ファーザーのレビュー・感想・評価
全345件中、81~100件目を表示
オヤジの立場で観ていた
楽しみにしていた一作が早くもレンタル旧作に
5回に分けて
戯曲の映画化 日本では橋爪功が主演を務めたのだと
最初から最後まで混乱しっぱなし
元々外人の顔の見分けがつかなくて
あれ? これ誰だっけ
てなことがよくあるのだが
この作品はわざとそうしているのか
最後の30分は酒が結構入っていたこともあり
意識が混濁してグッタリ
それがねらいのような気もするし
単にオラの鑑賞力の乏しさによるものなのかもしれぬ
これから各種レビューにて確認することとしよう
少し前に長いお別れという映画を観たときは
子どもの目線で鑑賞した記憶があるのだが
今回はオヤジの立場で観ていた
途中幻なのか、現実なのか、朝なのか、夜なのか、よくわからなくなって...
自己の崩壊を明晰に演じるアンソニー・ホプキンス
2020年(イギリス/フランス)監督:フロリアン・ゼレール
恐ろしい映画でした。
認知症の父親役のアンソニー・ホプキンスが実に名演でした。
2度目のアカデミー賞主演男優賞受賞も納得です。
56年に渡る役者人生の集大成に相応しい演技でした。
同作品は同時にアカデミー賞の脚本賞も受賞。
非常に観客(わたし)を惑わせる映画でした。
娘(アン)の視点と、
父親(アンソニー)の視点の両方で描かれる。
そしてアンソニーは認知症がかなり進んでいます。
そこに脚本も映像も意地悪い。
娘のアンがある時は別人だったり、
アンの元夫なのか現夫なのか?居間にいる男。
この男は現実の人物なのかも不明です。
「お前(アンソニー)にはイライラする。俺たちの邪魔をいつまでするつもりか?」
と、面の向かって聞いてくる。
長生きは身勝手で我が儘・・・とまで言う。
私はちょっと考えたのですが、このポールと名乗る見知らぬ男は、アンの分身で、もしかして、アンの本音を話すのが彼なのではないのでしょうか?
アンの姿は、優しく父親思いで献身的な娘そのものです。
しかしそんな優しい娘が、60歳過ぎて出会った男の住むパリへ移り住んだりするものだろうか?仕事も捨てて・・・。
あるシーンでは、精神科医にはハッキリとパリ行きを否定しています。
本当にこんがらがります。
新しい介護人のローラは、若く美しく妹娘のルーシーに似ていて、
嬉しくなったアンソニーはタップダンスを披露したりする。
しかし翌日現れたローラは中年の女の人でした。
全てはアンソニーの妄想で、顔の識別も出来なくなっている・・・
見知らぬ男が居間にいる・・・アンの顔も忘れる・・・
と、認知症の症状と思って観ることも出来ます。
認知症患者の見ている心象風景は、これほど歪んでいるのですよ!!・・・と。
娘のアン役は「女王陛下のお気に入り」でアカデミー賞主演女優賞を受賞したオリビア・コールマン。
善意の娘を演じて、「本音はそれだけではないだろう!」
と、ツッコミを入れたくなる好演でした。
監督は2012年にこの映画の元となる戯曲を書いたフロリアン・ゼレールで、
今回戯曲を自ら監督しました。
ミステリー映画やサスペンスのように謎がいっぱいで、疑心暗鬼になってしまいます。
騙し絵のようなシーンがいっぱい
アンソニーのフラット(家)から私(アン)のフラットに越して来たのよ、
ここは私(アン)の家・・・と言うのに、
アンソニーが慣れた手順で紅茶を入れるキッチンは、
キッチンの壁はベージュ模様のタイルだ。
(アンの家はブルーの壁紙。)
アンソニーの壁に飾られてるルーシーの絵は、アンが自宅だと言う居間にも
飾られていた。
騙してるのは誰?
記憶が薄れてるアンソニーを良いことに嘘を付いてるの?
映像は騙し絵のように仕組まれている。
アンソニーが窓から見下ろす景色にもフェイクが隠されているのだ。
年老いると自分の目に見えるものを疑わなくてはならないのか?
アンソニーは常に、自分の判断に懐疑的です。
自分で何も出来なくなる。決定権がなくなる。保護者の指示のままに行動するしかなくなる。
ここに相手への信頼が失われたら・・・と思うと本当に恐ろしい。
そこに付け込まれて、ロフト(住居)も財産も失い、
何より時間、自由、尊厳さえ失う。
死んだら何ひとつ持って行けないのだから当然なのだけれど、
生きてる間に奪われて行くのを見るのは辛い。
老いの現実を突きつける衝撃作でした。
認知症の世界を見る
見応えたっぷりの名作
「ロンドンのフラット」は、リビングも寝室もベージュの壁、木製のキッチン、クラシカルな家具、黄色系のカーテン。ある時からブルーグレーの壁、モダンなキッチンになり、インテリアや照明も変わっていた。アンソニーの寝室のベッド、タンスも微妙に違う。ものすごい変化なのに、アンソニーとアンに魅せられている間に鑑賞者の脳も混乱する。
忘れないうちに時系列を整理したい。合ってるかは分からないけど。
①アンは近くに居て日常的に会いに来てくれる
→「アンはそばに居てくれる」
②アンソニーの認知症が進み、トラブルを起こしてアンジェラが辞めてしまう。
アンはパリで暮らすことになったと告げる。
→「アンはパリに行ってしまう」
③父を一人にはできないので、パリのフラットで夫のポールと同居することに。
ポールはいつも赤ワインを飲んでいる。
→「イタリア旅行をキャンセルしたのは私のせい?」「老人ホームに入れろ?」「いつまで居座る?」「イラつく?」
④アンは新しい介護士を探している。
→「ローラはルーシーに似ているのでお気に入り」
⑤介護生活に疲弊したアン(父に殺意さえ抱いた)は、父をロンドンの老人ホームに入れることを決める。キャサリンとビルがアンソニーの世話を見ることに。
⑥施設に入って数週間が経つ。①〜⑤とルーシーの死とが混同し前後しながらループしている。
頭の中のロンドンのフラットが、アンのモダンなフラットとミックスされ、病室の青色ベースに徐々に侵食されていくところがリアル。偽ポール(ビル)と偽アン(キャサリン)が早い段階で出てくるのは、この物語が入院後の幻想だからだ。
人物と会話のすり替えがサスペンスホラーのようだが、映画を最後まで観ると納得する。
冒頭のポールは、介護士ビルの顔に、冷たい感じのアンの夫のイメージがミックスされている。
世話を見てもらっているうちにアンとキャサリンがごっちゃになる。
アンが買い物から帰ってきたと思ったら、キャサリンが現れ、困惑する。
5年前にジェームズと離婚した話は、アンではなくキャサリンとの会話だと思う。
ローラとキャサリンもごっちゃになる。2回目に会ったローラは言葉遣いからしてキャサリンだが、ローラに見える。だから次にローラを待ってると、キャサリンが現れ動揺する。
アンソニーは、(亡くしたルーシーは別として)アンや妻、周囲の人を見下していた傾向がある。快適な空間を整えるため、誰が家事をこなしてきたのか。シャツにアイロンをあててくれるのは誰なのか。その存在に対する認識が抜け落ちている。
自分が人に見下されるなんてあり得ない。だからポールに言われた嫌味が理解できないまま脳にこびりつく。
葉が落ちていくに従って、無条件の愛=母に帰依するが、人は生きている間にエゴを捨てきることはできないから悲しい。かつて豊かに繁っていた樹々の緑が切なかった。
何が怖いって(^_^;
可視化の手法
ブルーの世界
アンソニー・ホプキンスだからこその説得力と可愛らしさと矜持と悲しさ、オリビア・コールマンの美しい眼が娘の思いをよく表していた。脚本も構成も映像も良かった。
ブルーがあちこちで使われている。アンのクリアな青のブラウス、キッチンの壁の水色タイル、青のセブンチェア(クリニックにあったと思ったらフラットにも)、絵画の中のブルー、リビングの椅子やソファやクッション、寝室の壁紙、花瓶、レジ袋、ベッドリネン、タオル。どの時がどの会話が現実なのか、もやの中でわからなくなってくる。ブルーはとりとめのなさでもあれば、恐れや怒りでもあるし憂鬱でもあるんだろう。アンソニーが自分には「象の記憶力」があるんだ!という自慢が悲しかった。アンソニーの最後の台詞:葉っぱも枝もなくなっていく・・・、ママに会いたい、はとても辛かった。
アンソニーがよく聞いていたオペラのアリアもエンドロールで流れる控え目で静かなメロディーもまさにEinaudiで、優しく背中を撫でてくれた。
アンソニー・ホプキンスはやはり名優!
認知の正誤
アンソニーホプキンスは安定の演技力。
視点を認知症患者側から描くので最後まで正誤がわからない。
正誤という捉え方が合っているのか、どうなのか、
考えさせられる。
DNAレベルから治療可能な医療進歩を期待したい。
記憶は財産である。
見始めたら引き込まれる
祖父母だったりこれからの父母だったり自分だったり
混乱の共有
現実とは
彼の中で起きていることは、彼自身には現実ですべてを体験している
私たちも、眠りの中で夢を見るでしょ
その時感じた感情は実体験ではなくても現実に感じた感情なのだと思うのです
喜びや悲しみ、緊張感、恐怖心、その時の感情は確かにあったホントの心の動きなのでしょうね
彼のように、現実が曖昧になるとその時々で感情が揺れてしまう
出来れば心穏やかな事が多ければいいのでしょうが、不安や迷いが多くなるのは必然なのだとも思います
もしも、元から新しい環境が好きな人なら毎日が新鮮で毎日新しい人と出会えて楽しいのかもしれません
大切な家、大切な時計、それは失いたくない記憶そのもので手放してしまったら何をどうしていいかわからなくなってしまう
そんな人に私たちはこれから多く関わることになるのでしょう、彼に不安を与えないように接したらいいのでしょうか
現実を突きつけてもその事自体が消えて無くなってしまったらまた振り出しです
私も変わらなければならないでしょうね
互いに今を受け入れて
悲しい事実を何度も思い出すよりも今の方が幸せなのかもしれませんね。
素晴らしい表現
悪戯な演出を駆使した演劇を楽しみ、認知症の怖さを演じたアンソニー・ホプキンスの名演を堪能できる趣味の良い映画
認知症の父とそれを受け入れる娘の心の内を描いた演劇映画。自作の戯曲を演出したフランス人監督フローリアン・ゼレールと、イギリス映画「キャリントン」の脚本・監督と「つぐない」の脚本のクリストファー・ハンプトンの共同脚色が非常に高度な演劇趣味を映画で再現している。これを純粋なフランス映画にせずイギリスを舞台に変更した理由が、名優アンソニー・ホプキンスを主役にするためにあったのが納得の、一人芝居の大名演を生む。1937年12月31日生まれと劇中で語るアンソニーは、そのままホプキンスの誕生日ではないか。ここまで俳優個人の生涯を前面に出して良質の演劇を見せることは稀であると思う。それも老いて枯れて人生の最終地点にある認知症の病に罹った老人の哀れで悲しい姿を正面から残酷に描き切っている。
この映画の観方には、二つの視点がある。一つは、その名優の名を恣にするアンソニー・ホプキンスの見事な演技を堪能すること。介護人アンジェラに暴力を振るい娘の家に引き取られても、自分のフラット(ワンフロワー)と言い張り、娘アンと恋人ポールを老人ホームの介護士のキャサリンとビルと見間違い、若い介護人ローラに事故で亡くした娘ルーシーを重ねるアンソニー。老獪な顔を見せたり、タップが得意と自慢する愉悦の表情や施設に入れようとする話に激高する様子など、喜怒哀楽の激しい認知症の症状をリアルに演じている。圧巻は、ここは何処、私は誰?の状況に陥った最後の場面で、アンソニーを名付けた母を想い出し、ママを呼んでくれと泣く子供のような仕草のホプキンスの上手すぎる芝居だ。
もう一つは、舞台の幕を模した場面構成の巧さとその舞台美術のハイセンスな色調の統一性。アンの家とされる舞台が、徐々に変化して行きながら最後老人ホームに辿り着く。つまりは、老人ホームにいたアンソニーの幻覚と思わせる演出の真剣な遊びがある。冒頭から青と赤を際立たせても、実に落ち着いた色調で最後の場面に自然に繋げている。アンソニーのベットルームのインテリアの配置や途中ルーシーの描いたピルエットの少女の絵が消えるところなど、伏線も考え尽くされている。特に前半は鮮やかな青色が目立ち、これはフェルメールの絵のような映像美を狙ったのかと思われた。演出では、最初のキャサリンがアンソニーと同時にベットに腰掛けるカットがいい。最後の場面でもキャサリンは、アンソニーと一緒に腰かけている。
アンソニーの視点から描かれた人物の謎と舞台変化の混乱が、映画的な面白さを誘発していることが先ず挙げられる。その上で主演アンソニー・ホプキンスの演技を味わう贅沢な演劇映画であった。個人的には、娘アンを演じたオリヴィア・コールマンも素晴らしいし、介護士キャサリンのオリヴィア・ウィリアムズの優しさに満ちた眼差しもいい。それと音楽の選択も渋い。パーセルやベッリーニの音楽は詳しくないが、ビゼーの『耳に残るは君の歌声』は久し振りに聴く。テナーの張り上げた高音のオペラ風ではなく、しっとりと切なく歌い上げた歌唱が映画の世界観にマッチしていた。調べると、シリア・デュボアというフランスのまだ若いテノール歌手と知る。このビゼーの名曲は、プラシド・ドミンゴやカルーソーも素晴らしいが、個人的にはアルフレード・クラウスが好み。でもやはり、この作品に合っているのは、このデュボアの情感を込めて落ち着いた歌い方であると思う。
ラストにアンソニーが、記憶を無くす自分を“すべての葉を失っていくようだ”と表現した。ラストカットは、陽光に照らされた新緑の木々がしなやかに風になびいて、一つひとつの葉が生き生きとそよいでいる。これは未だ10代か20代前半の人間の姿であろう。もう自分は半分以上の葉を失った年齢になった。それを想うと、もうその姿には戻れない怖さにゾットしてしまった。
全345件中、81~100件目を表示

















