「名作の予感がする」偶然と想像 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
名作の予感がする
濱口竜介監督、脚本による三部作である。いずれも女性の愛と性をテーマにした人間関係を描く。仏教用語で言えば「縁起」の本質に迫ろうとした作品とも考えられる。仏教の「縁起」は原因と条件の関係性を主要概念とするからだ。
第一部は二十代、第三部は四十代の年齢の女性が主人公である。第二部だけは年齢が不確かだが、およそ三十歳前後と思われる。時代設定は現代ないし近未来だ。観客は身構えずに鑑賞できると思う。
古川琴音が演じた二十代は、幼児が自分の存在を主張するように自己肯定感で一杯だ。子供は仕方がないが、大人になってもそういう人は、周囲から見ると鬱陶しい存在である。他人の場所や心の中に、文字通り土足で踏み込んでくる。中島歩の台詞にあったように、ほとんどストーカーだ。他人の価値や権利を認めず、自分との比較で上か下かだけを唯一の価値観とする。常に他人と勝負しているようなもので、本質的に共生はできなタイプである。精神医学で言えば、アベシンゾーと同じ自己愛性人格障害だ。救いがない。
友人を演じた玄里の台詞回しがびっくりするほど上手かった。古川琴音よりも10歳上の分だけ演技に幅がある。34歳だが二十代の役もまだまだこなせる。注目女優のひとりに加えることにした。
森郁月が演じた推定三十代は、二十代とは逆に自己肯定感の低い役で、自尊感情の強い人に負けて言うことを聞いてしまう傾向にある。不良の手下、いじめっ子の取り巻き、それにブラック企業の社員などが同じ傾向を持つ。どこかで自分を肯定したいが、壁に跳ね返されるばかりで、自分はこんなものだ、こんな人生なんだと諦める。
芸達者の渋川清彦に棒読みの台詞を読ませたのは、本を読んでいるかのように森郁月に聞こえさせたかったためだと思う。わかりにくいが、森郁月が教授に会いに行ったのは、もしかしたら教授から自己肯定感が与えられるかもしれないという無意識の淡い期待があったためだとも考えられる。そこに必要なのは説法であって、感情ではない。渋川清彦が無感情で話すことに意味があった。
占部房子が演じた四十代は、精神的に安定していてホッとする。とはいえ、心の中では自己肯定と自己否定の相克が常にあり、何かにつけ心を揺さぶられている。相手役の河井青葉が演じる主婦は、心が動かない生活を嘆く。日常にドキドキすることもワクワクすることもないと言うのだ。そこに現れた見知らぬ女が、何か異質なものを持ち込もうとしている。物的には何も変わらないが、精神的には大きく心を揺さぶられる。それが嬉しい。
占部房子と河井青葉。いずれも四十代の女優で落ち着きがある。演じたふたりのそれぞれの心の中では理想と現実、希望と絶望、執着と諦観といった割り切れなさがあるのだろうが、生きていくことには前向きだ。このふたりの芝居は演技も自然で、いつまでも観ていられる気がした。
本作品は脚本も演出もとてもいいし、役者陣の演技も素晴らしく、たくさんのシーンが心に残った。名作の予感がする。