片袖の魚のレビュー・感想・評価
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【トランスジェンダーのささやかながらも、確かな一歩を踏み出すまでを描いた短編。】
■今作のフライヤーを見ると、東海林毅監督は2007年「23:60」2019年には「ホモソーシャルダンス」「帰り道」という全く違ったテーマで短編を発表している。
◆感想
・主人公のトランスジェンダー女性の新谷ひかりを演じたイシヅカユウという方は演技初挑戦だそうであるが、申し訳ないが余り惹かれない。
・今作は、ひかりが高校の同級だった男性達及び多分、ひかりが好きだったと思われる男性久田と会うのだが、彼は今度父になると言って皆を驚かせる。コーキと言う男子生徒だったひかりの女性になった姿と同じように。
・そして、宴が終わった後に久田がサイン入りのサッカーボールを渡し”又、会おうぜ!”と言うのに対し、彼女はボールを久田にぶつけ、東京に戻り颯爽と歩くのである。
<感想としては、各キャラがもう少し立って居たらな、とは思ったが、ナカナカな作品であるとは思った。今度、同監督の「老ナルキソス」を見てみよう。>
無意識の差別
この映画のレビューを読んでると、マイクロアグレッション(無意識の差別)という言葉を目にした。登場する人物たちで悪意のある人はいない。でも、彼らが普通に性同一性障害の主人公接するのは、無意識の差別で溢れていて、こんなにも生きづらいのかと分かった。
時間が短いので、いろんな人に観てもらいやすい。
題材を考えると、それが重要なのでいいと思う。
性同一性障害の人が日常的に浴びせられる差別的発言を観客も当事者のように感じるのは、とてもよかった。
水槽の中の魚のようにうまく泳げない、普通の人間じゃない自分は普通に泳げないと感じているんだろうな。
たくさんの人間が普通に泳いでるように感じる。寂しさや悔しさが伝わってきた。
映画の切り抜きを観てる気分だったので、内容はいいものの、全体としてのストーリーは感じず残念。
説得力ある短編、トランスジェンダーである主演がもたらす我々への気づき
これがリアルなんだろうな、という所感をくれる短編。アプローチが独特で深く入りにくかったが、気づきをくれる良い短編だった。
トランスジェンダーということが理解されている現場で、好きな仕事をしているヒカリ。ごくごく自然に生きているので対した違和感はないのだが、話の節々で触れられたときに生まれる軋轢が彼女にとってノイズとなり反響する。ストレートの人の聞き方に配慮がないこともないのだが、同級生たちとなると距離が近かっただけに気持ち悪く思えてくる。ある種道徳のように、相手に対してのやり取りからこちら側の配慮をする必要を再確認した。こうした気遣いも苦しく思われるとやりようがないようにも思えてくるが…。
イシヅカユウの生き方がカッコよく思えてくる。トランスジェンダーを扱う映画が増えてきた今、当事者だからこそ出せる説得力もあるように思えた。
「オジサンから見た女装」映画..
始めに、作品が持つ背景を抜きにした映画単体としての感想は「物語も演出も演技も稚拙な短編映画」ですかね。
「トランスジェンダーになるとこういう事が起こりますよ」を並べただけのデモ映像という感じでした。
劇中で起こる出来事それぞれに物語的繋がりはみられず、その先に何か展開がある訳でもありません。
ではそのぶつ切りの「出来事」単体で何か訴えかけてくるものがあるかと言われても、巷で既に知られてる「トランスジェンダーあるある」レベルなので特にそれもありません。
観た後に残るものが無いです。
役者の演技の拙さもそれに拍車をかけてるのは明らかでしたが、そこには製作者の狙いがあるそうなので後述します。
ここからは作品の背景込みの感想になります。
この作品が作られた経緯は、1年前に公開され日本アカデミー賞を受賞した「ミッドナイトスワン」から語らざるを得ないでしょう。
当時、草薙君がトランスジェンダー役を演じる事で話題になった「ミッドナイトスワン」ですが、一部の当事者や活動家からは批判があった様です。
「トランスはいつも不幸な役回りばかり」
「いつもシスジェンダーの役者がトランス役を演じるのはおかしい」
「草薙君のトランスの演技は当事者を馬鹿にしている」
「トランスの人々の描き方が実体験に則していない」
といった批判が主でした。
それらの批判が的を得ているかは置いておくとして、本作の監督である東海林監督もそれに同調し「ミッドナイトスワン」を批判した上で、自分で「当事者によるトランス映画」を作る決心をした様です。この辺りの経緯は東海林監督のTwitterで確認できます。
ここで疑問なのは、「当事者性」を気にする割には東海林監督自身が当事者ではない事です。
インタビュー記事によると東海林監督はシスジェンダー男性のバイセクシャルであり、その属性は実はトランスとはなんの関係もありません。(LGBTとよく一括りにされますが、L、G、B、Tそれぞれ全く違いますし、LGBは性指向の話であるのに対してTは性自認の話です)
「トランス役は当事者に」という考え方は議論の余地こそ十分にありますが、言い分は理解はできます。
しかしその論理で行くなら、監督こそトランス当事者であるほうが理念に則すのではないかと思います。
「ミッドナイトスワン」に「非当事者性」を見出し、批判をした上で作った割には主張に一貫性が見られず残念でした。
また、その弊害は本編にも表れており、
「ひかりが帰郷する前に、女性物の服や靴を鏡の前で当てがって微笑むシーン」が長めの尺で挟まれるのですが、どうしても「オジサンが勝手に想像した“女の子らしい”行動」にしか見えないんですよね。
仮にひかりが身体違和からトランスしたのであれば”女性物の服“に対する拘りだけで当事者性を表現する事は不適切です。
監督が「ジェンダー」と「セックス」を混同している様に見えました。
最近では”トランスジェンダー“は「アンブレラターム」で、性同一性障害だけでなく趣味の女装の人も含まれるそうですから、あのシーンも「女装好きな人」として見れば理解は出来なくもないですが..
丁寧に描いてるつもりが描き切れていない点に、監督が非当事者が故の解像度の低さを感じました。
その辺は、批判されていた「ミッドナイトスワン」の方が丁寧に描かれていたと思います。
またこの映画のメインディッシュとも言える「トランスジェンダーならではの出来事」も紋切り型で、特に深みも感じませんでした。
活動家の畑野とまとや三橋順子を筆頭にヒアリングを重ねていた様ですが。
当事者から様々なエピソードを引き出し、物語に落とし込んでいた「ミッドナイトスワン」の方がこの点も優れていました。
本作は製作決定後、「日本映画史上初のトランス当事者のみのオーディション」を開き、その結果主役の座を勝ち取ったのがイシヅカユウさんでした。
トランス当事者からのみの選考となると、競争率も落ちるでしょうから、演技の拙さにも納得がいきます。
p.s. 同窓会の後にひかりがボールを背後からぶつけるシーン、男友達達はひかりにとって嫌な事をしたかった訳ではなく、この映画のテーマでもある無自覚な加害性(マイクロアグレッション)を持っていただけなのに対し、ひかりは「背後からボールを投げつける」という明確な加害性で答えるのは脚本としてどうなんでしょうね。
無自覚な非当事者からすれば突然の暴力ですし、客観的には男友達側が被害者です。
「明確な加害性に至る程に抑圧されているんだ」と言いたいにしても、アレではトランスジェンダーの危険性しか伝わらないのではと思いました。
この監督自身が社会へのメッセージとして映画を作ってる節もあるので突っ込まざるを得ない..
本来なら“ただのワンシーン”で済ませれるんですが..
原作を読みたい
トランスジェンダーの主人公が周囲からの言動に傷ついたりするが、たぶん主人公役の人はプロ俳優ではない当事者でしょうか? たどたどしい演技力で周囲の役者とのギャップが目に付いて残念だった。原作は読んでいないが、原作を一度読んでみたいと思った。
水の中
トランスジェンダーの主人公が世間や知人からの言動に悩む話。
東京で「魚関係」の仕事をする体は男性、心は女性で女性として暮らす主人公が、仕事で久しぶりに地元へ帰り、昔の仲間と会うことになるストーリー。
自分はトランスジェンダーではないけれど、あまり語られたくない過去の出来事や、思いや痛みはあって然るべきで、直接描かれていることとはイコールではないけれど、感じるものはあったしなかなか良かった。
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