「ニュー・ジャーマン・シネマとマカロニ・ウエスタンの奇妙な混淆物。一見の価値あり。」デッドロック(1970) じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
ニュー・ジャーマン・シネマとマカロニ・ウエスタンの奇妙な混淆物。一見の価値あり。
1970年に公開されたというから、マカロニ・ウエスタンでいえば、コルブッチの『ガンマン大連合』と同じ年で、レオーネの『夕陽のギャングたち』よりは一年前といったところ。
名作はすでに出そろって、セルフ・パロディや多様化のなかで徐々にジャンルが衰退しはじめる時期である。
一方、ニュー・ジャーマン・シネマの流れでいえば、シュレンドルフは『テルレスの青春』(66)でデビュー済、ファスビンダーは69年長篇デビュー、ヴェンダースは70年長篇デビュー、ヘルツォークの『小人の饗宴』も69~70年だから、すでに運動は始まっていたがまだ勃興期、代表作はこれから生まれ出すところといった空気感か。
そんな本作は、外観と物語構造をそのままマカロニ(とくにレオーネの『続・夕陽のガンマン』)からイタダきながら、ニュー・ジャーマン・シネマらしい語り口とテンポ感でオチまで引っ張ってみせる、不思議なテイストの映画である。
スピルバーグはさておき、同じ年に『エル・トポ』を撮っているホドロフスキーや、あの芸風のタランティーノが本作を絶賛するのは、そりゃあそうだろう、むべなるかなといったところ。
まあ、ドイツ映画といえば、ヴェンダースの『パリ、テキサス』(84)だって、パーシー・アドロンの『バグダッド・カフェ』(87)だって、アメリカの荒野が舞台だし、本作の地平線は『パリ、テキサス』の地平線と、本作のキッチュなおんぼろ小屋は『バグダッド・カフェ』のダイナーと、明らかに地続きの代物だ。
しょうじき、ドイツ人がマカロニを撮っても、あまり違和感はない。
結論からいえば、僕はたいへん楽しく観ることができた。
ジュラルミン・ケースにはいった大金をめぐって、発見者たちが身を滅ぼしてゆく話といえば、『シンプル・プラン』(小説、1993)がぱっと想起されるが、本作はまさにそのご先祖のような作品だ。
出てくるのは、単に「キッド」と呼ばれる名無しの若者と、年長の殺し屋「サンシャイン」、そして、小狡くて策謀をめぐらすわりにドジで憎めないダムの三人。この構図は、『続・夕陽のガンマン』(66)(The Good, the Bad and the Ugly)におけるブロンディ、エンジェル、トゥッコとそれぞれ呼応している。とくに黒ずくめの悪漢に与えられた「サンシャイン」という名前は、超ワルなのにエンジェルと呼ばれるリー・ヴァン・クリーフを彷彿とさせる(ちなみに、撮影上は「サンシャイン」を意識してか、太陽のカットと逆光のシルエットのモンタージュが随所で印象的に用いられる)。
アメリカといいつつイスラエルで撮影しているのも、いかにもマカロニらしい(あれは大半がスペインでの撮影だが)。アップの多用、汗と埃と蠅の執拗な描写、地平線を意識したレイアウトも、マカロニを巧みに模倣している。
セリフはもちろんすべて英語。ついでにCANによる音楽もエンニオ・モリコーネのプログレ版といった感じで、明らかにマカロニを意識している。
冒頭、右手にジュラルミンケース、左手にモーゼルをもった若者が地平線から現れ、カメラに向かって歩いてくる長回しから映画は始まる。
どうやらふらふらの様子だ。傾斜から滑り落ちる。どうも銃の持ち方が変だと思ったら、左腕に怪我を負っている。それでもケースは放さない。よほど大事なものが入っているのか。
そこへ通りかかったトラック。気づいて降りてきた髯の男は青年に目をやるが、それより先に落ちているケースが気にかかって仕方ないらしい。中を確認して大金が入っていることに驚く髯男(英語で話しかけるのと、札がドルなので、これがアメリカの話だと知れる)。案の定、男は行き倒れを素通りしてケースをピックアップし車を出すが、何を思ったか引き返してくる。ああ助けてやる気にでもなったのかと思ったら、工具を手に握りしめている。どうやらこのまま息の根をとめるつもりらしい。
しかし青年もさるもの、すでに裏からトラックに乗り込んで銃を構えている。
青年の腕からはいまだ鮮血がほとばしる。傷を負ってから、まだそう時間は経っていないようだ・・・・・・。
とまあ、ほとんどセリフはなくても、「男たちがどういう人間で」「今なにが起きていて」「何を思って動いているか」は、映像だけでほぼ完ぺきに伝わってくる、実に丁寧なつくりだ。
クリック自身はインタビューで「ドイツ映画はすべての要素を説明しすぎるきらいがある。セリフだけでなく、映像によってもだ」と、むしろマイナス要素として語っているのだが、当の本人の「デッドロック」も、思いのほかナラティヴがしっかりしているのは、まさにドイツ人らしいというべきか。
物語は、まず「救った側」のダムと、「救われた側」のキッドの駆け引きから始まる。
銃の奪い合いや押し相撲が頻発するが、それは単なる表象にすぎない。
二人の男は底層で、主導権をどちらが奪うかの、微妙で複雑な心理戦を展開している。
キッドは怪我で弱っているうえに、誰かに弾丸を摘出してほしい。
ダムから見て、キッドは平気で人を殺せる恐ろしい人間だが、いまは弱っていてなんとか勝てそうだ。だが、これからやってくるという師匠格の「サンシャイン」の存在が不確定要素だ。
いっそのこと始末してしまうか。それとも命の恩人として恩を着せるか。
傷の手当をしてやるか。それともそのまま体よく死なせてしまうか。
金を独り占めするか、山分けするか。
シーンごとにダムの心は揺れに揺れる。
もともとダムは、この廃ダイナーの住居で、あたまのおかしい女と口のきけないその娘ジェシーのふたりと、時間の止まったような閉鎖的な世界を形成してきたはずだ。安全かもしれないが、ただ貧しく、何も起きず、死んだような固着化した生活。
そこに「異邦人」が現れて、生活を一変させる(なんだか『狼は天使の匂い』のようだ)。
ふって湧いた大金が心をかき乱す。彼のモノクロだった人生に、色がさす。
ダムは、キッドを拾ったことで、もう一度「新たに息をしはじめた」のだ。
ここに、サンシャインが満を持して登場し、大金をめぐる心理戦は三すくみの状態となる。
さらに女をめぐる駆け引きもあって、三人の思惑、牽制、策謀はぐちゃぐちゃに入り乱れてゆくことに。
ここまで来て、マカロニ的な「娯楽性」「痛快さ」「かっこよさ」と「シナリオ主導の展開」はぐっと後退し、作品は閉鎖空間内での「心理劇」の様相を色濃くする。
映画のナラティブ自体は、最後まできわめてロジカルだが、人間の心理描写は、必ずしも「AだからB」といった過程をたどらない。
閉ざされた空間のなかで、私利私欲と、敵対心と、憎しみと、嫉妬と、なんだかよくわからない共依存めいた感情とがいりまじるがゆえに、三人のとる行動はつねに突拍子もなく、衝動的だ。
その、不条理かつ理不尽でありながらどこか「腑に落ちる」感じは、すこしパトリシア・ハイスミスの小説にも似ているように思われる(ちなみにハイスミス作品はドイツでは人気があり、ヴェンダースほか複数の監督が映画化している)。
サンシャインがダムを扱う姿勢はまんま「いじめっ子」のそれで、そこそこわかりやすい感じもするが、キッドとダムの関係性はもう少し複雑だし、サンシャインとキッドの関係性はさらに混乱をきわめている。
尊敬と信頼。友情。芽生える疑念。対抗心。嫉妬。恐怖。
必ずしも、キッドとサンシャインはお互いの「金」だけを狙いあっているのではない(実際、使い道についてサンシャインはきちんと答えられない)。彼らは「プライド」そのものをやり取りしているのだ。
本作における「師匠と弟子」の関係性への言及は、マカロニおよび本場のウエスタンから引き継いだものだろう。キッドがジェシーの「けがれなき白痴美」に感応する描写を見ると、アメリカン・ニュー・シネマからの影響も垣間見える。
それでも、うつうつと描写される男たちのマウント合戦は、きわめてドイツ人ならではの独自性に富み、有り体にいえば実にニュー・ジャーマン・シネマ的だ。
物語の結末も、けっして居心地のいいものではないし、なぜこうならなければならなかったのかは、しょうじき理屈で考えてもよくわからない。
いたずらに「この結末」を引き伸ばしたがゆえに、いらない被害が出てしまっているようにも思われる。
でも、僕は、この結末を受け入れた。
長い、長い、男たちの心理的葛藤の描写があったからこそ、この凸凹として、持って回った、無駄に不公平でインモラルで非ハリウッド的な(非マカロニ的でもある)ラストに、なんだか得心がいったのである。
ダムを演じたマリオ・アドルフは、いかにも知恵の回らなそうな、浮かばれなさそうな風貌と動きで、キャラクターを真実味のあるものにしてみせた。
キッド役のマルクヴァルト・ボームは、「ドイツのジャン₌ポール・ベルモンド」と呼ばれていたらしいが、どちらかというとミック・ジャガーっぽいし、さらにいえば若き日のダリオ・アルジェントに良く似ている。サンシャイン役のアンソニー・ドーソンは『地獄の謝肉祭』の監督ではもちろんなくて(笑)、『ダイヤルMを廻せ』や『007/ドクター・ノオ』でも殺し屋役を演じた、殺し屋のよく似合うダンディーガイ。シルエットがなにかに似ていると思ったら、『エルム街の悪夢』のフレディっぽい。
その他、ジェシー、ジェシーの母親、巡回の雑貨商も、それぞれよくキャラクターが立っている。
すかっとしたところのない、奇妙なテイストのマカロニ・ウエスタンもどき。
でも、マカロニの枠組みでノワーリッシュな「男の闘争」をやっていると思えば、十分呑み下せるだろう。観る人間を選びそうな気はするが、ジャンル愛好家なら一見の価値はある映画だと思う。
今更感もあるが、日本初上陸をここは素直に喜びたい。