僕が跳びはねる理由のレビュー・感想・評価
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会話のできない自閉症という障害(発達障害のひとつ)を抱える作家・東...
会話のできない自閉症という障害(発達障害のひとつ)を抱える作家・東田直樹さんが13歳の時に執筆し、世界30カ国以上で出版され、現在117万部を超える世界的ベストセラーとなっている「自閉症の僕が跳びはねる理由」が、この映画のもとになっている。自閉症者の内面を語った内容が反響を呼び、世界中の自閉症者、その親や家族に希望と感動を与え続けているエッセイだ。
映画のオープニング、暗闇の中に潮風と波の音が聞こえてきて、灯台の光が闇を一定の間隔で照らす。この作品の全体のトーンが光と闇、音、視覚にこだわりを持っていることが伝わってくる。世界各地のそれぞれ個性の異なる5人の自閉症の少年少女たちやその家族が登場するが、各エピソードをつなぐ少年が海辺などを歩く姿に東田さんの言葉がナレーションでかぶる。
そして、「言いたいことが言えない生活を想像できますか?」という問いかけが見る者の心に突き刺さる。映画は点滅する光や闇の中に浮かび上がるカーテンの揺れ、そこに重なる生活音、扇風機の音、雨音、ブランコの鎖、電力の音などで、自閉症者が見て感じている世界を表現しようとしている。そうやって映し出される場面や音は、なぜか懐かしい。
タイトルにある「僕が跳びはねる理由」とは。感情がないとか、創造的な知性を持たない、また多くの文化で恥とされるといった自閉症者への偏見を東田さんの言葉が覆した。そして、「普通とは何か?」を自らに問い直すきっかけをくれ、“普通”と言われる世界とは異なる世界の見方、感じ方があることに気づかせてくれる作品である。
元となっているのは、自閉症の作家・東田直樹が、13歳の時に執筆した...
元となっているのは、自閉症の作家・東田直樹が、13歳の時に執筆した『自閉症の僕が跳びはねる理由』。
後に世界的なベストセラーになるのだが、英語版の翻訳者が自閉症スペクトラムの彼らからみた世界に興味を持ち、世界各国の自閉症スペクトラムの彼らからみた世界を映像にしようとした映画。
映画は、東田直樹の著書『自閉症の僕が跳びはねる理由』の一節から始まる。
水たまりで飛び跳ねる少年の画。
たぶんにして、著者をイメージしたもの。
そのイメージ映像を仲介にして、4組に自閉症スペクトラムの人々と彼らを取り巻く人々へのインタビューが綴られます。
はじめは、インドの少女アムリット。
ほとんど口を利かず、自分が観た社会の様子を絵にひたすら描き上げていきます。
独特なタッチ。
絵画などに秀でていることは、他の映画でもしばしば見ます。
つぎは金髪青年のジョス。
とにかく、こだわりが強い。
それは、やはり幼い時分からで、これもしばしば映画で描かれていますね。
つづいては男女ふたり。
やや太り気味の女性エマと、眼鏡をかけた黒人青年のベン。
彼らは、家族ぐるみの付き合いをしているようで、きっかけは子どもたちが自閉症スペクトラムだということで、他の子どもたちとは上手くいかなかったから。
ふたりは、アルファベットをボードを用いて単語を綴ることにより、外界のひとたちと意思疎通を図れることが紹介される。
なるほど、海外ではこのような手法も用いられているのね、と感心する。
また、このボードを使っての学習も行っている。
が、このふたり、画面に写されているとき、なんとなく不安そうなのが気にかかる。
特にボードを使って会話する際に、かなりのストレスを感じている雰囲気。
ときおり、エマが「No more... No more...(もう嫌、もう嫌・・・)」と言っているのが微かに聞こえる。
少し、引っ掛かるところ。
さいごは、シエラレオネ共和国でのエピソードで、ここでは自閉症スペクトラム以外の障がいを抱えた子どもたちが異端視されているという、前近代的な内容が紹介されています。
これら4組のエピソードの合間合間に東田直樹の著書の内容の一部が紹介されていく構成を取っているのだけれど、「自閉症スペクトラムの彼らからみた世界」を描くという本人視点からはどんどん離れていき、「自閉症スペクトラムの彼らからみた世界」は私たちはこう見ている的なところに落ち着てしまい、ちょっと肩透かしを食ったような印象です。
というのも、この映画を観る数日前に、アンソニー・ホプキンス主演の『ファーザー』を観たものだから、どうしても分が悪いのは仕方がないことなんだけれどもね。
気持ちは、わかったよ!
しかし、
どうせえ
ちゅうねん!
僕も原作は読みました。
成る程そう言う感覚なんだね。
僕の娘もそうです。
映画の中で親御さんの気持ち
わかります。
恥、恥ずかしい、悪魔に取り憑かれた?
そして
私が死んだ後のこと
1人でこの世界を生きていけることを
ただ祈ります。
驚きと感心と。
自閉症をロジカルに説明した方が存在していたことすら知らなかった自分には、ある意味衝撃的な作品だった。
昔、植物人間になってしまった人の目線で「感情は存在するのに表現する手段がない」といったストーリーを見た時と同じく、「思考や感情があり表現や伝達の方法に問題があるだけ」という切り口は驚いたし、特にアルファベットを指しながら、意思疎通をしている場面には本当に驚いた。
自閉症だけではなく、いろいろな人がいろいろな場面でもっともっと相互理解できるといいなぁ。と素直に思った作品。
観て良かった。
彼らの世界へ
きちんと予告を観ていなかった事もあってかドキュメンタリー作品寄りのタイプの作品で当初は戸惑った。
作品展開も東田氏の著書をそのまま描写にしていくのではなく、著書にある言葉の一部を抜き取りその言葉の意味を追求していくような描写が続く。
良い事なのか悪い事なのか僕がこれまで生きていく中で自閉症を抱える者と深く接して来たことはない。もちろん日常生活を送っていく中でどこかでは接点はあると思うが、良くも悪くも彼らの存在を強く意識し認識した記憶がない。
そのため自閉症というもの自体は知っていても具体的にどういう病気なのか詳しくは分からないし知ろうと努力した事もなかった。
この作品はもちろん自閉症という病気を知るきっかけを与えてくれるが病気そのものの存在を追求するわけではなく、あくまで自閉症を持つ彼らの頭の中、心の中といった彼らの世界の一部を表現化した作品。
そのため自閉症という病気に豊富な知識があるわけではないからなのか、それともまだまだ異なる世界観を共感できる力がないのか時折理解が追いつく事ができなかった。その点は同時に自分になにか劣等感を覚えた。
ただこの作品を見る事で違う世界観への理解する心というものは養えるのではないか。
この作品で度々言われているのが普通の定義。
普通ってなんなのか。彼らにとってはこの世界観が普通なのに否定される苦しみ…もちろんこれは自閉症という病気だけではない。
色んな価値観や世界観、考えが錯誤するこの世の中で多くのケースで当てはめることができると思う。
自分と異なる存在への理解はやはり難しさを強く感じたと同時に平和への1番の近道ではないかと改めて感じさせてくれる作品だ。
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