「能動的な鑑賞が必要な映画」ドライブ・マイ・カー SP_Hitoshiさんの映画レビュー(感想・評価)
能動的な鑑賞が必要な映画
まぎれもない名作。
また、映画館で観るべき映画。
邦画だからテレビでいいかなー、とちょっと思ったが、映画館で観て良かった。
ただ、ある意味で難解で、観る人が映画に何を求めているかで全く評価が違ってしまう映画とも思った。観る人を選ぶ。
村上春樹はほとんど読んだことが無いが、この映画はすごく文学的であり、原作もこんな感じなのだろうな、と思った。
それにしても長い! 序章にあたるところが終わるところでオープニング・クレジットが表示されて、軽く混乱した。あまりに序章が長くて、「もしかしてこれエンディング・クレジット?」と思ってしまったからだ。
この映画は「演劇」をテーマにしているが、この映画そのものが演劇的なところが面白い。謎めいたストーリー、謎めいたセリフや行動、それらの意図は映画の中ではほとんど示されない。意図は鑑賞者が考えながら、感じながら、感覚をとぎすませながら観るしかない。そして一瞬でも気を抜いてしまうと、映画への関心を維持し続けることができなくなってしまう。映画鑑賞に対してきわめて能動的な態度が求められる。
音(おと)が夢うつつに語る物語、チェーホフの脚本が奇妙に現実のできごとや主人公の内面にリンクしている。まるでフロイトの夢診断のようだ。
演劇、文学というものの本質は、その物語の中に自己を投影し、何らかの答えを得ようとすることなのかもしれないな、と思った。
僕は昔から「聖書」という存在がどんな風に信仰者の支えになっているのかピンとこなかったのだが、この映画を観てそれが分かったような気がする。聖書の中で偶然目にとまった一句が、まるで神からの啓示のように感じることがあるはずだ。そういう形で信仰者は自己の内面を見つめることで神と対話するのだろう。
演劇者にとってたぶんチェーホフの戯曲は、まるで聖書のように、豊かな奥深い示唆を含む、特別なものなんだろう。
ただ、ぼくは残念ながらチェーホフの戯曲を読んだことがないので、この映画の登場人物たちにいまいち共感できなかった。主人公のやっている「多言語演劇」の何がすごいのかまったく分からないし、彼らの演じる「ワーニャ叔父さん」も面白いと思えなかった(少なくともお金だしてこの演劇を観たいとは思わない)。なんか徹底的に芸術を追及しててすごいな、って思うくらい。
この映画は「こだわり」を手放していく過程、傷ついた主人公の再生の物語とも読める。「車」は妻への思いそのものの象徴であり、主人公は車を他人に運転されること、車を粗雑に扱われることを異常に嫌がる。
しかし、避けていた妻への自分の本当の思いに向き合うことで、徐々に自分の気持ちを解きほぐしていく。ラストシーンでは、ついに主人公は車への執着から解放されたことが示唆される。
個人的に不満だったのは、高槻が車の中で長語りをするところあたりから、この映画のリアリティ・ポイントが変わってしまったように感じたところ。ここまでは映画の世界観はぎりぎりのリアリティを保っていたと思うのだが、このへんから妙に演劇的になってしまって、「こんなん現実でありえんやろ…」と思ってしまうシーンが多くなってしまった。一人の人物が会話もせずに演劇の脚本を読むように語るってのは現実にはそうそうない。
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追記
主人公の演劇論について、謎が多いので自分なりに自由に想像して考察してみた。もしかしたら全く的外れかもしれないが…。
まず、「感情をこめずに台本を読む練習」が出てきたが、これはいったい何なのか?
おそらく、役者が演じようとして演じることを矯正するためなのではないか?
映画に「うまく演じようとしなくていい」というセリフがあった気がしたが、まさにこれは演劇に限らず、あらゆる表現に共通する普遍的なアドバイスだと思う。僕自身、スピーチにしろ、プレゼンにしろ、文章にしろ、何らかの作品にしろ、「うまく〇〇しようとしなくていい」というアドバイスを何度諭されたか分からないほど批判されたし、僕自身も他人にこの言葉を何度も繰り返し言っている。
「『うまくやろうとする』ということが意識されている」、ということは、そこには演じようとする役者と演じられるキャラが分離しているということだ。観客はそこに、「うまく演じようとしている役者」をみるのであって、「キャラ」そのものをみているわけではない。
「演ずる意図をせずに演じること」の重要性はとてもよく分かる。僕は映画を観るとき、できるだけ役者の存在を意識したくない。無名の役者しか出てこない映画が理想だ。もし有名な役者が出ていると、どうしても「演じている」ということを意識してしまい、映画の世界に没入しにくいからだ。
役者が脚本を完璧に記憶し、自分自身を完全に捨て去って(忘我の境地となり)、脚本に対して何の意図ももたず、まさに操り人形のように演じたとき、そこにキャラそのものが立ち現れる…、これが主人公の演劇論なのではないか?
別の見方をすれば、これは役者が自分自身を空っぽにして、そこにキャラを「憑依」させているのだといえる。演劇の起源の1つとして、シャーマンが神や精霊を自身に憑依させる神楽のようなものがあると思うが、そういった考え方に近い。
主人公は妻の死後、「ワーニャ叔父さん」の役ができなくなったというが、これは、数々の悲劇にさいなまれ続けるキャラに主人公自身が過剰にシンクロし、演劇と現実の切り替えができなくなってしまうせいだと思う。
では、主人公のやっている「多言語演劇」というのは何なのか? 多言語演劇の面白いところは、役者どうしは相手の言っていることを理解していない、ということだ。少なくとも、理解する必要はない、と主人公は考えている。
それでも演劇が成立しているのは、脚本が完全に決まっているからだ。役者たちは決まったセリフを言うだけなので、相手の言葉を理解している必要はない。
ここからはほぼ完全に僕の妄想だが、多言語演劇というのは、現実世界の暗喩なのではないか。我々は他人とコミュニケーションしているつもりでいるが、実は全くコミュニケーションなどしていない。していると思い込んでいるだけ、相手の言葉を理解しているつもりになっているだけだ。
多言語演劇のある種のいびつさ、というか、不完全さ…、それを観客が観たときのいらだちや不便さの感情というのは、他人とは実は永久にコミュニケーションがとれないものなのだ、という絶望的な孤独感や、それでも不完全なまま世界が動いて進み続けているという、不安定感と同義のものなのではないか。
さて、最後の謎、主人公の多言語演劇と、音(おと)の夢うつつにおりてきた物語は、どういった意味で「同じ」だと言えるのか? それは、物語に「意図」が存在しない、ということなのではないかと思う。少なくとも「意図」を求めない、ということではないか。
音の物語はもちろん、音が考え出したものではない(おりてきたものだ)から、意図などは存在しない。しかし意味がない、ということではない。いや、意図がないからこそ、そこに無限の意味を見出せる、ともいえる。物語は観客に意図を押し付けない。しかし観客は自然にそこに自分の内面を見てしまう。音の物語の魅力はそこにあるのではないか。
そして主人公の多言語演劇もまた、注意深く意図を排除しているように思える。そこには頭から終わりまで一字一句チェーホフの戯曲が再現されるだけであり、いかなるアドリブもなく、ある意味で全く機械的な複製の作業をしているにすぎない。しかし意図が無いからこそ、やはり観客はそこに無限の意味を見出しうる、といえる。そしてその無限の意味を見出しうるほど豊かな内容をチェーホフの戯曲は内包しているのだ、と主人公は考えている。
ちょっと飛躍しすぎかもしれないが、考察終わり。