「語るための装置・儀式」ドライブ・マイ・カー 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
語るための装置・儀式
先日アッバス・キアロスタミの『桜桃の味』を鑑賞して、改めてイラン映画のナラティブの力強さに驚いた。誰もが語るべき何かを持っているし、それを誰かに語ることを厭わない。
こういう傾向は私の好きなラテンアメリカ文学の中にも往々にみられる。ガルシア=マルケスの『コレラの時代の愛』なんかはまるで親戚のオッサンが酒の席で披露する長い長い昔話みたいで、素気なく聞き流そうとしていたはずがいつの間にか聞き入っている。ジュノ・ディアス『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』なんかもよかったな。
『ドライブ・マイ・カー』を観て思ったのは、日本人はナラティブに強い躊躇があるということだ。語るべきことはたくさんあるのに、それを語る術を持たない。それゆえ他者とのすれ違い、断絶、そして死。
だから語るための装置や儀式が要る。それらを介してナラティブを始動する。本作では車や演劇がそれに該当するのだと思う。そして紡ぎ出されたナラティブは人と人を繋いでいく。
この構造は村上春樹の小説の中でも頻出する。超現実的な媒体を経由した関係性の接続。井戸、入り口の石、祠。
私も人に何かを直接語ることが苦手だ。フォーマルな自己紹介から始まった人間関係が持続した試しがない。それより飲み会の方が好き。飲み会は本当のことを語ることを強要されないから、どうでもいい話を介して本当のことを語ることができる。今いる友達なんかだいたいよくわからん飲み会で出会ったなそういえば。
日本人は奥ゆかしいとか大人しいとか言われがちだけど、それは語るべきものを持っていないということではない。ただ、どう語ればいいのかわからないだけ。
他者を大切に思う気持ちと、適切な媒体さえあれば、誰もが何かを語り出すことができるに違いない。イラン人だろうが、コロンビア人だろうが、日本人だろうが。
ちなみに、本作を観に行くために何か予習をしておきたいとしたら、村上春樹の原作よりもチェーホフ『ワーニャ叔父さん』を読んでおいたほうがいいと思う。かなりダイレクトに関わってくるので。