Style Warsのレビュー・感想・評価
全11件を表示
優れたグラフィティ・アートを、映像として記録してくれたことに感謝したい一作。
『ワイルド・スタイル』(1983)年と同様、ヒップホップ文化の黎明期を捉えた記念碑的作品とのこと。『ワイルド・スタイル』は未見だし、そもそもヒップホップ文化全般に疎いのため、ヒップホップに造詣の深い方々ほどは内容を深く理解することはできなかったと思うけど、グラフィティ・アートのライター(描き手)達を中心に取り上げ、ブレイキンやラップがどのように発達してきたのかを描くだけでなく、彼らが対峙する公権力側や一般市民の声もきっちり記録している本作が、文化史的のみならず社会史的にも貴重な資料となっていることは上映時間内できっちりと理解させてくれました。また車体に描かれたグラフィティは、ライター同士のボミング(グラフィティの描画を指し示す言葉)合戦の中で生み出されていったいったとは信じられないほど洗練されていて、グラフィティの大写し、そしてその制作過程を眺めるだけでも心拍数が上がります。
グラフィティもブレイキンもラップも、ようやく若者(反抗)文化として成立しつつあった時期でもあるので、その担い手達の活動や原動は、まだ固まりきっていない何かを内包した荒削りな部分が多分に含まれています。だがそれを記録した映像の方は、本当に目の前に起きていることをリアルタイムで撮影したとは思えないほど入念に計算されていて、それは例えば冒頭の、暗闇に浮かび上がる列車の映像などに現れています。列車の形が見えたかと思うとそこに無数に書き込まれたグラフィティが目に飛び込んできて、現代アートの鮮烈さが直接突き刺さってきます。
パンフレットは決してページ数が多くないものの、作品に登場したライター達の来歴を詳細に記述していたり、ヒップホップ文化についての解説が詳細なので、映画に感銘を受けた人には必携の一冊となっています。
タイトルの"Style Wars"は、ライター同士の張り合い、ライターと公権力の対立を意味しているのかと思っていたんですが、もしかして"Star Wars"と掛けている?
文化とは
事故で片腕を失った若い黒人の男性が印象的だった。貧しい家庭に生まれ育った黒人で、しかも片腕が無いという社会的には明らかに弱者である彼が、グラフィティの分野では仲間たちからリスペクトされ、生き生きとしていた。
以前、何かの雑誌のコラムで劇作家の松尾スズキが「文化とは勉強もスポーツも出来ない奴を救うものだと思っている」と書いていた。その意味で言えば、グラフィティも立派な文化の一つだし、新たな文化を生み出せる社会は活力を失うことはないのだろう。
まあまあだった
グラフィティにはあまり関心がなく、ラップの黎明期を期待していたらそこはさっぱり描かれない。音楽的な権利が大変でお金がかかるからだろうか。グラフィティの文字は何が書かれていたのかと思ったら、自分の名前を書いていた。けっこう退屈で眠くなる。
今や貴重な歴史の証言
私はニューヨークに行ったことはないが、留学先のイタリアでもよくローカル線の車体にグラフィティが描かれていて、アメリカから世界に広がった現象の始まりを見るようで、全編が興味深かった。ラップやブレイクダンスと並行してヒップホップを作っていったことも分かり、面白い。
グラフィティのライターだけでなく、グラフィティを嫌う市長や交通当局、市民の声も出てきて、客観的な歴史の証言になっている。
グラフィティが何よりも自分のニックネームを大書するもので、秩序への挑戦であり、貧しい生活の中で彼らのアイデンティティの確立に役立ったのだと思う。こういうものを完全に排除する国より、奨励はしなくとも許容したり共存できる国のほうがよいのではないか。結局、彼らから多くのアーチストが出た訳だし。
虐げられた魂の声(見捨てられたガレキの街)
本作について評価しようと思うならば、当時のサウス・ブロンクスについての知識が必須だと思う。
1940年代、ブロンクス区最南端エリアはすでにニューヨーク随一の貧民窟であった。
1970年代にかけて白人達は軒並み郊外へと脱出していく。建物は廃屋化し、大家の中には人を雇って放火させ保険金を稼ぐ者もいた。(毎晩、3〜4件は火災が発生していた)
政府は何の対策も講じず、街はまるで戦時中でもあるかのような焼け野原の様相を呈していた。
ノース・ブロンクスのリバーデイルは上流階級が住み、豪邸が立ち並ぶ。
(ジョン・F・ケネディも住んでいた。)
ウエスト・ブロンクスはマンハッタン5番街(ご存知、ティファニーやカルティエの立ち並ぶ、世界有数の超高級商店街である。)の延長のようなものだ。
そんな大都会ニューヨークにありながら、アメリカの、いや、世界の繁栄から取り残され、ガレキの山の中で生きるしかなかった人々。
廃墟で生まれ育つしかなかった子供達の瞳に、世界はどのように映っていたであろうか。
本作に登場する子供達の言動、その一つ一つに真正面から腹を立てるのは大人気ない。
特に公的業種、政治家や役人、教職などで身を立てる事を決めた人ならば「何故、この子達はそのような思いをもつに至ったのか」
「何故、大都会の一部が、およそ人間が住むところではないような廃墟として荒廃していくのを行政は数十年間も放置したのか」
について熟考し、社会が人の心に与える影響について思いを馳せねばならない。
この子達に手を差し伸べられないような人には教職に就いて欲しくない。
言動が幼稚なのは、教育を与えられる権利が働かない環境で育つしかなかったからだ。彼らが人権に守られてこなかった事こそが大問題だ。
しかし、虐げられた魂の中にも熱い生命のエネルギーは燃えているのだ。
体制や社会に押し潰され、ゴミ屑のように扱われた子供達の、そんな「消されつつある自我の存在と言葉」がタギングとなった。
「自分という存在が、ここに生きている!」という魂の自己主張だ。
初めは稚拙な落書きに過ぎなくても、次第に暗黙のルールが出来上がっていく。
「すでにあるグラフィティーに上描きするには、更に完成度の高い図案でなければならない」
「対象は公共施設、交通機関、巨大建造物のみとし、個人商店・個人宅には描かない」などが代表的だ。
犯罪や悪戯が彼らの主目的ではなかったからだ。
彼らは武力革命、武力闘争ではなく、芸術による闘争を展開したのだ!
平和的な素晴らしい方法ではないか。
高学歴の若者がライフルを手に革命戦士などと名乗る行為に比べたら器物損壊罪程度、可愛いものだ。それほどまでに彼らが生きる社会が閉塞していた証明だ。
まるでバイオレンス映画の舞台のような「非日常」が、彼らの「日常」であった。
壁面など、生まれた時から元々壊れていた。倒壊の危険と隣り合わせに彼らは育ってきた。器物損壊?安全な高みからなら何とでも言える。良識派のキレイゴトにはまったく笑うしかない。
「心理学」に「同調行動」という用語がある。周囲に合わせて自分も同じような行動を取ってしまう現象だ。
ゴミ一つない街路には誰もポイ捨てをしないが、ゴミの山が築かれている道には新たなゴミが捨てられていく。
サウス・ブロンクスの外壁がスプレーでグラフィティーを描き殴られる事態となったのは、そこが最初から「社会に見捨てられたゴミ山」に等しかったからではないだろうか。
苦しんで苦しんで、苦しみ抜きながら育った彼らは、やがて成長し、自分達がいかに不当な環境にいたのかを知る。社会的弱者、マイノリティの声は外部には届かない。
しかし、若者達は半世紀に及ぶ悲劇に立ち向かい始めた。
ニューヨークを隅から隅へと走る地下鉄が「消されつつある自我の叫び」を陽の当たる場所へ運んだ!
困窮する人々を放置していた行政も、地下鉄や街路の景観にならば目を向ける。
アッパーミドルの中には、グラフィティーに様々なものを見出せる人々もいた。「芸術性」「人権問題」「経済格差」「文化人類学的研究」そして「商売上の金の卵を産む鶏」としても・・・。
様々な思惑が絡みだし、グラフィティーは都市ロウワークラスの文化として、飛躍的に発展し始める。
価値の低いものは削ぎ落とされ、生き残るものは更に洗練されていき、やがてブレイクダンスやヒップホップDJと共にヒップホップカルチャーの確立という形で昇華される事となる。
本作はヒップホップ・カルチャー側の少年達の言動のみならず、取り巻く家族、行政側の警官や市当局者、芸術側からの視点者、人権・社会問題と捉えるジャーナリズム、資本・経済側など、様々な視点への取材を記録した貴重な史料であると考える。
それは正に多種多様な陣営のスタイルが鎬を削る「戦争」であったのだ。
ヒップホップカルチャーの誕生などは、付随物に過ぎない。
本当に意義がある事は、若者達の声(=グラフィティーやブレイクダンス。彼らは自分達の慣れ親しんだ遊びでしか、表現する術を知らない)が、社会に見捨てられた街に再び光をもたらし、人間らしい暮らしの出来る場所へと復興させる道を切り拓いた事にこそあるのではないだろうか。
史料的価値はあるのかな?
きっとヒップホップカルチャー大好きな方には刺さるのでは?僕はそのカルチャーには想いは特に無いので、あー、そーだったのね?くらいでした。
カルチャー発祥の記録的映像(だと思いますが)として価値はあるのでしょうね。
今だからこそ、ヒップホップが確立してるからこそ意味を持つのでしょうね。
映像作品としては、、、うーむ。テレビのドキュメント?な感じです。映画館で見るものでもないかな?
また、出てくる連中が、口だけは達者な子供にしか見えない(笑)
けど、かれらのエモーションが文化を作ったんでしょうね。
グラフィティの記録映画
ヒップホップの三本柱
ラップ、ブレイクダンス、グラフィティ
そのグラフィティに焦点を当てたドキュメンタリー映画
最初はタギング(名前を殴り書きするような物)から
大きな『作品』へと進化していく
ヒップホップの興盛と重なりいかに文化として
濃縮されていくかを感じさせられる
いくつかのボミングされたものはとても印象的な物があった
しかし、それも社会は許容できす塗り直していく
独自の発展を遂げ、中にはギャラリーなどに作品を出す者も出てくる
また有名になりたいだけの能力のない奴が
よくできた作品の上に塗り直してきたりする
あんな奴許容できないよねぇ
それでも手出ししなかったのは
彼らはギャングじゃなくてライターだったからだろう
何より無から生み出されああゆう形が彼らによって与えられ
それが遠く離れた国の人間にまで影響を成す
現代の文化のありようをまざまざと見せつける感じかも
80年代のニューヨークとか最高っぽいよなぁ
ヒップホップが生まれた濃厚な土壌を感じられるような映画だった
お母さんの一喝
グラフティアートの誕生ドキュメンタリーだったが、前半は電車に描く若者が中心。
たびたび登場する、粋がってる若者の隣でまともな一喝を入れるお母さんが凄く良い。
グラフティアートが前衛芸術としてギャラリーでもてはやされているシーンからの、お母さんの一喝が効く。
「電車に落書きなんて迷惑かけて、電車がお前にどんな迷惑かけたんだ!」語るお母さんに対し、
「電車は俺に電車賃を支払わせやがった」と息子、
「そもそも電車賃なんか払った事ないじゃないか!」とお母さん
息子惨敗。
グラフティアートの素晴らしさを語るドキュメンタリーじゃないくて、歴史を語るドキュメンタリーだと理解した。
グラフィティという言語とアイデンティティ
ヒップホップカルチャーのグラフィティにフィーチャーしたドキュメンタリー。
一般市民からしたらただの落書きなのですが、彼らアーティストからしたら立派な言語であり、アイデンティティ。彼らにしか読めないコミュニケーションが確かに存在し、ニューヨークという都市で足跡を残すことに誇りを持っている。
他人の作品の上から自分のスタイルを上書きしようとする連中や、その「落書き」を消して白い壁を取り戻すことを生きがいとする役人や電車の整備士まで出てきて、まさに「スタイルウォーズ」の様相。
やたら母親思いの少年が、出かけるたびに「母ちゃん、落書き行ってくんね」と伝えているというシーンがなんか良かったです。
資料的価値は高いんだろうが…
HIPHOP文化のスプレー・アート”グラフィティ”初期ドキュメンタリー。
地下鉄車両に描く大作を競っていた若者が自慢げに語りまくるが、その内容が非常に薄い。
ただ今で言う「厨二病」的アホっぷりが興味深くて、特に中学生位の黒人少年が自信たっぷりに地下鉄への落書きを語る横で母親が「私があげた電車賃で…」と呆れていたのと、手間暇かけて大作書いた翌日に謎の人物が上からデカデカと自らの名前で塗りつぶし「誰だ誰だ」となった直後に本人映像流れ「この映画が公開されて初めてみんなが俺のことを知る」的なこと言ってたのが少し面白かった位で、あとは…
ま、内容はさておき今となっては当時映像少ない中で資料的価値の高くなった作品なのだろう。
とはいえ、ぶっちゃけ「劇場で観てこそ…」とは全く思わない、レンタルで十分な作品。
HIPHOPの4台要素にgraffitiがあることすら知らなかった...
HIPHOPの4台要素にgraffitiがあることすら知らなかった。周りからしたら無意味なことを仲間達と夢中になってやるってかっこいい!結構みんな子供でリアルmid90sみたいだと思った。
全11件を表示