「元となっているのは、自閉症の作家・東田直樹が、13歳の時に執筆した...」僕が跳びはねる理由 りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)
元となっているのは、自閉症の作家・東田直樹が、13歳の時に執筆した...
元となっているのは、自閉症の作家・東田直樹が、13歳の時に執筆した『自閉症の僕が跳びはねる理由』。
後に世界的なベストセラーになるのだが、英語版の翻訳者が自閉症スペクトラムの彼らからみた世界に興味を持ち、世界各国の自閉症スペクトラムの彼らからみた世界を映像にしようとした映画。
映画は、東田直樹の著書『自閉症の僕が跳びはねる理由』の一節から始まる。
水たまりで飛び跳ねる少年の画。
たぶんにして、著者をイメージしたもの。
そのイメージ映像を仲介にして、4組に自閉症スペクトラムの人々と彼らを取り巻く人々へのインタビューが綴られます。
はじめは、インドの少女アムリット。
ほとんど口を利かず、自分が観た社会の様子を絵にひたすら描き上げていきます。
独特なタッチ。
絵画などに秀でていることは、他の映画でもしばしば見ます。
つぎは金髪青年のジョス。
とにかく、こだわりが強い。
それは、やはり幼い時分からで、これもしばしば映画で描かれていますね。
つづいては男女ふたり。
やや太り気味の女性エマと、眼鏡をかけた黒人青年のベン。
彼らは、家族ぐるみの付き合いをしているようで、きっかけは子どもたちが自閉症スペクトラムだということで、他の子どもたちとは上手くいかなかったから。
ふたりは、アルファベットをボードを用いて単語を綴ることにより、外界のひとたちと意思疎通を図れることが紹介される。
なるほど、海外ではこのような手法も用いられているのね、と感心する。
また、このボードを使っての学習も行っている。
が、このふたり、画面に写されているとき、なんとなく不安そうなのが気にかかる。
特にボードを使って会話する際に、かなりのストレスを感じている雰囲気。
ときおり、エマが「No more... No more...(もう嫌、もう嫌・・・)」と言っているのが微かに聞こえる。
少し、引っ掛かるところ。
さいごは、シエラレオネ共和国でのエピソードで、ここでは自閉症スペクトラム以外の障がいを抱えた子どもたちが異端視されているという、前近代的な内容が紹介されています。
これら4組のエピソードの合間合間に東田直樹の著書の内容の一部が紹介されていく構成を取っているのだけれど、「自閉症スペクトラムの彼らからみた世界」を描くという本人視点からはどんどん離れていき、「自閉症スペクトラムの彼らからみた世界」は私たちはこう見ている的なところに落ち着てしまい、ちょっと肩透かしを食ったような印象です。
というのも、この映画を観る数日前に、アンソニー・ホプキンス主演の『ファーザー』を観たものだから、どうしても分が悪いのは仕方がないことなんだけれどもね。