「映画館で観ることができてよかった」茜色に焼かれる 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
映画館で観ることができてよかった
石井裕也監督の作品は「舟を編む」「映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ」「町田くんの世界」「生きちゃった」を観た。中でも前作「生きちゃった」では、どちらかと言えば表情に乏しい仲野太賀を主役にして、主人公を喜怒哀楽その他の感情が一気に湧き上がるような複雑な状況に追い込み、表情の乏しさを逆に禅問答のような表情に見せるというウルトラCの演出をして驚かせてくれた。その上でラストシーンで主人公の感情を爆発させて、心に渦巻いていたものを一気に吐き出させてみせた。それに応じた仲野太賀の演技も見事だったが、その演技を引き出した石井監督の手腕は大したものである。
本作品でもどちらかと言えば地味な演技をする尾野真千子を主演にして、主人公の田中良子をとことん追い込んで、女優のポテンシャルを存分に引き出してみせた。それほど本作品での尾野真千子の演技は素晴らしかった。
最初のシーンの前に、田中良子(たなかりょうこ)は演技が上手いというテロップが出る。そこに本作品の最大の仕掛けがある。以前女優をしていたことがある田中良子は、私生活でもその場その場で求められる行動や発言や表情をする。そのうちにどれが本当なのかわからなくなってくる。
しかし良子を現実に引き戻してくれる存在がある。息子の純平だ。愛する夫の遺伝子を引き継いだ純平。夫が遺した膨大な本が純平の精神世界を広げてくれている。もはや母には息子が何を考えているのかわからない。息子にも母のことがわからない。だから母と息子の会話には常にちょっとした駆け引きがあり、スリリングだ。もどかしいような、的を得ているような会話。その会話から物語が動き出すこともある。このあたりの脚本が凄い。
本作品は印象に残るシーンの連続だが、最も印象に残ったシーンは、学校で良子が担任から息子の成績を告げられるシーンである。このときのヒロインの表情は天下一品だ。尾野真千子の女優としての面目躍如である。
人間は目的もなく、この世界にただ生み出される。どうして生きるのかという問いかけには意味がない。生きているから生きるのだ。そして生きているから死ぬのだ。この不条理を本作品は真っ向から受け止める。永瀬正敏が迫真の演技で演じたピンサロの店長は、哲学的な言葉を普通に話す。それを聞いて良子は高笑いをする。店長が話した真理は重すぎて受け止めきれない。だから笑うしかないのだ。田中良子は演技が上手いという訳である。
シーンの終わりに毎回使った金額が出るのも面白い。資本主義社会の現実は金だ。あらゆることが金銭で動く。しかし田中良子はそれを拒否する。人生の重さを金銭で計られたくない。夫の人生は3500万円ではないのだ。と思いたいのだが、現実は金を必要とする。そのギャップに本作品の面白さがある。
144分という長めの作品だが、それでも削ったシーンが山ほどあるのではないかと思わせるほど、よく煮詰めている。石井監督作品の中でも最も秀逸な作品のひとつだと思う。映画館で観ることができてよかった。
金額表示でいえば、ちゃんと香典渡したんだ!とか、(居酒屋にしては)食事代かかりすぎやろ!とか、面白かったですね。
電話代40円というのが響いた・・・忘れられない。