう?
それこそがリョウコの心の根源にあるモノだ。
小さなカフェを生活の基盤としていたが、夫の事故死と受け取りを拒否したお金
やがて始まったコロナ渦
カフェは潰れ、バイトに加え風俗にまで手を伸ばすしかなくなった。
誰にも理解できないリョウコの心情
彼女は夫の愛人の娘の養育費を支払い続ける。
夫の父の老人ホーム費用も。
その他の支出が事細かく作中に表示される。
いちいち計算はしなかったが、その額はケイが言ったように確かに赤字だろう。
この字幕はそれが「現実」であることを強調する。
では、
リョウコの考え方は間違ったものなのだろうか?
問題はリョウコの考え方なのだろうか?
夢や志という人生における鉄板的概念
しかしそれは生きる知恵ではあるが絶対に必要なものではないと思う。
それがなければならないということはないのだ。この作品の出発点でもある。
リョウコが信じた生き方には多々疑問が残るし、ジュンペイも母さんの考えがわからないと何度も言っている。
それでも自分で決めたことを掟のように頑なに守ることをポリシーとしている。
それでもそれは間違いではないのだということをこの作品は伝えている。
神様という概念
それは夫が新興宗教にハマったことにも関係するが、リョウコが息子のジュンペイに教育するように話すことでも表現されている。
それは最後の彼女のお芝居のタイトルであり、彼女が神に問いかけていることこそ彼女の本音なのだろう。
つまりリョウコは神の存在を信じながら、この苦境に人生の意義を問い続けているのだ。
「神様、それ以上に私に生きる意義を問うのか? これ以上私を試すのか?」
これこそが彼女が生きている間中問い続けようと決めたことなのかもしれない。
生きる理由がなくなったケイに対し、リョウコにはサチコの娘の養育費と義父のホーム費用と息子の養育費等を支払い続けることが自分自身の生きる意義にしているようだ。
そうでもしなければ足元から一気に崩れ落ちる。
負荷をかけることで生きる理由を作り続けている。
しかし、
ケイが言ったように「もうギリギリ」なのは間違いない。
偶然出会った幼馴染と当時抱いた恋心。
同時に限界生活からの解放を夢見たのは間違いない。
夫が死んで、初めてそんな気分になったのに…
リョウコのただならぬ決心を、ジュンペイは気づく。
男に怒りをぶつけたことで落ち着きを取り戻す。
自宅でケイとジュンペイと3人で食べた牛丼はさぞ旨かっただろう。
さて、
この作品の主人公リョウコ
夫が死んで7年間酒を断ち、風俗店で働きながらも支払いを続け、少しの愚痴をケイに吐露する。
「なめられてる」
有島から 彼の周囲の裕福な奴らから 世間から ジュンペイの学校から バイト先の店長から 風俗店に来る客から…
そして、クマキからも。
ずっと抑えてきた怒りの爆発
この部分は共感する。
やったことはそれでよかったと思う。
しかしこうした原因は結局のところ彼女自身ではないのか?
傍から見た普通の感想だ。同時に感じる反感。
リョウコは、いったい何と何を天秤にかけているのだろう?
突然の夫の死 好きになってしまった男 その愛人と娘の存在 ジュンペイの存在
夫を虫けらのように殺した有島 一切なかった謝罪 その悔しさ
一瞬で消えた夫と彼の人生 夢 希望
これらが一塊となって片方の天秤の上にある。
それに釣り合うために必要だったのが「苦しみ」だったのではないだろうか?
愛や希望や夢と対局のもの
逆に言えばそれを失った苦しみ
その苦しみは言葉で表現できないものの、愛人と隠し子よりも私(リョウコ)の方がもっともっと夫を愛しているという暗黙の叫びが、もう片方の天秤に乗っているのだと思う。
この交通事故は、実際に起きたあの上級国民による事故がモチーフだ。
あの事件でどうしても有罪判決を勝ち取りたかった夫の執念は、死んだ家族への愛の裏返しだろう。
この物語では、お咎めなしという判決の裏返しが、リョウコの生き方を決定した。
もう一つの現実の物語。
彼女は愛人に対する思いと、夫の娘の存在、それらすべてを引き受けることがでることが自分自身の在り方だと信じたのだろう。
それを間違っているとは思わない。
それはどうしようもないことのように思うが、どうしようもないようにしている彼女が実際にいるのだ。
「もうギリギリ」
そこから彼女は一縷の希望をクマキに託そうとした。
裏切り
単に遊びだった。離婚したというのも嘘。
リョウコの決心はよく理解できる。
さて、
この作品に頻繁に登場するルールという概念
それはそもそもリョウコが自分自身に課した掟 愛した夫を何が何でも受け入れるための手段だったのだろう。
この大前提の「決まり」が派生してどんなルールも守らなければならないという思考になるのか。
しかし、
リョウコはジュンペイにルールを強いるものの、自分はちょくちょく破っている。
おそらくそこにあるのが彼女の人生の「余裕」なのだろう。
ルールを破ることで生じる罪悪感はないとしている余裕が彼女にはあるのだ。
それが彼女を自殺へとは向かわせない。
ケイが託した全財産
リョウコの顔半分に差すオレンジ色の夕日
ここにタイトルの意味が隠されている。
朝日から夜までの間を、現状の人生の色に例える。
陽が差さなくなれば死を意味するとする。
リョウコもケイの人生も、それはずっとどす黒い茜色だった。
しかし最後の夕日のシーンも空はまだオレンジ色をしている。
それは、茜色だと思っていた自分の人生にもまだ余裕があることを意味する。
もしかしたらそれは、ケイの志によってどす黒かった赤がオレンジ色まで回復したということなのかもしれない。
「いつまで経っても夜にならない」
死ぬことができないほど暗い人生が茜色の象徴
その色に焼かれ続けていたと思ったが、色はもう少し明るくなった。
人生は死なない限り朝日から夕暮れまでの色がある。
タイトルに被る小火
人生は火の車
今までそう思いこんでいただけだったのかもしれない。
さて、
そんなことなど思ってもいない母子は、呑気に自転車を乗る。
人生に余裕がある。
この作品のナレーションは最初からジュンペイがしている。
つまり彼はかつてを振り返っているのだ。
そして、母ちゃんのよくわからない考えや行動があっても、自分自身を誇り高く生きようとしていることそのものを感じたのだろう。
だから「この人こそがオレの自慢の母ちゃんだ」と声高に謳ったのだ。
どんな人生にも間違いなどない。
そう決めて生きているという認識があれば、それは誇りだ。
それが誰にも理解されなくても、全く問題はない。
ただその生き方を生きるだけ。その生き方を模索するだけ。
この作品が伝えたかったことだろう。
美しく素晴らしい作品だった。
コメントありがとうございます。
力作レビューですね。
考え抜かれたこと、時間をかけたこと(と言っても早いですね、半日足らずですもの)が分かりました。
監督・脚本は原作なしに無から田中良子という複雑怪奇な人物を
生み出し、まるで生きている人物で、同じ町内に住んでいるかのようでした。
バンドマンのかけた言葉は忘れましたが、「世間さま」という
ゲスで強く人を傷つける言葉だったと思います。
普通、風俗嬢なんかやるより、汚いと良子の意地で貰わないお金で
一般社会は回っているのにね。
無知で貧乏(自ら招いた貧困)だけれど、良子には、なぜかどうしても
否定出来ない後光が差してましたね。