ミークス・カットオフのレビュー・感想・評価
全6件を表示
メインディッシュのないフルコースを食べた気分
最初から最後まで緊張感の連続。ただ、なんというラスト。後は見た人にお任せということなのか。
女は混沌で男は破壊。生命の木♥
女は混沌で男は破壊。されど
この映画に登場する人物は善人ばかりなり。
三回目の鑑賞。最初は寝てしまって、二回目を見て、アレ?
三回目でそうだよね。って感じかなぁ。
オルゴントレイルで、アルカリの湖。自ずとそうそうしたが、その点もキチンと忖度して、描いていた。それで良いと思う。
日本で言えば、満蒙開拓団みたいな人達。南北戦争開戦前だが、オレゴン州はアメリカの準州だった。このあと、ゴールドラッシュとかが起こる。
郷に入っては郷に従えというが、その郷は奪い取った郷。
そして、彼らの運命は、結論へ急ぐ必要は無い。最初の表題に描かれた木を見てそれが最後に。そして、
『カットオフ』を訳せば自ずと理解できる。
そしてそして、大サービスで台詞まで。
追記
ここでは『アダムとエバ』と言っているので、この集団はイギリス人の集団だと思う。イブも英語読みだろうが、元々ヘブライ語なので、エバの方が古い言葉。よって、イギリス人だと思う。また、エバは生命とも訳されるみたいだ。かけ言葉の好きなアメリカ人は詩的にそう言ったのかも。
追記 エデンの東 に対するアイロニーか?彼女達は基本的に西に向かっている。映像の演出も日中は進行方向左側から光が指している。
1845年、開拓時代の米国オレゴン。 先導役の男に従って、三家族の...
1845年、開拓時代の米国オレゴン。
先導役の男に従って、三家族の幌馬車が牛や馬、ロバとともに川を渡っている。
女たちは、鳥かごや衣類などを頭に載せている。
川は深く、胸近くまで水が迫っている。
丘にあがった一向にひとりいる少年は聖書を読んでいる。
楽園を追われたアダムとイブの物語・・・
夜になり、男たちがなにやら話し合っている。
先導役のミークをやめさせるかどうか。
ミークは道に詳しいと言っていたものの、どうやらそれは嘘らしい。
このままでは、移民団を離れた我々は西部にたどり着くどころか、その前に野垂れ死んでしまうのではないか、と・・・
といったところからはじまる内容で、60年代あたりまで頻繁に作られた西部開拓史モノのようなスタイルだが、ハラハラドキドキのエンタテインメント西部劇とは対極に位置する。
なにせ、ケリー・ライカート監督だからね。
とはいえ、そのうちにハラハラすることにはなるのだけれど。
さて、そんなインディペンデント映画にもかかわらず、俳優陣は豪華。
先導役のミークに、ブルース・グリーンウッド(髭面で、まるで表情は見えないけれど)。
リーダ格のテスロー夫妻は、ウィル・パットンとミシェル・ウィリアムズ(映画の中核はテスロー夫人)。
年かさのホワイト夫妻は、ニール・ハフとシャーリー・ヘンダーソン(息子ジミー役は、トミー・ネルソン)。
年若いゲイトリー夫妻は、ポール・ダノとゾーイ・カザン(『ルビー・スパークス』のコンビだ)。
そして、中盤以降に登場する先住民族(インディアンと表記、発音されている)役に、ロット・ロンドー。
これが出演者のすべて。
さて、一行は西に向かっているが、飲料水も乏しくなっている。
テスロー夫人は、「何も知らないくせに、先に来た者だ、なんでも知っている、と嘘をついたことが許せない」として、ミークを嫌い、信用していない。
するうち、荒野で先住民族の男性と出くわす。
男は逃亡するが、ミークとソロモン・テスローにより捕縛される。
危険な男だ、と言い張るミークをよそに、ソロモンは先住民の男に先導させることを提案、他の家族の夫たちも承諾し、先住民の先導で旅が続けられることになった(正確には近くの水場までの案内であるが)。
この中盤から、ある種のハラハラ感が醸成されていきます。
夜間、これまでは無音の闇の荒野だったのが、先住民男性の言葉が低く響き渡り、その声にテスロー夫人はある種の不安を覚える。
移民団から離れたのは間違いだった・・・
いや、そもそも、こんな異国の、何もわからない無明の土地へやって来たこと自体が間違いだったのではないか。
楽園を追われたアダムとイブと同じではないのか・・・
一向に水場に到着しないこと、その上、行く先々で、先住民男性が壁画様の痕跡を残していることに、ゲイトリー夫人は極度の不安に怯えるようになる。
わたしたちは、先住民の一団に襲われ、皆殺しにされる、と。
いずれも、未知なる土地・未知なるひとに対する不安からくる恐怖なのだが、テスロー夫人は先住民男性に悪意がないことに気づき始める。
それに対して、ミークはいつまでも「危険な男だ、危険だ」と先住民への恐怖を煽っている。
終盤、先住民男性は丘の上で、ひとつ向こうの丘を指さし、天を仰いだりしながら何かを叫んでいる。
テスロー夫人は、それを「向こうの丘を越えたら水場がある」と解した。
(先住民男性の言葉には、日本語はおろか英語の字幕もないので、実際に何を言っているのかは正確にはわからないが)
急斜面を慎重に下したが、幌馬車三台のうち、最後に下したテスロー夫妻の馬車は抑えが効かず、大破してしてしまう。
荷物を分散して、歩を進める一行。
先導するのは先住民男性だ。
やがて、一行の前に、一本の樹が現れる。
荒野の真ん中に。
それはアダムとイブが追われた楽園にある「生命の樹」のようにも見える。
テスロー夫人は、先導した先住民男性を見つめる。
彼はまだ荒野を歩いていく、その後姿を。
わたしたちを導いてくれる者は何者なのか?
キリスト教でいうところの神なのか。
もしくは、文化的な先人なのか。
それとも・・・
20世紀を超えて21世紀に入ったわれわれの道程は、誰に導かれてきたのだろうか。
驚嘆すべき傑作でした。
眠くなる
ケリー・カーライト特集を全部見たのだけど最後の最新作は、美しい景色をゆったりと描きアートに寄りすぎで眠い。ドラマの結末も不明瞭だ。荷物を積んだ馬車が坂を転げ落ちてつぶれるのがつらい。
インディアン、嘘つかなーい。
製作は2010年。ミシェル・ウィリアムズはすでにビッグ・ネーム。ブルース・グリーンウッド、ウィル・パットン、ゾーイ・カザンとポール・ダノ夫妻にシャーリー・ヘンダーソンですと?この地味にリッチなキャストには驚きます。
コロンビア川を北にする位置関係から「オレゴン準州」が舞台。時は1845年で、保留地に先住民を閉じ込める事を決定したインターコース法の設定後ながら、インディアン戦争が北米大陸北西部に飛び火する直前と言う時期。この「微妙」な時代設定は、まんま映画のシナリオに直結します。
ちょっとだけ脱線。
1836年、テキサスでコマンチ族に連れ去られた9歳のシンシア・アンは、25年後、コマンチ族の村を襲ったテキサス・レンジャーによって保護されました。彼女は成長し、コマンチの村で結婚し、二男一女をもうけて暮らしていたのです。保護から数年後、彼女は息子たちとの再会を果たすことなく病死したとされています。
で、ここからが本題。
時は過ぎ1875年の事。抵抗をあきらめた最後のコマンチ族は、騎兵隊に投降しました。そのリーダーであるクアナが「私の母はシンシア・アン・パーカーである」と告白したのです。クアナは身長190cmを超える屈強な身体の持主であるだけでなく、政治的な能力にも長けた男だったそうです。彼は、時の白人たちが求めている「インディアン・リーダー像」を理解し、演じきりました。先住民と政府の仲介役として活躍し、政府がインディアンに与えた土地を、再び白人に貸し出す事で経済的利益を得て、財を成したそうです。この「インディアン利権」は、今も民主党に引き継がれており、選挙地盤の一つになっている訳です。とは言いながら、クアナ・パーカーは、インディアンの地位向上のための活動に生涯を費やしたそうです。
でですよ。そのクアナが近親者に明かしていた本音が興味深いんです。
「インディアンを差別する白人よりも厄介なのは、進歩的で友好的な白人だ。彼らは、善意を振りかざして我々に近づき、子育てや教育に介入し、インディアンの文化や信仰、言語、家族を破壊しようとする」
映画の中で、ソロモンはエミリーに向かって言います。
「ミークが嫌い過ぎて、大事なものを見失っていないかと思って」
ミークのウソが許せず、その尊大な態度も受け入れられず、エミリーはミークを心底嫌っています。捕虜にしたインディアンは、道案内として利用価値があるから水と食べ物を与える。信用しているわけでは無い。これがエミリーの本音。
最終的に樹木を発見した一行。ミークは「今後テサロー夫妻の言う事に従う」と服従の意を表明。ラストカットは、更に曠野を進もうとするインディアンの姿です。
当時のアメリカは、インディアンの絶滅政策の末期ですが、その利用価値に気づいた人々の声も大きくなって来た時期。絶滅政策の推進者は淘汰されて、新興勢力に取って代わられましたが、居留地への移送は実行されます。
Meek's Cutoff は「暴力の時代の終焉」を言うのか。
一見、進歩的で友好的な白人の「傲慢な本音」への皮肉なのか。
一筋縄ではいかない、このテーマ。三家族と一緒に西部を旅している気分になる事で、インディアンを信じる?信じない?の自問を繰り返すうちに、最後は「誰が信じられると言うのですか?」と、軽い絶望とアキラメを押しつけられると言う。
そうなんです。これ、ウェンディ&ルーシー と共通しているんですよね。
ケリー・ライカールト監督には、まだまだ撮って欲しいし、人権屋が善人面してのさばる今こそ、「出番でっせ!」って言いたい。
良かった。結構。
全6件を表示