「生きることがタフな時代に、イーストウッドが問いかけること。」クライ・マッチョ 高橋直樹さんの映画レビュー(感想・評価)
生きることがタフな時代に、イーストウッドが問いかけること。
ひとり暮らしのマイクは、「息子のラフォを連れ戻してくれ」という恩人からの依頼を受けてメキシコへと向かう。まだあどけなさが残る少年ラフォは奔放な母との乱れた生活を嫌い、マッチョと名づけた闘鶏とストリートで暮らしている。突然現れたマイクを少年は警戒するが、マッチョなカウボーイへの憧れと、父との新しい生活に心を動かされていく。
90歳を過ぎたクリント・イーストウッドが演じるマイクと14歳のエドゥアルド・ミネットが演じたラフォ、歳の差も境遇も考え方も異なるふたりはアメリカ国境に向かって旅を始める。それは、互いを必要とする発見の旅であり、ふたりの人生を大きく変えていく。
クリント・イーストウッドが新型ウィルスの渦中で撮り上げた最新作『クライ・マッチョ』には、映画人として生きてきた彼のエッセンスが凝縮されている。
自分の流儀で生きること。他人には期待しないが、示唆することは忘れない。恩義をには必ず報いる。微笑みを安売りはしないが笑顔には応じる。決して自分を買いかぶらず、誇張もしない。不寛容なことには正しく憤り、身をもって立ち向かう精神を忘れることはない。
カウボーイハットで荒馬を乗りこなす。車を運転する。もてなしに対する礼を尽くす。目の前に障害があれば、慌てずに迂回する。必要とあれば後戻りする。生き急ぐことが理想ではない。人生には、回り道することだってあるのだから。
我が道を行くことで、小さなコミュニティが生まれていく。ひとりだけれど孤独ではない。人の外観 (人種)ではなく、人の本質を見つめる過程で、血のつながらないの疑似家族のような関係が育まれていく。悔恨は尽きることはないが、くよくよしても始まらない。人生に終わりはない。生きていれば、素敵なことだってあるはずだ。彼はいつも旅の途中にいる。人と人とのつながりの中で“今”を生きている。
Make it Yours、自分のことは自分で決めろ。
この科白は、半世紀分以上もの生きた軌跡を隔てた少年に向かって放たれる主人公の言葉だ。
“マッチョ”=“強い男”に憧れ、幼さが残る家族の愛を知らない少年ラフォは男らしく生きたいと願っている。かつて“マッチョ”としてならした男は、もはや自分は強くないと認めている。だから、その言葉は説得力を伴って心に染みる。
無理がきかなくなったが、許容範囲はわきまえている。いたずらに逆らおうとは思わないが、許されざることを黙認することはしない。映画を観ている僕たちは、ふと気づかされる。マイクがラフォに放った言葉は、彼自身に向かうと同時に、紛れもなく観客のひとりひとりに向けられているのだ、と。
監督イーストウッドは、説明することが大嫌いだ。冗長な描写も好まないし、過剰な演技は排除する。濁った水を湛えた川であっても、その流れは淀むことがない。映画という話術において、主人公たちと同じように時と場合をわきまえているのだ。研ぎ澄まされた描写であるが故に、演出家の意図に気づかないことすらあると言っては褒めすぎかもしれないが、素直にそう思う。
同時に、映画におけるカタルシスを見定める力が緊張感を生む。観客が望む決めのシーンを放つタイミングも絶妙だ。
愛犬の調子が思わしくない夫婦の相談に、「残念だが歳にあらがうことは出来ない。のんびりさせて、一緒に眠ってやると良い」と告げる。先に引用した「自分のことは自分で決めろ」同様、その言葉はブーメランのように自分に向かって放たれている。もはや老い先は永くはない、だからこそ出来ることがあるのだ、と。