「「あの子を解き放て! あの子は人間だぞ」→金色の野に降り立つべし→好きな人ができました」竜とそばかすの姫 加藤プリンさんの映画レビュー(感想・評価)
「あの子を解き放て! あの子は人間だぞ」→金色の野に降り立つべし→好きな人ができました
↑ タイトルは、、 モノノケ × 姫 = 美女と野獣、ということで。。(オマケ付)
デジモン(’00) → サマーウォーズ(’09) → そばかす姫(’21)と、
監督のなかで、時代毎に確実にブラッシュアップされてきた お得意の手法なんだけれども、
改めて感じるのは、デジタルや仮想現実を描いてはいるけれど、
結局、この人(細田氏)は、世代的にも、根っからのアナログ人間なんですよね。
家族とか、親戚とか、友達とか、恋人とか、仲間とか、そういった
人間同士の繋がりを、どうしても賛美する描き方になってしまう。
もちろん、毎回、(拗らせ気味とはいえ)人間賛歌の作風であるし、
人間、そこが大事なんだという心の根っこの部分ですから、
否定的に描きようがないのですが、
どうしても、新しい時代、新しい世代、新しい価値観は生まれてこないんですよね。
時代は進んでいるのに、どうも「昔の日本はよかった」「人間かくあるべし」という懐古的な視点から脱却できません。
(もちろん、現代から振り返り、学ぶべきこと、思い出すべきことは多いのですが)
せっかくの「U」というデジタル世界も、物語の結末(リアル)とは どうにも相性が悪く、
途中から描かれなくなります。
これは、 美女と野獣のテーマに照らし合わせると、
愛し愛された結果、偽りの魔法(自分の内面の裏返し=ネット上の仮の姿)は解けないといけないため、
ネットから解放されて、リアルに戻らざるを得ないのですね。
デジタル(魔法)から解き放たれ、本来の姿に戻る、、この構図が、
非常に素晴らしいアイデアなのですが、同時に、呪いとして、作品のテーマを、少し、作家の意図しない方向へ足を引っ張ってしまっているような気がします。
結局、仮想現実で、歌で、人々の心は繋がり、救われるのか、世界が変えられるのかというと、
どうも、テーマがそこにないため、宙ぶらりんになってしまいます。
ではこの映画の主題は、というと
主人公「すず」の成長と、弱者(被害者)への救済がテーマなのですが、
彼女の愛も、方向がどうにも定まらないのは、姫がキス(救済)すべき王子様が多すぎるのですね。
現実の恋人と、仮想空間を通じた相手(しかも兄弟)と、妻(と子)を失っていた父親と、、
あと、実は、
いちばん手を差し伸べてあげないとならないのは、虐待していた竜の父親、ですよね。
さすがに現実の女子高生が救済するには荷が重すぎたのか、
歌で通じ合えたはずのネット民からの応援もなく、リアル仲間もリモートでサポートもなく、
その場では一見、対決のように表現され、直接の救済は描かれません。
ただ、虐待父も、すずと、兄弟によって救われる道筋が、台本上は約束されているのですが。。これを読み解くのは、少々難しい。
竜と姫が向かい合う構図のポスターからもイメージできるかと思いますが、
この映画において、すずと竜は、常に「鏡合わせ」の存在なのですね。
デジタル世界で竜と姫が「鏡合わせ」だったように、(どちらも母親を失い、その自身が抑圧した心の傷が、
仮想現実世界で吹き出し、大きな力となった、歌か暴力の違い、ふたりとも本質は同じ孤独な存在→だから惹かれ合う)
ふたりは現実世界でも、抱き合ったあと、まるでキスするかのような、互いの顔の距離を「鏡合わせ」とすることで、
2組の家族を光と影として対比させており、本質的に、同じ存在だと示しているのですね。
無事に帰還したすずは、ずっと見て見ぬふりをしてきた父親の愛と心の傷に気づき、受け入れることができた。この和解により、すずも父親も救われました。
であれば、鏡合わせの存在である、竜と、竜の父も受け容れられ、救われないと、台本上の構造としておかしいのですね。
あの兄弟にとっても、父親の歪んだ愛(が孤独化し、暴力化してしまった、それは「U」で暴れ廻った竜自身と同じであり、
つまり、父親と自分もまた表裏一体の存在であるということ)に気づいて、受け容れられるはずなのです。
虐待してしまっているため、一見、絶対悪と受け取られてしまいがちですが、
(現実には虐待するようなクズ親からは行政が保護して、子供だけでも救済するのでしょうが)
それでは真の救済にならなず、テーマから反れてしまうのですね。
★ ここが非常にわかりづらく、この映画が共感されにくいポイントになっています。(!)
更に詳しく言えば、
この物語には幾重もの鏡、対比構造があり、そのひとつに、「誰もが被害者であり、同時に、加害者である」というものがあります。
たとえば、
川の少女は被害者であり、同時に、すずの母親の命を奪った加害者でもあります。
母親は事故の被害者でありながら、すずにとっては、自分を捨てた加害者に映る。
すずは被害者だが、父親に対しては無意識のうちに加害者だし、妻を失った被害者である父親も、すずを救済できない意味では、遠い加害者でもあります。
同じように、
妻を失った虐待父は被害者である。と同時に竜兄弟へ対しては虐待する加害者である。
竜は父親の暴力の被害者であり、同時に、ネットの世界では、暴力を振るう加害者でもある。
同時にネット民は竜の暴力の被害者であったが、転じ、加害者として、暴力で竜を追い詰めます。竜は加害者にして、被害者になります。
このように、この物語は、登場人物それぞれが、被害者にして加害者(光と影=太陽と月=生と死)という、鏡合わせの対比構図になっています。
それに気づき、自分の影である相手を理解し、受け容れることで、この物語の登場人物は救済されるのです。
ですので、虐待親を絶対悪と定義してしまうと、「U」で悪というレッテルを張られ、
(大して悪さをした訳でもないのに)同調圧力的に叩かれた竜もまた絶対悪というなり、救われなくなってしまいます。
ですから、虐待親もまた被害者であり、救済されねばなりません。(!)
また、
2組の父親同士も、どちらも妻を失い、傷ついた気持ちを抱えたまま、
子供に対して愛情がうまく伝えられない、愛情の距離や方法が見つけられないという意味では、
すずの父と竜の父も、光と影、本質的には同じ存在なのですね。
例えば、
すずの父親も、濁流に飛び込む形で妻を亡くしたのだから、すずを大切に愛するがあまり、
竜兄弟のように軟禁し、外に出させないようにした可能性だってあった訳ですよね。
それは歪んではいますが、大事な者をもう失いたくない、大切にしたい、といういう愛情ですよね。
愛情が行き過ぎて、なぜ俺の言うことを聞かないと手が出ると、それはもう、監禁、虐待となるのです。(※ 虐待の一例であり、肯定する意ではありません)
すず親子はそうならなかっただけで、そうなってしまったのが竜親子なんですね。
ですから、鏡合わせのように、
すずも母親の気持ち(死)が理解でき、父親の心の傷に気づき、受け容れられたように、
竜兄弟もまた、いつか、母親の死を、虐待に走ってしまった父親を受け容れることができるはずなのです。
(もちろん、その前にまず父親が変わらないといけないのでしょうが、、、
竜の身代わりに血を流したすずとの対決で、彼が何に気づき、怯えたのか、、もう、彼は実は気づいたのでしょう、
彼は息子達を傷つける事はあっても、流血させた事はなかったのでしょうね。
また、すずも、「U」の世界で「その光を放て」と言ったベルですから、「その拳を放て」と心の中で叫んでいた事でしょう。(ここはデジタルとリアルの対比構造になっています。伏線とも言います))
ですから、どちらの家族も救済されるはず・・なのですね。でないと、物語の構造上、成立しない。
ね、かなり複雑な構造でしょう?
サラッと見ていると、モヤっとするのは、ここなのですね。
これを描かずに、観客に読み解かせるのは、なかなか高度な手法かと思います。
とはいえ、この映画の随所で、こういった直接描かず、構図や絵や演技で観客に想像させる、読ませる
(匂わせる)技法は散りばめられてありますよね(!)。 読み解けるはず。
これは安易に、作家の説明不足、力量不足と安易に捉えてしまうよりは、
むしろ、敢えて描くことをしなかった、作家の意図を鑑みるべきで、
監督が観客の想像力や教養に期待している、ということですよね。
このあたり、やっぱり、アナログ人間なんだなあと感銘を受けます。
(・・なんでもかんでも台詞でわかりやすく説明してしまう昨今の鬼・・いや、やめようw)
台本上、「すず」が現実の激流に身を投じ、無事に帰ってくることで、
作家のテーマ的にはちゃんと成立しているのですが、
(ここも対比で、生きて帰ってこれたのがすずで、生きて帰ってこれなかったのが母親です)
どうしてもモヤっとしてしまうのは、やはり、「ネットを解けるべき魔法」としてしまったことの弊害で、
たとえば、最後に、再びすずが成長した姿で、新世界のディーバとしてデジタル世界へ繋がりなおし、
そこでアクセスする全世界の人すべての救済が、彼女の歌によって成されるような展開があれば、(そうなるともう宗教ですね、ますます「ナウシカ」になってしまいます)
竜の家族が、そこで救済されたり、傷の癒えた竜と姫が再び抱き合うような、それを全世界の人が、祝福できるような、
そんな昇華されたビジョンが、デジタル世界とアナログ世界の融合が示されないと、
どうにも、今作における「救済」が、デジタルを通じた全世界まで及ばない気がするのです。
ドラマ的にはご都合主義的ハッピーエンドかもしれませんが、
リアル世界に根ざさない形の、未だ見ぬ、新たなハッピーエンドが、
デジタル時代ならではの、新たな救済、新たな切り口や、可能性もあったように思います。
昨今の、SNS上の炎上的な描写(竜の城など文字通り「炎上」させられる・・この意味!)、
心無い書き込み、ネットゲーム的な表現、過度な叩き行為、アバターと中の人のギャップなど、
社会的問題も含め、上手に取り上げてあったのですが、やはりどこか、
デジタル世界や、新しい世代の価値観は、どこか否定的なまま終わってしまったのが、
非常に残念でなりません。
(というのは、この監督が新しいと信じている感覚が、既に古いから、なのです・・
映像的手法はとてつもなく新しい、が、リアルとデジタル空間を分けたり対比させたりする感覚が、もうかなり古いのですね。
今はもう、それらの境目は極めて曖昧になっており、地続きというか、癒着して、説明しきれない、
まったく、訳のわからない混沌化したものになっており、
従来の価値観や正しさでは測れない、新たな物理法則が発生しているからなのです。
一方、作家の根底はリアルに根ざした古き良きもののままなので、
デジタル世代との感覚の差は大きく、これを「作家性」としてゆくなら、今後、細田作品は
高齢者向けの懐古主義的な作品となってしまう、
しかし、描こうとしている内容は、そこを目指している訳でないのは明白であり、
現代を汲み取ろうとしている方向性なので、頑張ってほしいのですが、
どうしても若者ぶったおじさん構文が横滑りしてしまっている感触は拭いきれません。
この作家性の壁は非常に大きく、デジタル世代とリアル世代の隔絶した社会問題そのものに挑むことになり
年長者には、一度、これまで積み上げてきた成功体験やキャリアを捨てる覚悟が必要であり、
並大抵ではないと感じております。そういう意味では、 非常に期待しております)
映像も音楽も非常に美しく、本棚にいつまでも飾っておきたい絵本のような作品なだけに、
もっと寓話的に美しい終わり方があったのではないかと、つい期待してしまうのは、
もちろんこの作品が、非常に良質な佳作だったからでしょう。
私は大好きです。