「SNS中毒者に半笑いで警鐘を鳴らすハイテンション・スリラー」スプリー じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
SNS中毒者に半笑いで警鐘を鳴らすハイテンション・スリラー
みなさん、採点が辛いなあ(笑)。
多くの方と同様、『SNS 少女たちの10日間』から、連ちゃんで鑑賞。
僕はそれなりに楽しめました。
ホラーというよりは、スリラーであり(あえて残虐シーンはカットされている)
スリラーという以上に、ブラック・コメディである。
『XYZマーダーズ』とか、『Drギグルス』とか、『シリアル・ママ』とかのSNS版だ。
おそらく、監督の感性と適度にシンクロできたのは、自分は「承認欲求」というものに拭い去りがたい忌避感があって、SNSで「いいね」が欲しい感性を心底から小ばかにしていて、YouTuberみたいな手合いを常日頃より蔑んでいるからだろう。
主人公のカートが「なぜ殺人鬼に」の部分の説明が弱いという人もいるだろうが、YouTuberというのは、そもそもそういう輩であり、おんなじくらいに幼稚で、歪んでいて、甘ったれで、正邪のバランスがくるっている。そのなかには境界超えちゃう人も「実際に」いてちっともおかしくない。そういうもんだ、それくらい気持ちわるい存在だと僕は感じている。
SNSではしゃいでる連中は、YouTuberも、映え中毒も、弁当ママも、ネトウヨも、ツイフェミも、アベガーも、みんな承認欲求に食いつぶされた、カート・カンクルなのだ。
……と思っているから、自分はカートのキャラクターを、「いいね乞食のカリカチュア」として、きわめて素直に受け入れることができた。
ライドシェアもまた、SNSと同様に、現代的な人と人とのつながり方のありようの一面である。日本人は、半額の白タクが隣にとまってても、みんな敢えて正規タクシーの列に並ぶみたいな国民性なので、今後簡単に普及するとも思えないが、どこに行くにも車で移動するしかないアメリカでは、かなり便利なサーヴィスなのだろう。
カートは、このSNS中毒とライドシェアの運転手という、現代の「つながり方」を体現する申し子である。この「善意」の鎖に、「悪」が紛れ込むとどうなるのか、が本作の主眼ということになる。
映画としては、人殺しライドシェアというのはお話の「前提」であって、そこに至る過程はあえて描かれない。「いいね」欲しかったら、それくらいふつうにするよね、くらいのノリ。
最初からふいっと、いとも簡単にカートは一線を踏み越える。
ここで人の命は、まさにゴミのようだ。
チャンネル視聴者数人分くらいの価値しかない。
カートは、MTV感覚で、次から次へと獲物をしとめてゆく。
ただウケるために。
ちょうど、ガイ・リッチーの『スナッチ』とかに近いテンポ感であり、眉をひそめるようなネタをひたすら打ち出すバッド・テイスト・スタイルは『メリーに首ったけ』のようだ。ここに『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』のような「SNS画面」の導入が行われ、いかにもリアルなSNS配信の感覚が表出される。
この映画の素材は、ほぼすべて「作中人物の配信した内容」だけで成り立っているのだ。
多くの人が困惑するだろうことに、この映画は実は「カートがいかにくるっていくか」を順を追って描写する作品ではない。中盤以降、最初は被害者後補として登場した黒人女性コメディアン、ジェシーが、しだいに作中で幅をきかせはじめ、映画を半ば乗っ取ってしまう(ちょうど影響力のない配信者が、インフルエンサーに押しのけられるように)。
ジェシーは、SNSで成り上がって、いまやいっぱしの芸人となっているという設定だが、監督の視線は必ずしも彼女に対しても融和的ではない。ラストで彼女がやらされることを考えれば、監督はこのキャラクターのことも、内心けっこう小ばかにしているのではないだろうかと思う。
つまり、監督はカートもバカにしているし、ジェシーもバカにしている。
被害者として出てくる右翼演説家も、いかにものキャリアウーマンも、くされはてたパリピも、生意気な少年YouTuberも、コリアン系DJも、みんなバカにしている。
たぶん、この映画がアッパーで、ハイテンポで、ハイテンションでご機嫌なノリでありながらも、どこか「不快」な臭気を常に放っているのは、監督の登場人物への「蔑み」が作品全体からにじみ出てるからではないか。
まあ、同じくらい「僕も蔑んでいる」ので、個人的にはめっぽう楽しい映画ではあったが。
なお、後半に入ってカートのチャンネル「レッスン」の視聴者数が増え始めると、画面下部におけるコメント演出がきわめて盛んに展開されるのだが、よほど肝要なもの以外、字幕として扱われないので、大半なにが書き込まれているのかわからない(笑)。 たぶん、結構カートを煽ってきてると思うんだけど……ネイティヴはあれで追えてるの? なんかうまいやり方ないのかなあ?