偶然と想像のレビュー・感想・評価
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「女性」を描きながら、言葉で表される以上の何かを描いている映画
すごい映画観た。三本の短編映画で構成されている映画なのだけれど、三本ともすごい。そりゃ、今年の邦画ベストワンだとすでに決めていた「ドライブ・マイ・カー」の濱口竜介監督の作品だし、期待を胸にふくらませて映画館に行ったわけだけれど、想像を上回る出来の作品。今年観た映画のベストワン。濱口監督は女性の描き方が本当にうまい。これまでの作品を観ていれば、そんなことは分かりきったことなのだけれど、もうそう表現するしかない。女性というモデルを描写するのではなく、あるシチュエーションの中に落とし込んで、女性という本質を持った人から想像の上を行く行動を引き出している感じ。登場人物たちを言葉で表せば、一本目の小悪魔、二本目の悪女、三番目の中年女性と野暮な言葉になるけれど、それらのくくりにとどまらないような、彼女らの感情のほどばしりと動揺と自分たちにも分かっていない行動の意外性が、観客の度肝を抜く。これこそ映画としての「女性」の描き方だなあと思う。成瀬巳喜男や増村保三とも少し違う。「ドライブ・マイ・カー」も言葉で表す以上の何かを映画で描いて、画面に刻み込んでいたのだけれど、この三つの短編はその言葉にならない「女性」というか、人間の感情と行動を見事に描いている。一見、普通に撮っているようでいて、抑制された的確な演出、脚本のプロットの巧みさ。本当に映画の表現力の素晴らしさを感じさせる映画作家だと思う。今年のベストワン映画としたい。
濱口カラーに彩られた“組写真”コメディ
『偶然と想像』(英題:Wheel of Fortune and Fantasy)。
国際的評価のあとからでないと評価がついてこない日本映画界の優柔不断さはいつものことながら、それは置いておいても、ある意味でこれからのエリート街道まっしぐらの濱口竜介監督である。
カンヌ国際の脚本賞や国際映画批評家連盟賞などを受賞した『ドライブ・マイ・カー』は、個人的には3時間の長尺にビビりつつも、観終わって納得。年明けのゴールデングローブ賞やアカデミー賞のノミネートもウワサされている。
そして『偶然と想像』も濱口監督作品であり、ベルリン国際映画祭で“銀熊賞”(審査員グランプリ)を受賞した。年に2作品も国際映画祭の主要賞というのが快挙である。
本作は、まるで映画の“組写真”とでも呼ぶべき短編(40分×3本)で構成されたオムニバス形式。長尺の『ドライブ・マイ・カー』とは正反対だ。
短編オムニバスは毎年いくつか企画されているが、ほとんどが玉石混交の企画倒れのことが多い。それは複数の有名監督を並べただけが多く、プロデューサーの“独り善がりのお題”に、監督たちの消化(時間と予算とやる気)が追いつかないだけのこと。
対して本作『偶然と想像』は濱口監督ひとりが自らのコンセプトで独自カラーを出しきった、まとまりのある“組写真”としての完成度を見せてくれる。脚本の評価が高い濱口監督の面目躍如といえる、じつに独自色のあるエンタメ作品に仕上がっている。
構成される3作は、女友達が“いま気になっている”と話題にした男性が、2年前に自分の浮気が理由で別れた元カレであることに気づく『魔法(よりもっと不確か)』。
『扉は開けたままで』は、50代にして芥川賞を受賞した大学教授に落第させられた男子学生が逆恨みから、セックスフレンドの女子学生を研究室を訪ねさせ陥れようとするが、教授の思いもよらぬ対応と、さらに観客も想定外の結末を生み出す。
オムニバスの最後は『もう一度』。同窓会をきっかけに、帰省した仙台で20年ぶりに再会した2人の女性が、高校時代の思い出話に花を咲かせるも、じつは名前も知らない他人同士で、意外な出会いが生まれる。
これらは人間性を突き詰めたマジメなコメディである。いずれも偶然性が生み出す再生・再会をテーマにしており、ひとつひとつ腑に落ちるシンプルさに笑える。最後に登場人物は前向きに人生をすすんでいく。
濱口作品に出演した俳優たちのインタビューなどで、その独特な演出方法のいくつかが漏れ伝わってくる。
素の演技を引き出すために、リハーサルであえて俳優の解釈を排除した棒読みのセリフを執拗に繰り返して積み上げていったり、映画本編では使わない直前のシーンカットを用意して、撮影前に演技させたりなど、俳優の実力を出し切るための様々な演出方法の工夫は興味深い。
結果として、監督が脚本で計画したとおりの登場人物がスクリーンに現れる。作品は俳優本来のリラックスした演技を楽しめる。『偶然と想像』ではセリフが長く、言葉が相当数あるにもかかわらず、長回しで多くのシーンを撮りきっている。見応えと没入感に納得感が伴う。
ベルリン銀熊賞にも関わらず、東京での上映は「Bunkamuraル・シネマ」のみ。東急のル・シネマ”が日本映画を上映するのは、同館が1989年に開業して初めて(33年!)というから驚きだ。
上映がル・シネマのみというのは、その作品性だけが理由ではない。実は、コロナ禍がもたらした映画館経営の危機回避のために始まったミニシアターのオンライン同時上映のトライアル作品であり、有限責任事業組合Inclineが提唱する『Reel』で公開される作品だからだ。
ところが「ネット配信と劇場の同時公開作品は、全国チェーン劇場から排除される」という業界の面倒なルールがある。
これによって昨年ディズニー作品がハシゴをはずされ、それ以降の同社作品は大ヒットから遠ざかっている。つまり“ミニシアター文化を守るため”という大義があっても、ベルリン銀熊賞の受賞であっても、本作の拡大上映はままならない可能性が高い。
限られたミニシアターが「満員御礼」になるという意味で目的は果たされるのかもしれないが、全国で拡大ヒットするかもしれない可能性は摘まれてしまう。ここに本意ではない、もどかしい現実がある。
(2021/12/17/Bunkamura ル・シネマ/Screen1/H-05/ビスタ)
独特な透明感
「魔法(よりもっと不確か)」が良い。
モデルの芽衣子(古川琴音さん)とヘアメイクアーティストのつぐみ(玄理さん)が、タクシー後部席で交わす会話に引き込まれた。
思わず脳内で芽衣子と同じようなツッコミを入れていました…が、ある場面以降、予期していなかった展開に 😳
玄理さん、この作品で初めて知りましたが、雰囲気のある魅力的な女優さんですね。
映画館での鑑賞
【言葉の持つ力】
「ハッピー・アワー」や「寝ても覚めても」、「ドライブ・マイカー」、脚本の「スパイの妻」でも感じられた濱口竜介さんの言葉の巧みさとか、言葉の持つ力を感じさせる作品だと思う。
この作品には、短編ということもあるが、大きな場面転換はほとんどない。
そして、説明も少ない会話劇だ。
観る側にも想像力が必要になる。
更に「ハッピー・アワー」や、「ドライブ・マイ・カー」でもそうだったように、綴られる言葉が、俳優の力を最大限引き出しているようにも感じられる。
それぞれ、
偶然のもたらす切なさ、
偶然を装うことによってもたらされた偶然の悲劇、
偶然ではなかったが偶然を装うことによってもたらされる希望が、
「偶然」を題材にとったかたちで、更に、ユーモアを多く盛り込んで、様々な物語が創り出(想像)されるのだ。
また、興味深いのは、主人公の相対する相手が、主人公の思い描いていた人物像と異なっていることに内心慌てている様がよく表れているところだ。”想像と違った”…とか。
どこか思い込みの激しい僕たちに重なるようで笑ってしまうし、タイトルと関連がないとは思うけれども、どうだろうかと少し考えてしまった。
こうした細かい言葉のやりとりや演出が、更に、言葉で交流する重要性を示しているような気がする。
※ ここ追記 → なんか棒読みって揶揄してるレビューあるけど、シチュエーション考えたら、演出として棒読みのように聞こえるんじゃないのかしら。突然、親友の彼氏が元カレとか、相手を陥れるつもりが…とか、名前思い出せないとか人違いとか…。
(以下ネタバレ)
心の中にずっと秘めていたことが、偶然によって葛藤を巻き起こし、選択を迫られた結果、吹っ切れた新たな一歩になっていく。
良からぬ計画が、別の形の交流になり、どこかで期待が膨らむが、変な偶然が、実は不本意な一歩になってしまう。しかし、最後のバスの中のシーン。他二作と違い、ちょっと暗示的な気がするのは、僕だけじゃないと思う。
偶然だと勘違いしていたことが、今度は偶然を装うことで、心のどこかにあった、わだかまりを取り去り、希望の一歩になったりもする。
昨今、TwitterをはじめSNSの影響なのか、紋切り型の文章や表現が多くなって、それは映画のレビューでも同様に思う。
でも、よく考えたら、思慮して話しをせず、感情に流されて言葉を発する人は昔からたくさんいたような気もする。
教養も影響するとは思うが、昔の人には教養とは関係なく、激昂して、言葉が短調になる人だらけだった。
まあ、きっと、この作品にも、合う合わないとか、キャクホンガーとかよく目撃されるレビューは出てくると思うが、さまざまな感情を、可能な限り言語化してみることは意味のあることだと思う。
自分の言葉で綴り自分を表現したり、多くの会話で相互の理解を深めたりすることは必要だろう。
ユーモアもあって、なんかとてもステキな作品だった。
三話目好き
ドライブマイカーの濱口監督作品✨
タイトル通りの偶然が引き起こすストーリー展開
三話オムニバス映画
長回し多いですね
ときどき、ドライブマイカーっぽいところありますね
男優の人たち、棒読みというか、感情をのせない淡々としたセリフ多いですよね
掛け合いとか、
台詞をただ言ってます的な
監督の意図だと思いますが
言葉をしっかり観ているものに伝える為なんでしょうかね?
いつもの渋川さんなら感情たっぷり演技な役者ですが、感情を殺した演技でした
役に合わせてなんでしょうけど
この中では、三話目のもう一度が好きなストーリーです✨
少しほっこりする感じが良い☺️
観ている方達も少し笑い声が
年配のご夫婦など
最後笑顔になっていて
それをみて映画館を後にする
映画も、観ている人たちも総合して、ちょっぴり豊かな気持ちになりました
おっ、そうきたかが充分楽しめた
『ラブアクチュアリー』のように心が暖まります。
思いもよらない偶然で生まれたシチュエーションだからこそ、思いもよらない自分の心の声や、自分が本当に望んでいたことや言いたかったことを言葉にしてみる。そして、言葉にしてみたら、実はもっと違うことも見えてくる。
そんな経験は、たぶん誰にでもあると思います。
と思っていたのですが、昨日見た『私はいったい、何と戦っているのか』の主人公は言葉にしないのです。
すべて呑み込んでしまいます。
そうですよね。
そういう人もいるはずです。
もちろん、いいとか悪いということではありません。
自分の意思や心の内の表明は、表明しないことも含めて人それぞれの選択です。
※意見が言える言えないというのは、生来的な気質に負うところが大きいのかもしれませんが、『マトリックス』に象徴される広い意味でのシステム(コンピュータ世界というより社会体制や社会的な規範のようなもの)にがんじがらめにされている現代では、周囲の人たちからは、その人の気質でなく選択として受け止められてしまうと思います。だから精神的に病んでしまう人も多いのだと思います。
でも、この映画を見てると、もしかしたら間違ったこと、或いは思っていることと違うことを言ってしまうかもしれない、それでも、その時なりの精一杯の言葉を発することは何か思いもよらなかった違う何か、違う感情が生まれるかもしれない。それで一歩か半歩かは分からないけれど、少しは前に進める。
希望というほど大袈裟ではないけれど、生き方についての新しい何かが見えて来る。
そんなささやかな勇気が湧いてきます。
第一話
『街の上で』の青とイハの長い会話のワンカットを彷彿とさせるタクシー車内での会話がなんとも秀逸。
第二話
瀬川教授〜❗️
その後の人生が心配です。気になって気になって…
私の場合、佐川と聞くと急便よりも理財局長という言葉が浮かんで、いい加減にしろ❗️と血圧が上がってしまいます。
第三話
マスクが定着したため、『アレ?見覚えがあるな、あの人』と感じることが前より増えましたが、マスクをとったらまったく知らない人という可能性も高いのでやり過ごしてました。
でも、この第三話を見てしまった今、人違いかな、と思っても取り敢えず、声をかけてみようかな、という気分になってしまいました。
むしろ、間違ったままのほうが虎屋の羊羹をご馳走になれるかもしれないし…
クリスマスとは特段関係のない映画ですが、この寒い時期の映画としては、『ラプアクチュアリー』のように、とても心が暖まるのは間違いありません。
短編小説的な会話劇。
アクロバティックな対話ファンタジー小品集
おそらく何をやってもこの方法論で楽しく見れる、そんなスタイルを確立している濱口監督。しかし誰もがこうは撮れないな、という3つのエピソード。
日本人監督として、というか海外の監督としても稀な論理的対話のセリフ劇、哲学的対話〜からのアクロバティックな決着へ。起承転結で考えても見事だな。そしてある種異常でもあるし、ある種リアリティしかないとも言えるこのセリフ劇を普通にこなすメソッドひっくるめてなんだか「円熟」とも呼びたくなる軽やかを持った小品集だった。あのズーム!
恋愛も復讐も再会も、何気ないリアリティから始まって、たいがい予想していた相手が予想以上の何かであって、たじろいで、でも克服していく、まさにゆらぎのドラマのような気がした。吐き出したキャラクターのたくさんの言葉から、また別次元の世界が生まれてそこで決着をつけていく、まさにFortune and Fantasy。親密な関係では話せない個性的な悩み、異様な悩み、わだかまり、が他者(赤の他人)へだからこそ炸裂する、というか他者だからこそ踏み込める私的悩みがファンタジーを生む、というか。
ちなみに劇場内はいっぱいで、ゲラゲラ笑えるくらい盛り上がりがあったし、確かに笑えるのだけど、その笑いじゃなくてもっと巨大な穴にスポッと入るのと同時なのでよくゲラゲラ笑えるな、と思いつつ観ていた。
しかし、配役もよく考えられている。ここはそこそこのキャリアでなくては、という人とここは初々しくていい人で、というか。楽しんで創造してる感じがしてよかったな。
日本映画の系譜じゃない監督
日本映画に「海外で大絶賛!」というキャッチコピーがあっても、具体性やプライズの内訳がないばあい、それはフォックスやワーナーやUIP(など)の海外映画部のアジア担当のバイヤーさんがとっても気に入ってくれた──ていどの話だと思われます。(憶測です。)
わが国で「海外で大絶賛!」を常用したのは、言うまでもなく日本をだいひょうする映画監督の園子温監督です。
ほんとは「担当さんがすごく気に入ってくれた!」ですが、それだとキャッチフレーズとして弱いため、かたっぱしから「海外で大絶賛!」と謳ってしまった、わけです。
その結果、まるで園子温がほんとに海外で大絶賛されているような錯覚を観衆に植え付けてしまった──のでした。
さいわい、このほど公開された海外進出第一弾のPrisoners of the Ghostland(2021)(の大コケ)によって「海外で大絶賛!」がマスコミの盛り報道だったことを自ら証明してくれましたが、今まで、絶賛されていないものを絶賛されていると持ち上げられ、ましてや、日本をだいひょうする映画監督に祭り上げられて、園監督もさぞかし迷惑していたことでしょう。
濱口竜介監督のドライブマイカーは海外で大絶賛されました。多数のプライズが根拠です。カンヌで脚本賞など4冠。アジア太平洋映画賞、シカゴiff、デンバーiff、ハリウッド批評家協会賞、ニューヨーク批評家協会賞。オスカーのレースにも入っていて、カイエデュシネマやインディーワイアも推しています。つまりほんとに海外で大絶賛されました。
ですが「ドライブマイカー!海外で大絶賛!」という謳いをあまり見ませんでした。
(憶測に過ぎませんが)濱口監督は映画をつくることも、映画を見てもらうことも、日本マーケットに限界を感じているのではないか──と思いました。
(TV出身者の映画・映画監督を除いて、)日本映画界は閉ざされた昭和ポルノ作家の宅老所です。古参がそれなら新進もみな裸の王様です。むしろどうやってロマンポルノを知り得たかわからない若い世代が先達とおなじロマンポルノをつくるのです。(such as:21世紀の女の子)。そんな古井戸で、世界を知らない蛙たちと競い合ったとて、なんのいみがあるでしょう。
寝ても覚めてもやドライブマイカーや本作も海外のマーケットから逆輸入的なマーケティングが為されたと感じました。海外のまともなアワードを獲ってしまえば、日本の権威的批評家が何と言おうと、疎外される心配がありません。
50年代を黄金期として70年。それだけ長い月日ならば、いくらなんでも日本映画から日本映画的でない人が出てきてもふしぎはありません。濱口竜介監督のウィキペディアに『ジョン・カサヴェテスの『ハズバンズ』から大きな影響を受けたことを公言している。』とありました。日本の映画監督にそんな人はいなかったと思います。
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三篇のオムニバス映画。
話が面白い。画は日常だが、なんとなく非日常なおちがつく。
それも明解なおちではなく、倫理でも教訓でも不条理でもない、なんかふわりとした所へおちる。
寝ても覚めてもを見たとき、棒読みと棒演技が、東出昌大と唐田えりかの特性だと思っていた。ところがある。
この映画の渋川清彦を見て。ちがう。と思った。
渋川清彦が演じる教授は棒読みなだけでなく能面だった。
役者の演技が演技指導によっている。ことがこの映画でわかった。
となると演技がへたと世評のある東出昌大は、もしかしたら演技がうまいのかもしれない。わたしも誰かの演技について、うまいとかへたとか評定してしまうことがあるが──そもそもが、いいかげんな主観・見識にもとづいている、とは思っている。
たとえば木村拓哉は俳優キャリアのさいしょから今にいたるまで演技を云々される人だが、ドラマの主演として厖大なキャリアがある、だけでなく、演じてきたすべての役に「型破りなキャラクター」という共通点がある。
これは謂わば三船敏郎のような人物固有のダイナミズムで、したがって、木村拓哉がへた、という言い分は、三船敏郎がへた──の位相とすごく似ている。
三船敏郎が一貫して演じたのは「豪快なキャラクター」だった。よしんば三船敏郎がへただった──としてもキャラクターを確立している以上、へたを補ってあまりあるダイナミズムがあった。といえる。じっさいにあった。
木村拓哉も、そういう種類=リアルな演技ではなくキャラクタライズが売りの俳優だと言える。三船敏郎が「豪快なキャラクター」を身上としていたなら、木村拓哉は「型破りなキャラクター」を身上としている。じっさい、どの映画/ドラマでも間違いなくその配役が為されていた。
そして役者がキャラクターそのものに魅力を持っているならば、演技がへたかうまいかで、役者の価値ははかれない。という話。である。
ところで、能面でやってくれ──は、わりとよく知られた小津安二郎の演技指導方法だと思う。俳優は、小津映画の佐分利信みたいに、あるいは本作の渋川清彦のように、演技指導によって、能面や棒になる。
ところが強いキャラクターをもった俳優は、演技指導どうりの役作りにおさまらない。それ以前に、演技指導によって映画をつくりあげたい監督は強いキャラクターを持った俳優を使わない。たとえば濱口監督は木村拓哉に能面でやってくれとは言わない。に違いないし、もし使うとすれば、能面でやらなくていい役回りを充てる。と思われる。
ただし、木村拓哉が能面で演じたらぜったいに面白い。で、言いたいのは──渋川清彦を教授にし、能面にして棒にしたのがとてもフレッシュだった、ということ。
わたしはかつてゴールデンスランバーのレビューにこう書いた。
『渋川清彦は、この映画やフィッシュストーリーで見せた演技でブレイクした、はずである。その持ち味が理解されていない──と思う。キャスティングされると、まず間違いなく、だらしない人間、ダメ男、チンピラとして使われる。いったいこの紋切り型の発想はなんなのか、というくらい、一本調子のキャスティングを被る(こうむる)。クレジットされていると、ほぼチンピラ役なのである。
この国の演出家は何を見ているんだろう。(後略)』
ほとんどの映画で渋川清彦はかならずダメ男の役になるのだが、その発想に日本映画の限界があった。と、わたしは思っている。中村義洋監督以外だれひとりそれを解っていなかったが、濱口監督はそのあたりを解っている──と感じられた。
三篇を通しても渋川清彦のキャラクターがいちばん強烈だった。
ただし映画はなんとなく庶民的ではない。
東京は映画の発展度で言うと、ドレッドノート級の田舎なのだが、そこに巣くっているお百姓*の自称評論家が、偶然と想像のような、会話の妙味やロメールやアレンやゴダールやサンス風の「洗練されたすれ違いの零れ話」の映画を絶賛したばあい、かならず権威がまとわりつく。言いたいことが伝わっているか解らないし、映画に罪はないが、そういう権威がまとわりつきやすい映画だとは思った。
(*わたしは田舎の百姓なので百姓が差別用語には成り得ません。)
「偶然」から始まるが、いくつかの「想像」から選んだ着地点には・・・・「必然」がある。
「偶然『を』想像」?
短編3本立て、今一つ自分にはあわなかった。
人生のタイミング
私はこの映画を素晴らしいと思った。
「その人じゃないとダメなのか。
なぜその人がいいのか。」
と常に考えている自分にとっては
とても共感する作品だった。
例えば今付き合っている恋人、
「その人がいいんだ。君じゃなきゃダメなんだ。」
なんて言葉は本当に存在するのかと考える。
別にその人じゃなくなっていいじゃないか?
別れて時間が経ったらまた別の人に巡り合って好きになって関係は作られていく。
こういったやるせないことが
世界には蔓延っていると思う。
第一話 魔法
最後のシーン、なんでも素直に言ってしまうメイコだが
想像力を働かせて自分の気持ちを全て飲み込んで譲った。
好奇心と優しさが混じった人だからこそ
関係を深くこじらせたのだろう。
三者みんなに共感した。
誰も悪くないよな、私はそう思った。
第二話 扉はあけたままで
何を言おうと瀬川は心という扉は常にオープンである。
それが常に扉を開けておいてくれと頼むシーンで表現されていたと思う。
これは大抵の人間が出来ることではない。
自分の弱みを隠してしまうものだ。
自分自身で直視することさえできない人が多いのだから。
曖昧な状態で生きることも並大抵の人間が出来ることではない。
言語化できない場所で生きる人を私は否定しない。
それを才能だといった瀬川に私も救われた。
第三話 もう一度
その人じゃなくてもいいんじゃない?
その人じゃないとダメなの!
という境目を行ったり来たりするお話。
夏子の心に空いた穴はその人でしかないと埋められなかったのか。
いや、そうじゃなくても埋められたのではないか。
人間は偶然を重ねて巡って生きていく。
この手放したくなかったというやるせない気持ちを
とても上手に表現していた作品だった。
人生、タイミングっていうのは常につきものだなと思う。
仮にこの映画があまり好きでなかった人も
数十年後に見たら好きになってるかもしれない。
あまり響かなかった人は、
きっと相手が傷つかないように
相手優先で生きている人だろう。
そういった人はもっと自分本体で
生きたてもいいかもしれない。
様々な出会いと経験によって
考えは変わっていくものである。
その偶然性を楽しみながら
濱口監督は生きているのだろうと感じた。
わー!😵新しい〜映画だ! 演劇✖︎映画だ!
凄いぞ。
この台本(脚本)は、世界言語に訳しやすい。
つまり、世界の人に、伝わる(理解できる、考えさせるも)!
だからか、映像に隙、無駄がない!簡素。
だから、演者に芝居っぽさがない。
などを、思いながら見ていたら
あっという間に、終わっちゃった😢
目をつぶって、もう一回
映画を聞いててみたい。だめ?
古今東西の共通の真理
いつもの映画館で封切初日に仕事を2時間早退
最近このパターンが多い
ドライブマイカーに続くスクリーン鑑賞
3話のオムニバスですごく見易い
オラのバイオリズムに合う
3話とも1対1の会話で成り立つという
役者の技量を求める内容
現代的なトピックも織り込まれているが
会話から登場人物の気持ちの変化が起こるのは
古今東西の共通の真理のような気がして
興味深い
①は小悪魔にしてやられた 男ってバカだ
ひょっとして②も③もこのパターンかと身構えたが
そうでなくてよかった
バカヤロー私おこってます!!になってしまうところだ
②はコントそのもの
録音データの存在を知らされた教授の
何てことだ…というセリフからの展開
③は仙台が舞台で単純に嬉しい
エスカレーターは仕事帰りにほぼ毎日利用している
道路を挟んだ逆側の方だが
河井青葉と片岡礼子を混同してしまう
この監督の映画 極めてノーマルな美人がよく出てくる
寝ても覚めてもの主人公とかドライブの妻役もそうだった
監督の好みなのだろうか
間違いなくオラの好みではある
おそらく今年最後の映画館 いいモノ観た
終了後は街中華屋でセルフ忘年会
19時くらいだったが客はオラだけ
生ビール2杯とギョーザとニラ玉
2軒目のはなまるうどんで〆
久々のかけうどんとコロッケといなり寿司で満足
フラフラ歩いていたら 街に人はそこそこ出ていて嬉しい
年末だもの 飲め呑め
駅にたどり着き
いつもと逆側のエスカレーターを昇って帰った
③の主人公は昇った後左に向かったが
新幹線に乗るなら真っ直ぐなんだが…などと思いつつ
帰路キロにつく
オラは誰ともすれ違わなかった
プラトニック
偶然」と「想像」をテーマにした繋がりのない3話のオムニバス。
魔法(よりきっと不確か)
友人から話された最近気になる男が自分の元彼で、という話。
いやいやいやいや、怖いは!キモいは!面倒臭いは!と突っ込みたくなる女と、中途半端さを見せ始める男と…「想像」で良かったw ☆3.0
扉は開けたままで
教授に落第させられたことを逆恨みする大学生のセフレが、彼の仕込みでハニートラップを仕掛ける話。
扉の件を含め、これはある意味「プレイ」ですねwそういう趣味はないけれど、わかりますwwバスの件も嫌いじゃなかったけれど、その前の方が良かった。 ☆3.5
もう一度
町で偶然出会った高校の頃の同級生2人の、あの頃の理想と今のギャップと思い出話と。
ウイルスの件は必要ですか?というのと、会話の流れで家に着く前から判ってしまったのは勿体なかったけれど、それでも笑いに持っていってくれたし、若者の様な盛り上がりをみせる2人とその内容に温かい気持ちになった。 ☆3.0
3話ともまるで違うシチュエーションにまるで違う展開だけど、どれも会話劇の様相だし、味付けは結構似ている感じだし、どれもマジメな話しと思わせつつのコメディでしっかり笑わせてくれるし、それでいてちょっと痛かったり優しさを感じたり。
全話とも面白かった。
【”偶然”と”創造”というキーワードを三つの短編に異なるスタイルで織り込んだ見事な作品集。濱口監督の”日常”を描いた捻りの効いたオリジナル脚本のレベルの高さにも驚かされる作品である。】
ー 今作は、三話から成り立っているが内容的な繋がりはない。
だが、”偶然”と”創造”というキーワードを盛り込んだ脚本のレベルの高さには、三話とも驚かされる。
2時間1分が、あっと言う間に過ぎる作品である。
■第一話 「魔法」(よりもっと不確か)
・三角関係をモチーフにしている。
仕事で関係があり、親友でもあるメイコ(古川琴音)とツグミ(玄理)が、仕事終わりに夜のタクシーの中で交わされるツグミが気になっている男性カズオ(中島歩)との何気ない”会話”が、秀逸である。
そして、メイコはツグミが下りた後、タクシー運転手に声を掛ける。
”今、来た道を戻って下さい。”
メイコはあるビルに入って行き、事務所に残っていたある男に絡み始める。
そして、見ている側は、その男がメイコが2年前に振ったカズオである事が”会話”の中で分かる。
最初は、怒気をはらんだ言葉が飛び交うが、徐々にカズオが未だメイコに未練を持っている事が分かってくる。
ショットは変わり、ツグミとメイコが喫茶店で話していると、窓越しにカズオが現れる・・。
- この後の、同一シチュエーションの二つのシーンの見せ方が、絶妙に巧いのである。-
■第二話 「扉は開けたままで」
・セフレの男子大学生に依頼され(彼は芥川賞を受賞した教授の単位が取れず恨んでいる。)にハニートラップを巧妙に仕掛けようとする女子大生奈緒(森郁月)と、教授との”会話劇”。
教授の書いた本の、可なりエロティックな文章を読む奈緒の姿。
見ている側も、ドキドキしてしまう程の緊迫感である。
それを聴いていた教授の言葉
”そんなに綺麗な声で、読んで貰えて嬉しい・・。”
その言葉を聞き、”ハニートラップを仕掛けていた・・。”と哀し気に告白する奈緒。
教授は”その録音をEメールで送ってくれないか・・、”と頼み、”あるお願い”を教授にした奈緒は自宅に帰り、録音データを教授に送るが・・。
- ”何が偶然だったのか”が明らかになるシニカルなラストシーンが印象的な作品。-
■第三話 「もう一度」
・高校の同窓会に出席するために、東京から仙台にやってきた夏子(占部房子)と仙台駅のペデストリアンデッキのエスカレーターですれ違った女性(河合青葉)。
20年振りの偶然なる再会を喜ぶ二人であったが、女性の自宅を訪れた夏子達は”意外な事実”が判明し、愕然とする。
だが、二人は”意外な事実”が分かったからこそ、言える心の重荷をお互いに吐露し、解放され、抱き合う。
ー 偶然と思い込みによる想像が、二人の女性の心の重みを解き放つ。二人がペデストリアンデッキの上で抱き合う姿をロングショットで写し取ったラストシーンが良い。-
<三話とも、構成と脚本のレベルの高さに驚く。
何気ない日常の中に起きる”偶然”と”勝手な想像”を愛と裏切り、悔恨と再出発などをモチーフに描き出している作品集。
資料によると、濱口監督は、同種の短編をあと4本製作する予定だそうである。
期待して待ちたい。
それにしても、濱口監督の脚本の高さは、長編だけでなく短編でも発揮されるのだな、と思った見事な短編集でもある。>
<2021年12月18日 刈谷日劇にて鑑賞>
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