狼をさがしてのレビュー・感想・評価
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「真の右翼」とは何を守る者か
社会学者の宮台真司は、従来日本で「左翼」だとされていた人々は、実は精神史上は「真正右翼」的メンタリティで行動していた、と指摘していた。一水会元代表、鈴木邦男の『腹腹時計と〈狼〉』を参照しながら、宮台は「真の右翼とは『情念の連鎖』(を支えるプラットフォームの護持)に連なる者だ」と鈴木は喝破している、とする。
東アジア反日武装戦線〈狼〉・〈大地の牙〉・〈さそり〉のメンバーたちは、過剰で痛々しい程の「加害者性」を意識していた。だから、他国への加害をノンシャランとスルーして、戦後の繁栄を謳歌する企業が許せなかった。政治家ではなく、自分たちと「同じ」国民の厚顔無恥に耐えられなかった。連続企業爆破事件は、そんな彼らの闘争姿勢の帰結だったのかもしれない。そしてまた、天皇御用列車爆破未遂事件は、赤子たる国民の「父」への復讐だったのだ。
さて、宮台はこう整理する。「鈴木(邦男)さんは、よど号ハイジャック事件(70)で『意気に感じた』三島由紀夫が自決事件(71)を起こし、それで『意気に感じた』党派に属さぬ個人の集団が三菱重工爆破事件を起こし、それで『意気に感じた』野村秋介が経団連会館襲撃事件(77)を起こしたことに、『情念の連鎖』を見出します」。「党派に属さぬ個人の集団」とは、東アジア反日武装戦線〈狼〉のことだ。『狼をさがして』でも、朝鮮総連メンバーの文世光のパク・チョンヒ大統領暗殺未遂事件に呼応するかたちで、三菱重工爆破(74)が決行された、と説明されている。そう、東ア反日武装戦線は、「意気に感じて」行動を起こす真正右翼の心性を持つ人々だったのだ。ドイツ文学者で評論家の池田浩士は、本作中のインタビューでこんなふうに語る。「暴力を考える時、それを持ってふるえるのは、圧倒的に権力の側だということだ。個人の側なんて、微々たるものだ。彼ら(東ア反日武装戦線)のやったことは、その瀬戸際にあったのではないか。当然、ひとを殺してはいけない」。
東アジア反日武装戦線に、暴力によらない、より穏健な活動はあり得たか。その命題を受け継いで、様々な市民運動はこれからも続いていくだろう。
サソリは優しい虫なんだよね
理由は忘れてしまったけど。
東アジア反日武装戦線のことを扱った映画を今年見られるとは。なんとも驚きであった。劇場もほぼ満席で、でもそれはわかる、自分が若い頃に比べたらネット、スマホで知ることができる、けどこういうことはやはりclosed で、手に入る情報はかぎられている。
東アジア反日武装戦線のこと、そして、彼らを長く支援する支援連の方たちのこと、死刑制度のこと、さらに東アジア反日武装戦線の武装闘争あるいはテロの背景にある歴史と現在。それらのことを、さまざまな語り口で語られる心情や事実や主張でゆっくりと一緒に考えながら進んでいくような。
池田先生がおっしゃっていたと思うが暴力を振るえるのは権力者の側であり、暴力とは圧倒的なか権力側が持っているということは事実であり、それと闘う側は何をもって戦っていくのか。最近読んだ王力雄氏の私の西域君の東トルキスタンという本でも、
確かに、テロリストはルールを無視し、しばしば民間人や民間施設を攻撃目標とする。だが彼らは劣勢であるが故に、もしルールを守っていたら、何も達成できない。
というようなくだりがあり、もちろん他の方も同じことはたくさんいわれているし、実際に劣勢な方はよくで石礫、どころかなにも戦う術がないことも強いられている。綺麗事ではない、いかなる場合においても、人が人の命を取ること、人が他の人を殺すことは許されない。東アジア反日武装戦線のメンバーや支援者たちは、過ちに気づき反省を重ねそして人の命を奪わないことを全うするために死刑制度反対に連なっていく。
人の命、無差別に民間の人の命や人生を損傷したことに過ちを見出しながら、でも、それでも、、という、さらに巨大で理不尽な暴力搾取差別犯罪に対抗する気持ちもあると思う。
日本のような他者への共感力が希薄な社会では、東アジア反日武装戦線的な考えや行動は広く理解されないだろう。身近に問題があること、在日外国人へのヘイトとか入管問題とか研修生の問題とか、今も同じ文脈同じ理不尽さのまま何も変わらず戦中戦後からほぼメジョリティとしてはかわらず継続している、つまり暴力装置を巨大に持ってるがわは何も変えようとしていない。このもどさしさは、つい、他人の命に対し、でも、それでも、、という気持ちを生んでしまうような気がする、ほんとにもどかしく折り合いつけがたい。そんなことも考えながら、、東アジア反日武装戦線か面白いのは初めに組織ありき、組織と綱領ありき、ではない参集の仕方、そのことも示す具体的ネーミングだなあ、などと、まとまらないことを様々に思った。
傍観者、無関心者であってはならない、、、
も、
日帝本国人
テロは絶対に許されない!そんなことはわかっているが、彼らを暴挙に駆り立てたのは一体何だったのだろうかと興味津々で鑑賞。まずは「日帝」という言葉そのものが懐かしい。学生運動のすっかり収まった時期に大学に入ったのに、学内には極左過激派の立て看板が残っていた。
映画の内容は2000年代になってから「狼」を中心とする過激派を追いかけるドキュメンタリーだったが、素顔はほとんど見えず、支援者だった人々のインタビューが中心。そして、繋ぎの映像は「ここを爆破したらどうなるのか」と問いかけるような橋が靄に包まれているような雰囲気。全体的にガスがかかった暗い絵が多い。
共感できるところはほとんどないのだが、最も印象に残ったのが日本人は中国や朝鮮に行った暴挙を忘れてしまったということだった。70年代は朝鮮特需によってもたらされた好景気と一億総中流という意識の時代。学生運動も衰退し、過激派は市民の賛同・支持も得られない。結局は暴力に訴えるしかなかったのだろうか・・・知らんけど。
映画はどちらかというと懐古的で、否定もしなければ美化もしない、淡々とした印象も残る。しかし、今の世の中、歴史修正主義者が跋扈し、中国人・朝鮮人の徴用さえなかったことにしようとする。さらに、コロナ禍で総中流意識さえなくなった現在、好景気以前の状態に近いのではなかろうか。歴史をもう一度鑑みるにはいいきっかけを与えてくれる作品だとも言えるのです。最近、謝らない、言い訳しかしない、反省しない人間が周囲にもいるのだけど、素直に謝る気持ちくらいは持ちたいものだ。
また、青森ねぶた祭りを死ぬまでには生で見たかったけど、その気がなくなりました・・・
【”哀しき狼たち。” 様々な暴力の在り方、加害者意識と被害者意識、そして真の民主主義とは何であるかを考えさせられる重き作品。】
ー 年代的に、”三菱重工本社ビル爆破事件”はリアルタイムでは認知していなかった。
私がこの事件及び、「東アジア反日武装戦線」の存在を知ったのは、事件後可なり後年、学び舎で”法治国家において、超法規的措置をどう考えるか”と言うテーマで討論していた際である。ー
◆鑑賞スタンス
・”テロはどのような大義があろうとも、許されない。”という当たり前のスタンスで鑑賞。
であるので、”三菱重工本社ビル爆破事件”後に「東アジア反日武装戦線」から出された声明文には、激しい嫌悪感を催した。
何ら罪のない、8名の命を奪われた人と385人の重軽傷者に対して、”彼らは、日本帝國中枢に寄生し・・”と言うコメントは許し難かった。
・だが、その後、大道寺将司の慚愧に堪えない想いが、俳句としてナレーションされる辺りから、やや観方が変わった。
被害者の方々や遺族の方々への、深い謝罪の言葉。
自らの行為への深い悔いを現した俳句の数々。
ー 日本が犯した過ちに対して、別の方法を考えつかなかったのだろうか・・。
”若気の至り”ではすまないだろう・・。ー
・”近隣の国々”の日本への被害者意識を、今一度キチンと理解する事。
”日本を支援していると標榜している国”への被害者意識を忘れない事。
そして、且つて行ってしまった事に対する加害者意識を忘れない事。
但し、「東アジア反日武装戦線」が行ってしまった”誤った加害者意識”による行為に走らない事。
◆京都大学教授の言葉は、ズシンと来た。
・本当に大きな”暴力”とは、官僚主義による”暴力”であったり、司法当局による”暴力”である・・。
ー 再後半、映し出された故、大道寺将司宛てに送られていた膨大なハガキ、封書が段ボールに積まれているシーン。
そして、彼にはその膨大な支援の声が届けられていなかったという事。
学生時代に叩きこまれた
”如何なる人物にも人権はあり、その人物が犯した過ちを裁く際には、人権を尊重した上で適正な法の裁きを下す。”
と言う司法の根底を揺るがすシーンであった。
更に言えば、当時あのような事件を起こした首謀者に対し、擁護する者もいた、と言う事実も明確になったシーンでもある。ー
<この国は、民主主義を標榜しているが、真の民主主義が機能しているのだろうか。
真の民主主義が遂行される国になるには、私を含めた一人ひとりの国民の日々の意識を変える事の大切さ、
”現状を是とせず、カントリージェントルマンの如く、行政府の行いをきちんと確認する事”
を、今一度思い起こさせてくれた作品であった。
そして、今後この国を背負っていく若者たちに、
”今の日本は、オカシクナイカ?”と言う意識を持ってもらう必要性と、時には諭す必要性(不惑を越えたら、そういう事をしなければいけないでしょう、微力だけれど・・。)を感じた映画でもあった。
・嬉しかった事 今作を鑑賞していた観客の半分程度がお若い方であった事である。
<2021年6月13日 刈谷日劇にて鑑賞>
思い出ビデオ……??
とんでもない愚作を観た、と言うのが、観終わっての素直な感想でした。ドキュメント映画として必要な最低限の取材、調査、整理、思索、編集、昇華、思想、等々、何れも見出すことができませんでした。言うなれば、内輪の集まりで上映される素人の思い出ビデオのようなものかと…。こういうものを、ドキュメント映画と言うのであれば、他のドキュメント映画に失礼ですし、全く心が動かなかったですから、プロパガンダ映画と言うのも、他のプロパガンダ映画に失礼です。ただし、ある作品が愚作であるか否かは、最初から最後まで観ないと判断できませんし、愚作であってもそれを表現する自由は、絶対に尊重される必要がありますから、このような作品でも映画館で上映される機会を得たことは、とても素晴らしいことだと思います。
この映画を作ったことだけはすごいと思う
たぶん、ほとんどの人は共感しないであろう映画を作ったこと、また、そんな映画を上映する映画館があることだけはすごいと思います。
毒にも薬にもならない映画が多い中で貴重な映画です。
観客は「狼世代」(60代後半から70代)だけだろうと思っていましたが、結構、若い人がいたので驚きました。
人生を振り返る意味で60才以上の方には見ていただきたいと思いますが、若い人は見る必要なし。その意味ではR-60
日本社会の「成熟」を強く望む
非常に深い作品だ。本作を韓国の監督始めスタッフが作り上げた事にも驚いた。もちろん、藤井たけし先生の企画や研究、助言があればこそだとは思うが、キム・ミレ監督の深い洞察力と、物事の本質に迫るセンスには敬服する。
本作は、三菱重工本社ビルからスタートする「連続企業爆破事件」についてのドキュメンタリーではない。
ここを履き違えると、本作の主題や制作意図をまったく理解出来ない可能性がある。
爆破テロなど、当然断じて許される事ではないのだ。これについては、当事者も関係者も、誰一人、弁護も擁護も正当化も美化もしていない。
この惨たらしい事実には一切弁解の余地は無い。獄中の東アジア反日武装戦線(以下、東戦)のメンバーは、自己批判と総括を繰り返し、紛れもない「殺人者」である自分の罪を悔い、極刑という罰を受け入れていた。議論の余地はないのだから被害者側のインタビューは不要だ。
また、韓国社会における「反日」の思想をアピールするものでもない。
監督はそれらすべてを俯瞰する視点で東戦メンバーの闘いの意味を描き出していく。この映画は「東アジア反日武装戦線」とはなんだったのか?を問うドキュメンタリーなのだ。
本作では、2人の人物のインタビューが強く心に残った。
1人目は東戦メンバー救援活動に携わる太田氏。(救援と言っても太田氏は爆破事件については厳しく断罪している。しかし、彼らが受けた量刑の重さは「国家権力による報復措置」の感は否めない。
深い悔悟と反省を得て自らの罪に向き合った者に、社会復帰の機会は赦されないだろうか?「救援」というのはそういう意味だ。彼らは人を殺傷しないようにと爆破予告もしている。現在であれば、おそらく人的被害は出なかったであろう。)
興味を唆られたのは、爆破事件裁判において東戦の主張は、70年安保の学生達とも違う「理解されない新しいもの」だったという点だ。
今でこそ「自虐史観」という用語で否定的に語られる(糾弾される、と言った方が適切か?)思考に近いと思うが「日本人は侵略者、加害者の末裔である事を自覚し、反省と悔恨からスタートせねばならない」という認識に根付くものだと思う。
「全共闘世代は加害を強調する自虐を好む」というイメージが世間にはあると思うが、これは決して学生運動の時期に形成されたものではないらしい。
ならば自虐史観は、三菱重工爆破以降、東戦の主張に共鳴した人々の中で、70〜80年代にかけて発生・増幅していったのではないだろうか?という仮説を抱いた。
キム監督は「日本の(東戦、及び賛同者の)反日は、敗戦後、侵略戦争の「加害事実」を語らずに、原爆の「被害事実」だけを叫ぶ日本に対する、(同胞の)批判」つまり「自民族中心にだけ思考する事に対する問題提起」
対して、「韓国の反日は
「被害事実」を中心に持続してきたもの。(やはり、自民族中心の思考)」
だから、韓国も日本も近現代史において「自らの加害事実について語ろうとしないのは似通っていると思う」と述べている。
キム監督ほどの人であれば、ベトナム戦争時に、韓国軍がベトナム民間人に対して、どれだけ非道な凌辱と虐殺を行ったかは当然知識があるだろう。監督はそんな部分で日本を非難などしない。
強制連行はあったかなかったか?
そんなもん、あったに決まっているだろう。同様に、アフリカ人のアメリカ強制連行もあったに決まっている。
英国がアフリカ人を捕縛し、アメリカに奴隷として売り飛ばしたのだって事実だ。欧米列強の猿真似をしていた日本が、当時の「世界的常識」を踏襲しなかったという方が信じがたい。
外交カードとしての戦略なのかもしれないが、歴史的事実を隠蔽する洗脳紛いの喧伝には辟易する。
そんなところは拘泥するような事じゃない。
まぁ、なんにせよ自虐史観の歴史はどうやら浅いらしい、という気付きを貰った。
2人目は、池田浩士京都大学教授の「暴力を考える時、それを持ってふるえるのは、圧倒的に権力の側だということだ。個人の側なんて、微々たるものだ。原発事故で命を失った人数は三菱爆破と比較にならず膨大だが、それはあまりに大き過ぎて注目されない。」という話だ。
東戦は、精神的に未熟な若者達が正義感から暴走し、取り返しのつかない過ちに至ってしまったが、しかし、その動機に私利私欲は微塵もない。
彼らの動機は「数多くの国民を過酷な労働と搾取で死に至らしめる事を疑問にすら思わない、横暴な権力に対する強い怒り」なのだ。
釜ヶ崎や三谷にいる者は搾取される労働者であり、丸の内にいる者は帝国主義に寄生する植民者だ!とした彼らの主張は、視野狭窄な屁理屈に過ぎない。
しかし、レーガノミクスに代表されるような新自由主義による著しい経済格差に対して、見て見ぬ振りを決め込む姿勢はどうだろうか?
原発事故の処理現場に送り込まれる労働者は誰か?誰かを死地に追いやる「危険の外注化」は自己責任論で片付けていいのか?
貧困老人の問題、独居老人の孤独死、社会底辺層の急増。
現在、日本の就業人口における15%、1000万人以上がアンダークラス、即ち貧困層に陥っている。平均年収は200万円に満たない。
これらの問題はすべて、東戦メンバーが闘おうとしてきた系譜に連なる。
太田氏は、日本の現行司法・行政制度、加えて社会の未成熟度にあっては不可能だが、と前置きし「死刑確定した東戦メンバーが、社会の中で生き直す事を夢想する」と仰る。
「世界で1番貧しい大統領、ホセ・ムヒカ」は、元武装ゲリラで獄中生活を送っている。しかし、武力行使を悔い、
刑期を終えてからは合法路線に改め、粉骨砕身、人々の為に活動を続けたところ国会議員に選ばれ、やがて大統領に就任する。
対して、東戦メンバーの浴田由紀子氏は66歳で刑期を終えるが「テロリスト」として近隣住民に拒絶され、郷里に帰りたくとも帰れない。
ムヒカを大統領に選ぶ国を思えば、日本社会の未熟さを憂えてしまう。
キム監督は、2006年に日本の観客から「日本の日雇い運動の前身は東アジア反日武装戦線だ。彼らの映画を作って欲しい」と言われたそうだ。しかし当時は自分に力量が無いと断念。
ドキュメンタリー監督としての技量アップに努め、2014年から資料や有識者探しに奔走。2021年本作公開に至る。
なんと、15年間という歳月を費やした作品であったか。深いメッセージ性にも納得だ。
「狼」は、近代文明により滅ぼされたニホンオオカミに由来する。
歴史上、近代文明の犠牲にされてきた東北や北海道の美しい映像と音楽が、「狼」が守りたかったものを叙情的に訴えかけてくる・・・。
レビュー評判の低さに、くだらない作品なのかと鑑賞を取りやめるか迷ったが、本当に観て良かった。
日本、そして東アジア諸国の社会的成熟を強く望むものである。
韓国ならではの反日映画
被害にあった企業はそれなりの事をしてきたのだから人を殺傷した事は良くない事だが理解出来るみたいな流れで北海道や半島 アジアを侵略くし戦後も罪を問われる事なく活動してるから報復されても仕方ないんだよみたいな説明でごく一部の皇室反対派や開拓団が犯罪に加担されたと感じる人の表現で当時を知らない人達は間違った歴史感を学んでしまう むしろそれが作った側の目的!
作品には共鳴しないが、映画館はガンバレ!
公開直後に「イメージフォーラム」で観たので、かなり忘れてしまったが、論評する価値のない、ひどい作品だと思った。
本作の韓国人監督は、文在寅のような“日本ヘイト”主義者ではないだろう。
しかし問題意識として、「共感のような感情」(マネー現代 2021.04.24)があったことは認めている。
いわゆる“敵の敵は味方”という心情だろう。
そもそも「彼らが自国の加害性に対して向き合おうとしたことは、評価できる」とし、一般の日本人はそうでないと見ている時点で、全く話にならないが、しかしこれが韓国における支配的な認識だと思われる。
ドキュメンタリーとしての質も、決して高くない。
「東アジア反日武装戦線」に3派あったことなど、情報を得ることができたが、しっかりと歴史を語ろうとしているようには見えない。
大道寺将司をはじめ、当時のメンバーはほとんど残っておらず、“支援者”など端役による無意味なインタビューが目立つ。
監督にとって“心地良い”ものだけが取捨選択されている、一面的な作品という印象だ。
というわけで、全く無視していた作品であったが、今日ニュースで「街宣車による抗議活動」があることを知った。
自分たちだけが“日本人”だと勘違いしている連中が、また騒いでいるようだ。
“反日”という言葉は、彼ら以外の意見を持つ日本人は“非国民”であるという、極めて僭越な見方の反映だ。
自分は作品には共鳴しないし、「日本の極右 vs 韓国の極左」なら勝手にやってくれという感じだが、言論の自由が侵害されるのであれば別問題だ。
映画館にはガンバレ!とエールを送りたい。
なんで作ったの?
なんで今頃こんな作品を作るのか、何の意味があるかが気になるポイントでしたが……
いや、ほんとなんで作ったの?
旧日本軍ならびに、旧体制の日本企業がしてきた、支配環境下での仕打ちに対し、韓国で補償を求めた裁判などの社会背景を受けての、「日本でも怒ってくれた人々がいた、そのルーツをあかそう」みたいな意図は、うっすら感じはしたのですが。
浅い。
切り取り方が一方的、恣意的で、加害者側のみを追ったドキュメンタリー。
被害者については、新聞紙面を映すのみ。
すでに老齢に達した元囚人や家族、支援者たちが、老人たち特有のもったりした抑揚ない喋り方で淡々と。
長い年月と、熟考の末に出てきたにしては、躊躇いながらの、自己弁護と正当化、過去の志の賞賛……
見てて眠い。眠すぎる。
あの時代、学生運動くずれの左翼活動家が幼稚な論理で、身内の考え方だけが正義と偏向した挙句、テロに走っただけなのは既に様々な記録、証言、分析、裁判、ルポルタージュなどを通じてはっきりしているわけで。
たしかに戦時下に日本がしでかした、外国人労働者への不当な扱いは、簡単に許されるものではないとは思う。
元の感情が、優しさや歴史認識の反省から生まれる「怒り」であるのかもしれない。
けれども、どんな義憤であろうと、正義を騙ろうとも、テロの肯定にはなりません。
それを肯定してしまうと、オウム真理教や、911すら正義になってしまう。
戯言(ざれごと・たわごと)だ。
またドキュメントフィルムとして考えた時、編集も単調、社会的意義も薄く、主張を読み取れといった作り方は不親切だし、質の低さ・稚拙さに、純粋に「つまらない」としか感じられなかった。
上映に対し抗議をした団体がいたようだが、これ本当につまらないので話題になって広がるとは思えず、下手に騒がずほっといたほうがいいんじゃないかと思いました。
不思議な後味をのこす
イメージ映像的なシーンが繰り返し用いられたり、映像で語らずに朗読などの言葉で語る場面が多いなど、映画の手法としては稚拙で物足りないものなのだが、インタビューをうけている人たちの言葉には、長い葛藤の年月を経て得ただろう強い確信と信念が感じられ、引き込まれるように最後まで観た。彼らが暴力闘争に至る動機となった過去の事実を丹念に調べ提示することで、単に過激派の闘士のその後をルポするというものにとどまらない、厚みのある内容となっている。東アジア反日武装戦線が取り組もうとした日本の侵略性、日本人の無意識のうちにある植民地主義的性格を、あらためて、静かに問い直す作品である。
余白
静かな映画であった。
途中何度か寝かけた。
つまらなかったわけではない。
DVDが出たら買おうと思っている。
映画は、主人公とも言うべき「狼」のリーダー・大道寺将司が登場することなく、彼の獄死によって不在のまま終ってしまう。主な登場人物は、服役中の爆破テロ犯の支援者の方たちであった。彼・彼女らの日常や語る言葉が、霧のかかった(釧路の?)風景と共に映されていく。そこには、中心もなければ、起承転結もない。
明確なメッセージが立ち上がってくることはないが、鑑賞中は自分の中で言葉がむずむずしていることに気付く。その言葉もまた、はっきりとした意見や主張にはならいのだが、このむずむず感は大切かもしれないとも思った。
「暴力(テロ)はいけない。だけど……」「戦争犯罪に頬被りするのは許せない。だけど……」敢えて表現すれば、この様な言葉になるのだろうか。「暴力はいけない」「戦争犯罪に頬被りするのはいけない」等の、分りやすい主張から零れ落ちる何かが、この映画では喚起されるのかもしれない。
中心も起承転結もメッセージもないが、それらの余白において何かが生まれるような予感を感じさせる映画であった。
テロ集団の本質を明らかにした
東アジア反日武装戦線は幼稚な人間たちの集団だったという印象だ。終映後のトークでの二人の男性が東アジア反日武装戦線を前向きに評価する風な話をしたのを聞いて、ますますその印象が強くなった。評価の仕方が感傷的だったことが大きいが、事実を間違えた発言があったことも大きい。二人のゲストのひとりは会場に来ていて、もうひとりは長崎からオンラインでの参加だったが、会場に来ていた方の男性は、三菱重工本社ビルの爆破で8人の死傷者を出したと発言していた。これは明らかな間違いで、正しくは8人の死者と380人の負傷者、もしくは400人近い死傷者と言うべきである。この間違いは大きい。この男性はデータさえもきちんと把握しないで情緒的に発言しているという訳だ。狼という名前がカッコいいなどと低レベルの話もしていた。テロ集団の分析は情緒でなく正しいデータを踏まえた上で論理で行なわなければならない。終映後のトークはあまりプラスになることはないが、今回のトークは明らかにマイナスになってしまったと思う。
東アジア反日武装戦線のメンバーの多くは学生である。日本が大東亜共栄圏と嘯いた戦争でアジアの人々に甚大な被害を一方的に与えたことについて、国を挙げて戦争に加担したにもかかわらず、誰も反省していないことを糾弾する。そして朝鮮戦争とベトナム戦争の特需によって急激な経済発展を遂げた中で、戦争の加害に対する補償や謝罪はもう十分に行なったという雰囲気が醸し出され、豊かになった生活を暢気に楽しむ世の中が許せない。特に、戦時中から朝鮮半島の人々や中国人に強制労働させた挙げ句に、彼らのうちで反旗を翻した人間を皆殺しにした企業が許せない。だから企業を爆破する。これが彼らの理屈である。
理屈はともかく動機が何だったのかと考えると、それは彼らの怒りだと思う。怒りを生む元になるのは常に被害者意識だ。国家権力を日本帝国主義と決めつけ、戦争で被害にあった人々、労働力を搾取された貧しい人々、差別され虐げられた人々と自分を同化させることで被害者意識が生まれ、怒りの感情が生まれる。社会に理解してもらえないと考えることで怒りはますます募り、孤立して過激な手段を想像し、正当化する。
当方も街で警察官の集団を見かけると妙な気分になる。石川啄木ではないが、強権に確執を醸すようなところが当方にもあって、権力に対する憤りと恐怖がない混ぜになった複雑な感情が湧き起こるのだ。しかし常に冷静になって思う。確かに警察は暴力装置である。国家が暴力を独占しているのは国民が国家に暴力装置の存在を許し、それが国民の生命、身体、財産を守るために機能することを期待してのことである。現在は国家権力が正しく機能せず、権力者を守るために暴力装置が働いている部分もあるが、一方では私的な暴力や詐欺から被害者を守っている部分もある。
そもそも民主主義はヴォルテールが言ったとされている「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」という言葉、つまり表現の自由と権利に支えられている。それは寛容の精神とも言われ、互いに互いの発言の権利を認めることである。
日本の戦後民主主義について語られることで外すことが出来ないのが「寛容のパラドクス」というテーマである。大江健三郎が恩師である渡辺一夫さんから課題を出されたエピソードで有名だが「寛容は不寛容に対しても寛容であるべきか」という問いかけである。
東アジア反日武装戦線の人々には、寛容についての考察が不十分であったと思う。それはつまり、民主主義についての考察が不十分であったということである。怒りの感情を爆発させることは大抵の場合不幸な事態を招く。テロを実行する前に少しでも表現の自由や寛容のパラドクスについて考えれば、自分の意見が通らないからといって他人を殺傷するのがどれだけ幼稚であるかに気づいたはずだ。しかし彼らは気づかない。子供が自分の幼稚さに気づかないのと同じで、東アジア反日武装戦線の人々もまた、視野狭窄で自分のことが見えなかったのだと思う。
本作品は日本語で語られる部分が殆どだが、韓国映画である。変にテーマを振ったりしなかったから、登場人物は思うままに発言していたと思う。その発言から彼らの本質が透けて見える。つまり被害妄想と独善的な怒りと視野狭窄が、東アジア反日武装戦線というテロ集団を支えていたのだ。その図式は実はどのテロ集団にも当てはまると思う。トークのゲストはそのあたりについて何も触れることが出来なかったが、映画としてはテロ集団の本質を明らかにしたことで、意味のある作品だったと思う。
【昔の話…?】
何か新しい発見があったかというと、ちょっとインパクトに欠ける気はする。
「声の罪」のレビューでも書いたことがあるが、昔、都内の繁華街の居酒屋でバイトをしていた時に、近所のバーのマスターが、「腹腹時計」という爆弾製作を記した冊子を持っていると聞いたことがあった。
三菱重工ビル爆破事件で使用された爆弾の設計書だ。
あの居酒屋は、ビルを建て替えてまだ営業しているが、バーまではあるか確認できなかった。
こうした時代の学生を中心とした運動は、思想を背景にしたものと、そうでないものと区別して考える必要があると思う。
映画でも動機付けは語られるが、この事件を主導した「狼」や、あさま山荘事件を起こした連合赤軍は特定の思想をベースにしていて、共感を広げられなかったことも要因となって活動が過激化したのではないかと思う。
言い方は悪いが、自分の気持ちを上手く言い表せない子供が、周りの人に当たり散らすみたいな、そんな感じだろうか。
これに対し、全共闘は、大学の巨額の使途不明金を巡る学生の大学自治の拡大の要求がベースで、三里塚(成田)闘争は、民有地の取得問題や、騒音問題を背景にした反対運動が発端だった。
ただ、こうした運動でも、いつの間にか過激な行動に出るものが参加し、問題をあらぬ方向に導くことがあるのは、批判されるべきだし、アメリカの#BlackLivesMatterにも、暴力で訴えるようなものが出てしまうことがいることを考えると完全に防ぐことが難しく、こうした運動の難点でもある。
話を戻すと、こうした爆破活動を厭わないような思想が遠い遠い昔のことのように考えている人もいると思うが、もう一段社会が成熟した後に発生した、オウム真理教の弁護士一家殺害、松本サリン、地下鉄サリン事件は、僕は同じ類のものだと感じる。
聞いていて、合理的な動機付けがあるようには感じられないし、当然、当時も共感は得られていないし、そこで、なぜ自分たちは理解されないのだろうかと不満を蓄積させることなったのだろうか。
どう考えても稚拙感は拭えない。
また、これほどまでとは言わないが、物理的な暴力に発展してはいなくても、ネトウヨが好む民族思想や人種差別思想は、ネットを騒がせることは多い。
大村愛知県知事のリコールを主導した連中も、特定の思想を背景に持つ輩たちで、結局、民主主義の根幹を揺るがすような不正署名事件に発展している。
人の命を殺めてはいないが、これも思想をベースにした危険なものであることは間違いない。
宗教でいうと、イスラム原理主義はフォーカスされることは多い。
キリスト教にも原理主義に近いものがあるし、社会の価値観の移り変わりと折り合いをつけることが出来ない人はきっとなくならないのだ。
だからこそ、教育の平等を徹底させる試みや、客観的で合理的な教育プログラムや、社会格差の是正は必要なのだと思う。
※ 僕は、うがった見方かもしれないが、三菱重工ビルが狙われたのは、密かに東條英機の息子が働いていたことも要因じゃないかと思ったりする。戦争犯罪とは関係ない人だし、故人には申し訳ないけれども。
典型的なプロパガンダ映画
非常に良くない映画だと思う。
それは、探しているはずの「狼」をろくすっぽ探してないとか、死刑囚には会えなかったってあっさり諦めてるとか、そんな理由ではない。
典型的なプロパガンダ、アジテーション映画だからだ。
洗脳的と言ってもいい。
この一見懐古主義を装っている映画は、
中身に非常に良くない内容が含まれている。
反日は韓国とリンクし、
それはアイヌに、なぜか日雇労働にとリンクしていることになつている。
それは、監督が韓国人だからで、
もとは西成で話を聞いたからだとわかる。
でも、日雇労働は在日か?とか、学生運動と日雇労働に関係が?とか、もちろんゼロではないことを大きくみせていく。そして、それを強引に話を進めていく。
中盤、意味なく恐山の映像が流れる。そこに墓があるかのように。墓なんかあると一言も言わないし、イタコに関係もない。
また、
冒頭に「反日武装戦線」はタブーであるというが、
タブーではない。いくつも作品もあるし、テレビでも流れている。
でも、この映画では、日本ではタブーということになっている。
さらには、反日武装戦線側からのみの一方的な描写。
本来なら、被害者側の描写もあるべきだ。
しかし、この作品はそういう、細かいことからきちんとやってないから、いや、むしろ、わかったうえでやらないから、プロパガンダと言わざるを得ない。
それは他にも多数ある。
むしろ、全編そうだと言っていい。
思想犯が、
思想を変えないのであれば、
警察、公安はマークするべきだ。
いや、マークしなくてはいけない。
そして、それはこの作品の監督もしかりだ。
なぜなら、プロパガンダ映画だからだ。
一方的かつ美化した薄っぺらい作品
観ている間、ムカムカが収まりませんでした。
なぜか?美化と偏りが甚だしいと感じたからです。
僕はドキュメントで尚且つ過去の歴史に関わる内容であれば、公平であれ。と考えます。その客観的な視点の中から製作者として見えてくるもの、事を作品として昇華させ鑑賞者に提示して考える機会を与えるもの、、、と思います。あくまで主観ですが。
その点で考えると本作はどうなんだろ?って思います。
以下、もしかしたらネタバレ相当の内容になっているかもしれませんので、ご注意ください。
本作の監督は、取材した対象の方々の話や韓国で報じられている内容のみで事実として扱っていないでしょうか?歴史や報じられている内容の検証しているのでしょうか?そのための取材はしたのでしょうか?
武装戦線メンバーの話ばかりに光を当て、彼らの言い分、支援者の言い分のみを映像化しているようにしか見えません。
失礼な言い方になりますが、美味しそうな題材を見つけて、それを取材した映像を編集してまとめただけのようにしか見えない、非常に稚拙な作品だと感じます。
支援者の方々、旧メンバーの人達の話を聞いてると、あぁ、そう考えていた(いる)のね、ということはわかりますがその根本の、思想の根本に至った経緯や心情の変化もわからなければ、爆破を選択した理由もわかりません。支援者もなぜ考え方に同意できるのか?なぜ、犯罪を犯した人達を支援するのか?がわかりません。描かれるのは表面的な理由であり、「なぜ?」がさっぱりわからないのです。
だから、美化、偏向に見えてしまうのだと思います。
さらに、本作は
「事件の被害者側が全く出てこない」のです。
つまり、被害者視点の語りが全くないのです。
おかしいでしょ?というか、本作に出てきた当事者、支援者には嫌悪しか抱きません。尊い命を奪った償いは何をしてるの?といいたくなります。
罪もない方々を自分達の思想実現のために殺めたにも関わらず、お詫びしますとか歌を詠むとか正直どーでも良いと思いました。支援者も支援するなら指名手配者を見つけることからやれ!って言いたくなりました。
終始、頭でっかちの方々が言葉遊びのごとく話して、昔を懐かしむ、、、一体本作の制作目的はなんなんだ?と。
被害を受けた方々が本作を観たらどう思うのでしょうか?配慮がこれっぽちもないドキュメントです。
言い方選ばずに書きますが、ただの一方的な反日映画なんじゃないですか?と思いました。
ただ、僕は本作で語られる武装戦線の活動動機の一つとなっていた、中国等の方々への強制労働、虐殺の事実を知りません。また、日本が戦争責任、植民地政策の責任をどのようにとっているか?詳細を知りません。本作で描かれた内容を鵜呑みにしたくないので勉強しようと思います。
その機会をいただけた分の点数をつけます。
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