「理不尽な風評を押し返すだけのパワーはなかった」100日間生きたワニ 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
理不尽な風評を押し返すだけのパワーはなかった
映画というものは文芸であるより先にまず投機の対象だ。紙とペンさえあれば最悪どうにかなる小説や漫画とは異なり、映画は適量の資本が投下されない限りそもそも制作することができない。ゆえに風評の良し悪しというものがきわめて重要になってくる。批評ではなく、風評。批評はカネにならないが、風評はカネになる。ユリイカだの現代思想だので批評家や研究者が知性を尽くして紡ぎ上げた評論より、インフルエンサーがパッと呟いた無責任な毀誉褒貶のほうがよっぽど消費奨励のアジテーションになる。すなわち「興行収入」という数字になる。いや、別にインフルエンサーじゃなくたっていい。なんjだのTwitterだの映画.comだのの片隅に書き捨てられた一口コメントだってそれなりの力を持つ。俺もネットの走り書きを見て映画館に駆け込んだことがないわけではない。
ただ、だからこそ、もうちょっと我々は慎重にならないといけないんじゃないかと思う。我々の無責任な言葉の一つ一つが、「わかりやすさ」を至上の価値とするインターネットという土俵においては専門家のそれを軽々と凌駕してしまうことについて、ひいてはそれによって当該の映画を取り巻く経済的状況が大きく変動してしまうことについて、もっと深く考えてみたほうがいいんじゃないか。
少なくとも、観てもいないのに星0をつけるなんてのは言語道断だ。「観る」という代償を支払うことなく「評価する」という武器を振り回すことほど傲慢で卑怯なことはない。確かに、電通と結託してるとか死に対する思慮が浅いとかいった「100ワニ」というコンテンツに漠然と抱く嫌悪感を『100日間生きたワニ』という一本の映画作品にも同様に向けたくなる気持ちはわかるが、作品そのものを通過しない以上、それらは単なる偏見の域を出ない。偏見の集積が風評となって映画関係者たちを必要以上に苦しめる、というのはどう考えても不条理だろう。大して面白くもない露悪に手を染める前に今一度考えてみてほしい。
さて、そろそろ本編について語ろう。
これだけ良心ヅラで長々と説教に及んだ手前申し訳ないのだが、本作に罵詈雑言にまみれた前評判を押し返すだけのパワーは感じられなかった、というのが正直なところ。確かに、あえて空白の多い空間・時間構成を演出することで原作のシュールレアリスティックな空気感を再現した点や、原作の再演を早々に切り上げ、新キャラのカエルくんを中心とした「事故遺族」らの相互ケアに物語の焦点が移っていく点には、『カメラを止めるな!』の上田慎一郎らしいトリッキーで構成主義的な作家性を感じたし、なおかつそれが「100ワニ」というベースとうまいこと調和していた。
ただ、それ以上に瞠目すべき点は見つからなかった。前半は言ってしまえばほとんど実直に(しかし所々を端折りながら)原作をなぞっているだけだし、死の悲しみからの回復に焦点を定めた後半も、その回復の過程の描き方が凡庸で独善的だった。死の悲しみは同じ死の悲しみを味わった者との間でしか共有しえないという「当事者性」至上主義は安直だし、そのためだけに「辛い過去」を背負わされたカエルくんの存在は、それ自体がどこか人形遊びの人形のような虚ろさを湛えている。
またカエルくん本人の口から不幸エピソードが語られてしまったことによって、それ以降彼に心を開きはじめるネズミくんが、あたかも彼の不幸性に自らの不幸性を見出せたがゆえに心を開いた打算的人物かのように見えてしまっていたのも惜しい。ネズミくんはそうと言われなくても他者の痛みに気がつくことのできる優しく繊細な人だと思う。
概して脚本のトリッキーさや物語の構成のために登場人物の人格が犠牲になっている、そういう印象を免れ得ない作品だったと思う。かといって技術と編集で勝負!といえるほど極端に振り切れているわけでもない。何にせよ上映時間が短すぎて、これでは深まりそうなものも深まらない。いっそのこと2時間尺にするか1クールのテレビアニメにするかしたほうがよかったんじゃないかと思う。