「村上春樹さん作品にはよくある 本編には関係ない”こだわり”=ザ・ビートルズ」ドライブ・マイ・カー YAS!さんの映画レビュー(感想・評価)
村上春樹さん作品にはよくある 本編には関係ない”こだわり”=ザ・ビートルズ
原作は読んでいないし、劇中劇である戯曲「ワーニャ伯父さん」も知らないが、
本作は村上春樹さんの小説を1字1句残さず、セリフの間さえも的確に描写している"ザ・村上文芸作品"の匂いがした。
キャスティングもイメージどおり。
2時間程度の短絡的な作品が多い現代映画界である甲子園にプロのピッチャーが投げてしまった映画。
原作・脚本力はピカ一だ。
人と人は「言葉に関係なく、うまくコミュニケーション=和をもつことができる」という表現目的である多言語演劇の
劇中劇では舞台頭上に長々と字幕が出る。
これは形だけの説明であり、こんな長文をいちいち読んでいては 劇を真剣にみることはできない。
あくまで多言語演劇を観るには予習が必要で、
その予習を確認しながら この劇を観る事を 演出家は期待している。
同じように、変化を嫌い 繰り返しを好む主人公は 車の中で元妻のカセットを何度も繰り返して聞く事で、いつも安堵する。
舞台練習に対しても、机に座った本読みばかりを行い、セリフを繰り返し繰り返す事で、言葉を体に沁み込ませる手法をとる。
これは予測されている事を確実にこなす事を重視するのであって、予期しない変化は断じて認めない事でもある。
だから主人公は妻の不貞=変化も観て見ぬふりをし続け、役者として気づかない演技をし続けてしまった。
この映画は長い。重要なのは 時間だけではない
これを理解できないと この映画は苦痛になってしまうかもしれない。
途中であきたのか? 隣のおじさんが 途中「あーーー、うーーーー」と煩かった。
情熱的な色をした車は主人公の妻=音(おと)であり、
それは主人公だけのもの
主人公 家福(かふく)は自分でその車を運転する事にこだわるが、
演劇主催者により、運転席の座は強引に取り上げられてしまった。
最初は車と主人公の間に入ってきた運転手である"みさき"との間に壁を作っていた主人公も、
ある日、心を落ち着かせる為に、いつもより長くカセットを聞きたかっただけのドライブをとおして、副産物として、みさき を理解出来るようになり、同化さえしていく みさき に車を託して、共有する気になる。
それは2年という単なる時間の消費だけでは解決できなかった想いを
ただ時間をかけるだけでなく、
相手を理解する事の大切さを知る事。
故に車で座る席も、傍観者的であった後部座席から、助手席に代わり、主人を待つ間にもその席に座る事を許す事になる。
自分の車は自分だけが、運転するものではなく、「他の誰かにも運転させる」 そう言うもの そう理解する。
同時に舞台では、自分の立場に近かった役を演じられないとしていたが、
妻との間に入ってきた男を理解することで、
同じように妻を理解でき、その役も演じる事ができるようになった。
そして妻の象徴でもあった車さえ、最後は みさき に完全に託す事ができるようになる。
呪縛から解放されたのである
なぜ みさき の故郷が北海道なのか、監督に聞いてみたい。
広島ならば、距離的には新潟あたりがよいのではないだろうか?
それ以上に 家福さんが住んでいた 東京の手前で高速を曲がるような場所である 山梨とかの方が、主人公の心の整理と葛藤を裏表現できて、的確なのではないだろうか?
答えを求めていた恋敵である高槻は現実と似た役柄である"妹の元旦那”を求めていたのに、
主人公は現実には自分と似た立場である"妹の兄(叔父)"をやらせたのだろうか? 脚本家に聞いて確認してみたい。
帰り際によく見ると、隣の席ははおばさんだった。
この映画を観たら「ノルウェイの森」を やはり観る冪なのだろう。
また、文芸作品としては何度も映画化されている「伊豆の踊子(1974年他)」もそれぞれ比べてみると良いと思う。